日録33 君は特別⑤
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歓びの里 [ランド、七日間の記録]編も
残り数話となりました。
気づけば、そこかしこに暗闇がたちこめ始めていた。
空を見上げたチャンジが誰に言うともなく「月が昇ったな」と呟く。その口から吐き出される息は白く、風に流されて細く長くたなびいた。
視線の先を追えば、ちょうど山の向こうから月の出を迎えたところだった。
背後から白い月明りに照らし出されて、日が暮れたばかりの空に山の影が黒々と浮かび上がる。月光に浮かぶ山は、昼とはまた違って、しっとりと美しい顔を見せた。
頭上には黒い闇に染まる手前の、藍色の空が広がっている。見上げれば、星々がうっすらと形を取りつつあった。
少し欠けた月は、そこから離れた広い空で、ぽつんと淋しげに浮かんでいる。
――そろそろ帰る頃合いだな。
宵闇が迫る空の中に、どちらともなくそう感じ取ったのだろう。黙って空を仰いでいたチャンジ、そしてランドもまた、ゆっくりと視線を戻す。
互いの視線が、無言を保ったまま交わる。「兄弟」と、先に口を開いたのはチャンジだった。
言うか言うまいか考え込んだ末、チャンジは口を開いた。
「お前――受け取るのか?」
口にしないが言いたいことは分かる。名前を、である。
チャンジは一切の感情を見せなかった。ただ静かにランドの反応を見ている。
「それは…」
ランドは言いよどむ。名前とはそれほど重いものだ。おいそれと返事など出来るわけがない。
そんなランドの反応をどう受け取ったのか、声を立てずにチャンジが笑う。
「もし受け取ったとしても、ぶっ殺したりしねーぞ。言ったろ? 言いつけに背いて、この方が悲しむようなことはしないって」
冗談めかして言うと、チャンジの目がにやりと笑った。だが相変わらずその目は笑っていない。
ガキ相手に脅してんじゃねえと言いたいところだが、そうすると後でもっと怖い目に遭いそうだ。
「…お言葉を返すようだが、あんた、この道中ついてきてたよな…?」
今回の道行きにチャンジの同行は、却下されていたはずだ。かなりチャンジは食い下がったが、エンジュは最後まで首を縦に振らなかった。
これは言いつけに背いたことにならないのかと暗に問えば、チャンジはふんと鼻を鳴らして得意げに言う。
「もちろん、言いつけはきちんと守ったさ。同行したのは聖獣であって俺じゃねえ。だから全く問題ない」
心の底からそう思っているようだった。一筋縄ではいかない。
これ以上不毛なやり取りを続けても、最後は泥仕合になりそうだ。ランドはあっさり追究を諦めた。ふうと吐息を洩らすと、話を変える。
「それにしても見事な変幻だったな。おかげですっかり騙された」
「騙してねえっての。人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ」
チャンジの顔が苦虫を噛み潰したようになる。そこまで言ってランドはふと思い出した。
「そう言えば、出発の時に顔を合わせたはずだが…あれも術なのか?」
見送りする顔ぶれの中に、チャンジの姿もあった。持っていくようにと荷を渡されたのもその時だ。
だから余計、チャンジが変幻してまでついてきているとは思わなかったのだ。そう言うと、チャンジが途端に口ごもる。
「あ――あれか。あれはその…ソジだ。身バレしないようソジの手を借りた」
『身バレ』という言葉にランドは苦笑する。後ろ暗いことをしている自覚はあるらしい。
しかもよくよく聞くと、より本物らしくターキンに化ける為に、変幻にもソジがひと役買っていたという。
「お、俺は見た目そっくりに化けんのが得意なんだよ…っ!」
どうりでと、ランドは納得する。あまりにも道中、ターキンに違和感がなかったので不思議だったのだ。
普段のあの人間くさい犬の変幻を目の当たりにしていたし――。
何より――エンジュとある意味一触即発になった、あの際どい場面に居合わせながら、よくこの男が嫉妬にかられて正体を現さなかったものだと思ったからだ。
しかしソジの手を借りたとなったら――タダでは済まないだろう。ランドの知る限り、ソジの行動には常に裏があった。
そもそも里随一の切れ者、さらに凄腕の隠密でもある。何も得られず、手ぶらで終わることなんてソジの矜持が許さないだろう。
少なくともランドはこれまで一度もそういうヘマをするソジを見たことはなかった。
「もちろん、取り引きの代償があったはずだよな?」
それは何かと言わずとも、そういう質問だと察したらしい。「ああ」と一つ頷くと、チャンジはあっさりと答えを明かした。
「あいつの邪魔をしない―― 一つはそれが条件だ。あともう一つはまあ、貸しってことで保留中」
「邪魔をしない?」
「己の恋愛に横槍入れてくれるなってことだろうよ。事を起こす前にとにかく足場を固める。後顧の憂いを断つってヤツだな。いかにもあいつらしいやり方だ」
抜け目のない弟を思い浮かべて、チャンジが“兄”の顔つきになる。
つまり恩を売りつけて、周囲を黙らせるということなのだろう。ソジの本気度がひしひしと伝わってくるようだ。
そこで会話が途切れた。沈黙を破ったのはまたもやチャンジだ。
「さあて」とおもむろに呟くとランドに顔を向けて「そろそろ――」と切り出した。そこにランドが割り込んだ。
「あんたは、それでいいのか? 俺がエンジュ様の望みを叶えても」
エンジュの望み――それは名前を返すこと、だ。
嫌というほど見せつけられてきた。チャンジがエンジュに惚れ抜いていることなど、もはや周知の事実だ。
もとよりこの男は、想い人は別として、自分の気持ちを隠すつもりもない。
名前を受け取るのかとチャンジは問うた。それを訊ねた際、『親愛』と『恋慕』、そのどちらとも口にしなかった。
それはランドに一任するという意味なのか。だが果たしてそれでチャンジはいいのか? ――誰よりも深く相手を想っているのに。
驚いたように、チャンジの切れ長な目がわずかに瞠って丸くなる。誤魔化すのは無理と悟ったのか、諦めたように吐く息と共に吐き出す。
「…バーカ、見逃すのは名前までに決まってんだろうが」
「え?」
「そうやすやすと、俺がこの人を手放すわけねえだろ。この人がお前と縁を結びたがる理由の一つはお前の身を案じてだ。いざという時、お前の命綱になろうとな。いじらしいし――可愛すぎんだろ」
だから教えたくなかった。そう言って唇を尖らせるも、腕の中の寝顔に目を落とすとチャンジは目尻を下げる。ランドもその無防備な寝顔に目をやる。
口を開けばいつもこちらを戸惑わせる。だが芯にある優しい心根を知る度、胸の内を温めるこの熱は次第に高まっていくような気がする。
「だが――俺はこの里を出てしまう人間だ…」
ランドの口から、思いのほかしんみりとした声が出た。再びこの里に戻ってくるかどうかも分からない。そもそもこの先、何が起こるか分からないのだ。
一歩里を出れば明日をも知れない、そんな日々が待っている。だからこそ安易に、生きて再びこの地に戻ってくるという無責任な約束を、口にすることも出来ない。
そんな自分が、身勝手にも縁を結んでよいものか。生死不明の夫の帰りを待ちわびる寡婦のような、そんな寂しい思いをこの優しい人にさせたくない。
「――てめえは相変わらず、かたっ苦しい奴だな。だがまあ、そこは嫌いじゃねえがな」
ランドの憂いを見透かしたように、チャンジが笑った。物思いに沈み、俯いた顔をランドは持ち上げる。その顔にチャンジがはっきりと言い切った。
「つまんねえ心配なら無用だ。俺がいる」
迷いのない瞳がランドを射抜く。ランドの瞳が大きく見開き、激しく瞬いた。
「何があろうと俺はこの方を支える。けして一人きりにはしねえ――ずっとそばにいる。世界が終わるその時まで――俺はどこまでも一緒について行く。だからお前も安心して俺を頼れ」
腹を括った者の強い言葉だった。ランドにはそれが少しだけ羨ましく、そしてほんの少しだけ悔しい気がした。
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次話は5日後、更新予定です。
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




