前編
昔書いてずっとファイルに保存していた短編作品です。
ちょっと長いので、前後編に分けてアップしています!
新たな命が生まれ、生命の猛々しさを感じることのできるこの季節。
新緑が緩やかな風にゆられ、その暖かみのある香りを運んでくる。
それはまるで、幼子が無邪気な笑顔をのぞかせ、優しさに包み込んでくれたかのように感じさせる、そんな5月のとある休日の物語。
比較的人口の多い住宅街に位置するマンションの5階に住んでいるのだけれど、辺りは不思議と静かな雰囲気が漂っている。
それは決して恐れおののくようなという意味ではなく、むしろ清々しく晴れやかな気持ちにさせることを意味している。
その一室の窓から覗くことのできる澄み切ったスカイブルーの空を見ていると、とても優美で、果てしない彼方まで羽ばたいていくような、そうした想像を駆り立てられる。
遠くの方では鳥たちが(種類はわからないが)チチチと朝のハーモニーを奏でており、窓を通り抜ける柔らかな風の音と共に讃美歌のように響き渡る。更にはその歌を彩るかのように、晴れやかな日差しが部屋いっぱいに差し込んでくるのだ。
それらはモネの風景画を模ったような、そうした美しさを感じさせるには十分であり、日本の、都会の、マンションの、一室の、ベットの上にいながらにして、セーヌ川のほとりで、優雅に爽やかな日和の朝を感じながら散歩をしているような気分にさせてくれる。
こうした想いを、日々の変化に合わせて多様な表情を見せてくれるこの部屋を僕はかなり気に入っており、予定のない日は朝から家を一歩も出ないなんてこともあったりするくらいだ。
休日の今日も、その住み心地の良い自宅の寝室で春の陽気を感じながら、ふわふわの茶色い毛布をかけ、柔らかな心地いい睡眠を堪能していた。
“ピロン”
有に聴き慣れたその音が突然耳を刺激し、寝ぼけまなこの中、音が鳴った方へと手を伸ばす。
こんな朝早くに誰だろうと、スマホの画面に目を向けると、彼女の凪咲汐からのメッセージだった。
『今日は遠出したい!^ ^』
朝が弱く、日頃から目が覚めるのに時間がかか僕だが、可愛らしいスタンプと共に送られてきたその一文を見て急速に目が覚めていく。
つい先ほどまで布団の中でぬくぬくと過ごし、まだこのままでいたい!
なんて思っていたのに、大好きな彼女からの(それが簡易的なメッセージだとしても)連絡でテンション上がって目が覚めるのだから、男ってやっぱ単純なんだなと思ってしまう。
あれ?コレ自分だけってことはないよね?
『オッケー!じゃ行き先はまた後で』
はっきりと目が覚めたおかげで思い出す。今日は待ちに待った汐とデートの日なのだ。
こうしたことをよく自覚なく口走ってしまうのだが、その度に友人たちからは随分デートをしていなかったかのようだと言われたりする。
しかしそんなことはなく、むしろ週に2、3回は逢ってデートをしている。
要はそれくらい溺愛しているということの現れなのだが、彼らにいつも呆れられてしまうのはなぜなのだろう。
2人とも、直感的に動くタイプなので、デートの日取りは決めていても何をするか?というのは、大体いつも当日になってから決めている。
屋内でまったりというのも悪くはないけど、こんなに気持ちのいい日和りの時は、やっぱりいつもとは違った空気を楽しみたい。
わりとアクティブな2人にとっては、今日は最高の日なのである。
周りの話を聞くと、デート場所を巡ってケンカになることがよくあると言うが、自分たちは価値観が近いお陰で修羅場になることはほとんどなく、デート内容も大体すぐ決まる。
少しでも早く向かいたいという思いが先走り、手短に待ち合わせ場所と時間を決め、颯爽と支度し始める。
いつも気にかけてはいるのが、今日はいつも以上に身嗜みに気合いが入る。
特段、何かあるという訳でないが、強いていうなら最近あまり遠出が出来てなかったのもあり、その反動か幾分気分が高揚しているのもあるのかもしれない。
髭の剃り残しは無いか?鼻毛はでていないかをチェック。
髪は細めで少し癖があるので、いつものジェルワックスを使って無造作ヘアに整える。
香水は互いにお気に入りのHermèsの香水「ナイルの庭」のミドルノートをつける。
あまり強い香りは好きでなく、癒しのある香りが好きな二人にとって、今一番お気に入りの香水なのだ。
仕上げに乳液を軽く顔に馴染ませて仕上げ。
少し前までは、男が美容なんて!
と前時代的なことを思っていたのだが、汐が美容系を専門で学んでおり、将来的はそちら方面の職種に着くと決めていることもあってか、自然と影響を受けて最近はそれなりに気を遣っている。
といっても、あまり時間をかけ過ぎる訳にはいかないので、待ち合わせ場所の駅前へと早速向かう。
「今日は晴れて良かったね!」
「ほんとなー、ポカポカしてて風が気持ちいい」
少し早めに着きすぎたかな?
と思っていたが、程なくして彼女の姿が見え、ありきたりなよく見かけるカップルのやり取りをしながら駅の階段を登り始める。
「行き先は後でって言ってたけど、どこまで行くの?」
待ち合わせ場所に向かいながら考えるって伝えてたから当然の疑問だ。
一瞬、着くまでのお楽しみ!
なんて考えたりもしたが、気分が舞い上がっているからなのか、自然と言葉が出てきた。
「前に行きたい!って言ってたあの花畑が広がってるとこにしようかなと思うんだけどどうかな?!」
「えっ?ほんと?!やったー!じゃお昼は園内のレストラン行きたいけど空いてるかなぁ。予約出来るならしとく?」
「そう言うと思ってもう予約してるよ」
「さっすがー!もう楽しみすぎるよっ!」
マンガでよくあるルンルン♫なんて表現が具現化して見えそうなくらい喜んでる姿を見て、やっぱカワイイなーなんて思いながら、必然的に自分もテンションが上がりニヤけてしまう。そりゃ彼女が喜んでくれるんだから当然だよね!
あれ?やっぱ自分だけってことは…ないよね?
そんなくだらないことを考えながら駅の階段を登り始める。
昔から利用している駅なので見慣れた光景なのに、なんとなくいつもと違う雰囲気に感じる。
やはり彼女が…流石にくどいですね、はい。
しかしながら、やはり普段より少し人が多いように感じる。日常であまり電車を使うわけではないからだろうか、休日はこんなものなんだろう。
そんなことを考えているとふと気になるものが目に止まった。
上を見ると一人の若いママさんが少し辛そうな顔をし、両手でベビーカーを持ちながら階段を降りはじめていた。
なんとなく不審に思い辺りを見回してみると、エレベーターは点検中となっていた。こちら側のエスカレーターは上りしか無いため、仕方なく階段で降りているようだった。
小さい子がいると、こういう時大変なんだな。
そんなことを思いながら彼女と雑談をするのだけど、どうしても気になってしまい、なんとなくそちらに意識を向けてしまう。
「どうしたの?」
話に集中してなかったせいか、心配させてしまった。
「いや、ごめん。なんでもないよ。ただいつもより人多いなーなんて思ってね。そしたら、あそこのママさんが目に入って、ちょっと気になったんだ」
「ふーん、そっか。確かにいつもより人多いね〜。ていうか、彼女とのデート中に他の女性に目を向けるってのは頂けないな〜。しかも人妻なんて。」
「い、いや!そういう、変な意味じゃなくて!!」
「ほんとかな〜!まーキレイな人だから分かるけどね〜」
「いやホント、勘弁して下さい…」
折角のデートなのに配慮が足りなかったと慌てふためていたのだが、ふと彼女の表情が目に入ると、それが杞憂であったと感じさせる。
言葉の棘とは裏腹に、とてもにこやかにしており、どうもこちらの反応を見て楽しんでいたようだ。
「ほんと、勘弁してくれ…」
「アハハ!ごめんごめん。でも正幸も悪いんだよ。それで、あの人がどうしたの?」
「そうだね、気を付けるよ。それなんだけど、あの人ベビーカー抱えながら階段を下りてるから大変そうだなと思ってね。」
「なるほどね、確かに大変だよね~。エレベーターとか使えばいいのに。あぁ、点検中なんだ。旦那さんは何してるんだろう。・・あっ!!」
そんなやり取りをしながら階段を登っていくと、突然彼女が声をあげた。
何事かと彼女の目線の先に目を向けると、先のママさんだった。
ママさんは階段に座っていて、ベビーカーごと高い高いしてる。
わぁ、凄いパワーだな・・
そんな悠々としたことを思えたらどんなに良かっただろうか。
だが、現実は危地に立たされている。
確かにママさんは階段に腰を下ろして座っている状態ではある。そこに間違いはない。
だが、決して己の意思でそこに腰掛けている訳ではない。
また、ベビーカーはそれなりに高価なものなのだろう。
わりとしっかりした作りを感じさせるそのフォルムから、特別軽いものではないというのが窺える。
そんなものを子供を乗せた状態で、駅の階段という不安定な場所で高い高いなんてしようものなら、正気の沙汰ではない。
そう、つまりママさんは転倒していたのだ。
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