プロローグ:黄昏の始まり
物語の始まりは、英雄譚らしいきらびやかな場所ではなかった。
一人の男が、自分の無力さだけを抱えたまま死んだ夜だ。
その男は、誰か一人すら救えなかった。
心に残ったのは、届かなかった手と、言えなかった言葉と、「もう遅い」という現実だけ。
それは呪いにも似た後悔として、魂の底に沈んだまま終わるはずだった。
──はず、だった。
魂は知らぬ世界で目を覚まし、少年レン・ヴェリタスとして再び歩き出す。
だが、世界は優しくやり直しを用意してくれたわけではない。
彼の魂には、二つの「力」が刻まれていた。
ひとつは、誰かが瀕死に追い込まれるたび、その魂が味わう痛みと絶望を、自分のことのように追体験させられる回復魔法。
救おうとすればするほど、自分も地獄に引きずり込まれる、救済と拷問が同じ顔をした力。
もうひとつは、仲間の元へ、一歩でも早く辿り着くための空間魔法。
届かなかった過去をなかったことにするかのように、距離という壁だけは壊してしまう力。
どちらも、英雄には便利な才能だ。
そして同時に、臆病者にとって最悪の罰でもあった。
この世界は、五百年前の「大断裂」で裂けたままだ。
世界の法則に開いた傷口から、現実を侵食する巨大な迷宮〈ダンジョン〉が生まれ、大陸のあちこちに根を下ろしている。
王都アステリアの地下にも、その一つが口を開けていた。深淵の迷宮と呼ばれる、終わりの見えない怪物の巣だ。
魔物を狩り、迷宮を探り、世界の歪みを測る者たちがいる。
冒険者。
王国法の外側に立つ、「必要な時には頼られ、邪魔になれば切り捨てられる」便利な歯車たち。
レンは、その歯車の一つとして育った。
ただし彼が選んだのは、「英雄」のように前に立つ道ではない。
誰も瀕死にさせないために、誰も自分の回復に頼らせないために、
仲間の位置も、敵の数も、逃げ道も、全部数式に落とし込んで制御する道だ。
感情を削り、可能性を削り、危険を削り、最後に残るのは「無傷での帰還」。
それだけを正解とする、冷徹なシステム。
彼が率いるBランクパーティの名は、『静寂の歯車』。
個々の腕は一流だが、過去の失敗と罪悪感のせいで噛み合わなかった三人の冒険者。
そこにレンという指揮官が加わり、「友情ではなく契約で動く完璧な連携」という形で、ようやく一つのパーティとして回り始めた。
彼らは依頼を受け、迷宮に潜り、異常を観測し、ときにイレギュラーと呼ばれる怪物を退ける。
そして、ほとんどいつも同じ結論で帰還する。
──負傷者なし。
それは称賛であり、同時に不気味さの証明でもあった。
「いつも無傷だ」
「まだ生きてる」
「関わるな」
ギルドの酒場で囁かれるのは、羨望と畏怖と、少しの嫌悪が混ざった声。
彼らの背中に向けられる視線は、感謝より先に「理解できないものへの警戒」を含んでいた。
レンは知っている。
自分のやり方は、どこか歪んでいる。
仲間を「守る対象」として計算に組み込みながら、彼らの「心」にはできるだけ触れないようにしていることを。
誰かを本気で大切にしてしまえば、その人が瀕死に沈む瞬間、自分の魂ごと引きずり落とされる。
過去に、一度それで壊れかけた。
だから彼は、自分の足元に線を引いた。
「仲間は守る。だが、深入りはしない」
優しさと臆病さの境界線。
その綱渡りの上でしか、自分は戦えないのだと、固く信じている。
それでも世界は、わざわざ線を踏み抜かせてくる。
王都の地中で、迷宮の鼓動がわずかに乱れ始めた。
地下深くのどこかで、魔素の流れが逆流し始めているという報告が、ギルドの机の上に積み上がる。
最初は、ただの「誤差」として片づけられた変化。
けれど、その小さな誤差は、やがて王都近郊の異常地帯と、深淵の迷宮の奥底で、一つの線に繋がっていくことになる。
そのとき、レンはまだ知らない。
自分が求めた「誰も死なせない完璧な指揮」が、いずれ「誰かの死を代償にしなければ届かない地点」と正面からぶつかることを。
自分の回復魔法が、本当の意味で「救い」になるためには、一度、どうしようもない喪失を受け入れなければならないことを。
これは、英雄になりたかった男の物語ではない。
英雄にならざるを得なかった、一人の臆病な男の物語だ。
守りたいのに、触れるのが怖い。
救いたいのに、壊れたくない。
そんな矛盾を抱えた男が、王都アステリアのギルドカウンターで、受付嬢に向かっていつものようにこう告げるところから、この物語は始まる。
──「負傷者なし。依頼は完了」




