日録32 君は特別④
友達の友達は皆、友達
特別の特別はライバル。
チャンジがターキンに変幻していた?
いつから――? 入れ替わる時間などなかったから、最初からということになる。
ということは、ずっとこの男に見られていた? 全部を? ――もちろん全部に決まっている。
チャンジから放たれる、隠しようもない殺伐とした気配は、つまり――そういうことだ。
「仮に俺が受け止められなかったとしても、あなたがいてそのようなことは起こらないでしょう」
だからランドがチャンジにぶっ殺されるようなことにはならないと、こちらも冗談まじりに返す。
その直後、ざっと砂を踏む音がしたかと思うと、もう男の姿は目の前にあった。おかげでランドは二度びっくりする羽目になる。
体の大きなチャンジにとって、少し離れた程度の移動なら、ほんの数歩で事足りるのだろう。地面に張りついた足はその場に釘づけになったまま、身じろぎする暇もなかった。
厳しい目をした偉丈夫が、険しい顔で立ちはだかると、圧迫感は尋常ではない。迫力に気圧されて、思わずランドの足が、一歩後退る。
男が二人、正面切って見つめ合うことしばし。先に視線を断ち切ったのはチャンジだ。腰に手を当て地面に目を落とすと、はぁと太い息を吐く。
「兄弟」
その呼びかけに、ランドが思わず目を見開いた。目を上げたチャンジは、なんとも言えない微妙な顔になる。
「…んだよ。その顔は」
不貞腐れた声は、完全に機嫌を損ねた子供のそれだ。喧嘩をふっかけられては敵わないと、そろりと距離を取ろうとすると、先読みしたチャンジがそれを押し止める。
「そうビクつくな――間男は気に入らえねえが、他でもない主がお前に名を許したんだ。言いつけに背いて、あの方が悲しむようなことを俺がするわけねえだろが」
だからこその『兄弟』呼びか。
チャンジもまた主に倣って、自分を家族として受け入れようというのだ。
――だが間男とはどういう意味だ。別にランドとエンジュが男女の仲になったわけではない。
間男呼ばわりは納得いかないが、それを口にした途端、チャンジの目つきが格段に殺気立った。それを見て、ランドはしおしおと口を閉ざす。
…何を言っても無駄のような気がする。ならばもう余計なことは言うまいと、ランドはそう心に誓う。
腕の中に目を落とすと、眠るエンジュの姿が、どこか窮屈そうに見えた。体勢を変えてやりたいと思った時、忌々しげな小さな舌打ちが頭上から降ってきた。
見上げるより早く、チャンジの太い腕がぬっと伸びて、難なく腕の中からエンジュをすくいあげる。その手つきは、大きな図体に似合わず繊細かつ慎重だ。
壊れものでも扱うように、毛皮にくるまれたエンジュを片腕で抱きかかえる。もう片方の手が、太い指にも関わらず器用な手つきで、頬にかかる長い髪をそっと耳にかけた。
ランドの狭い腕の中と違い、体をきつく折り曲げることもない。目の前にある腕の中は、ゆったりと寝心地が良さそうだった。
二人が寄り添う姿は、月と太陽の化身と見まごうばかり――そのまま動かなければ、世にも得がたい一枚の絵のようにも見える。
毛皮に埋まるようにして眠るエンジュの頬には、うっすらと赤みが戻っていた。常に鋭いチャンジの眼差しからふっと力が抜け、口もとが淡くほころぶ。
「エンジュ様は大丈夫なのか」
心配ごとが口をついて出た。チャンジは目を上げると、軽く頷いてみせる。
「ああ。心配すんな。少し疲れただけだろう。ま――あんだけはしゃいだら、そりゃあ疲れもすんだろ」
「はしゃいで…疲れた?」
そんなことあるのか? いい大人が…それよりも相手は賢人だというのに。チャンジは大きく破顔する。
「与えられるのは生まれて初めてだから、よっぽど嬉しかったんだろうよ」
くくっと可笑しそうに笑うと、眠るエンジュに目線を落とす。その目は我が子を見るように、この上もなく優しい。
「ったく…ガキかよ」
独り言にしては大きいが、その声は可愛さのあまり、思わず洩れたという感じだった。その様子をランドは微笑ましく見守る。これで危機は去った――かと思いきや。
「で? 逢瀬は楽しかったか?」
「――!!」
とんだ流れ矢だ。さあっと血の気が引くのが分かった。みるみる青ざめるランドに、チャンジがくすりと鼻を鳴らした。
「ふ、ふふ――今にも死にそうな顔しなくたって、なんもしねえよ。むしろ主の我が儘につき合ってくれたことに礼を言う」
礼を言う割に尊大な態度なのは、いかにもチャンジらしい。内心ホッとしながら、ランドはこの短い時間でどっと疲労が増したように感じた。
「今日一日歩いてみて、この里はどうだった? 美しかっただろう? 民は皆、幸せそうに見えたか?」
たたみかけるようなチャンジの問いかけに、こっくりとランドは頷く。その答えが誇らしいのか、チャンジの瞳が柔らかく緩む。
「だろうとも。それは全部、この方が与えたものだ」
チャンジは腕の中に目を落として、そのまま続ける。
「主は、慈悲深い方だ。求められれば惜しげもなく与えてしまう。野に咲く花も、青々とした緑も、穏やかに吹く風も、柔らかな陽射しまで――主が持てる全てを注ぎ続けるから、今この里は在る。自分の身を削って…しかも限度というものを知らずに、な。おかげで今や賢人という立場だが、人としての肉体は――ボロボロだ」
ぐっと眉間にきつい皺が刻まれる。常日頃からエンジュの体をいたわり、なんとか食事をさせようとチャンジが奮闘していることをランドは知っている。
「一回」
ポロリとチャンジの口から、言葉がこぼれ落ちる。こちらを向いた淡い緑の瞳と、見つめ返す明るい茶色の瞳とが重なり合った。
「もし一回でも心の臓が止まったら、主の、人としての生は終わってしまう。だがそれは死ではなく再生――真の神への生まれ変わりを意味する。神になれば、今のようにもう肉体の苦痛を味わうこともない。それはきっと、喜ばしいことなんだろうな…」
いつも気の強い眼差しが、ぎゅっと細くなる。笑おうとして失敗して、泣くのをこらえる複雑な眼差しだった。
ランドにはそれがとても喜んでいる顔にはとても見えなかった。
「――たまに考える。神になる時、主は主のまま――変わったりしないだろうかと…。もちろんこの人がこの世から居なくなることに比べたら、大したことじゃないんだろう。それでも時々、考えては不安になる。これが不敬なことだということも、分かっている…――だがな」
そこでチャンジが言葉を途切らせる。その先、何を言いたいのかランドにもなんとなく分かった。
「ずっと、このままでいて欲しい――俺はそう願ってしまう」
吐き出された声は、屈強な体躯を持つ男のものとは思えないほど、かそけく弱々しいものだった。
胸に溜まったものを押し出すように、大きな体がはあっと溜め息を吐く。
「…この人、阿保なんだよ」
きょとんと目を丸くするランドに、チャンジが苦々しく笑う。
「いっつもそうだ。里に残るわけでもねえ。いずれいなくなる流れ人を拾っては世話したがる。いなくなったら寂しがるくせに――よ。俺の心配はてんで無視するわ、言うことなんざちっとも聞きやしねえ。痛い目みても全く懲りねえし。阿呆じゃなかったらドМってヤツに違えねえな――まったく」
聞き慣れない言葉にランドは顔をしかめる。それよりも聞き捨てならないのは言葉の内容だ。それはランドのことを皮肉っているのかと、つい勘ぐってしまう。
「ド・М…?」
「ああ。ソジが言うには“真正の被虐性愛”だったか? いじめられたい願望がある奴をそう呼ぶらしいぞ」
(ソジ―――?!)
何を吹き込んでいる?!
言葉の意味はよく分からないが、良からぬものだということは分かる。ランドは心で可愛い顔をした少年をなじった。
ヤクジあたりにこのことがバレるとさぞ恐ろしいことになりそうだ。想像すると、ぶるりと体に震えが走る。
「だが――そこも含めて、俺には全部が愛おしい…」
頭を抱えそうになったランドの耳に、押し殺した声が飛び込んだ。
チャンジは微動だにせず、エンジュの顔にじっと見入っている。チャンジが取った次の行動に、ランドはぎょっとする。
手元のエンジュを引き寄せると、その頬にやおら唇を押し当てたからだ。常に鋭い刃物のような眼差しを甘く蕩けさせ、チャンジは何度も愛おしげに頬に口づけを落とす。
不意打ちをくらって、目を逸らす暇もない。動揺するあまり目を瞑ることも忘れて、ランドは棒を飲んだように、ただただ立ち尽くした。
心ゆくまで口づけを落とすと、チャンジがちらりとランドに目をやる。
ランドの視線に気づいていただろうに、少しも恥ずかしがる素振りはない。むしろ余裕たっぷりといった態度で、口もとには揶揄うような笑みさえあった。
「子供には早かったか」
ぺろりと唇を舐める仕草は、大人の男が持つ濃厚な色気をかもしだしている。見ていたランドの方が、かあっと頬を赤らめてしまう。
それを見て、ますます楽しげに瞳を細めるチャンジに、悔しいがランドは小さく舌打ちを打つしかなかった。
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次話は5日後、更新予定です。
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