日録31 君は特別③
うつむき加減のエンジュの顔が、ゆるりとランドを見上げる。至宝のような美しい瞳には、戸惑うランドが映り込んでいた。
「エンジュ様…お話したのは、今日思いついたばかりの、ただの夢です。未来がどうなるかなんて、まだ誰にも分かりません。第一、そんなことを考える余裕なんて、今の俺には全くありませんよ」
笑いながらランドは言う。けれど、おそらくランドが意志を曲げないだろうということは、彼の性格から考えると想像に難くない。エンジュは、深い溜め息と共に吐き出した。
「――であれば、旅立つあなたへ私からの“はなむけ”だと思ってください」
「え――?」
「もう明かしてしまいましたから。受け取るしかありませんが」
名を聞かなかったことには出来ない。口には出さないが、はっきりとランドにはそう聞こえた。
いつも通りエンジュは、ただ美しく微笑んでいるだけ。なのに、なぜかその姿にはおよそ似つかわしくない、否と言わせぬ無言の圧を、ランドは感じ取った。
はああっと大袈裟に息を吐いて、ランドはがっくりと肩を落とす。
「――。それは、禁じ手ではありませんか…? エンジュ――」
「ランド」
やんわりと、エンジュが言葉を遮る。静かな声だ。なのに思わず、ランドの背筋がピンと伸びた。
「あなたは特別だと言ったでしょう? あなたが名を返そうと返すまいとどちらでも構いません。ただ私は、あなたの人生に関わる理由が欲しいだけ」
自分の存在を、その人生に刻んで欲しい――。
「エンジュ様…」
エンジュの言葉に、どう答えるのが正しいのかランドには分からなかった。「ありがとう」でも「ごめんなさい」でもない。同時に今この場で「否」とも「応」とも言えず、ランドは唇を固く引き結んだ。
目を伏せたランドを前に、エンジュは何かを吹っ切るように、ふぅと短い吐息をついた。
「――それにあなたのお力になるなら、こういう理由でもあった方が色々と都合がよいでしょう」
『既成事実』の言葉に、ランドがぎょっとした顔になる。エンジュは何食わぬ顔で言葉を続けた。
「特別な相手を助けるのに、理由は必要ありませんし――その気持ちを無下にするなど、いくらあなたでもなさらないでしょうし?」
また何か、気になる言葉が聞こえた気がする。ランドの顔が困ったような戸惑うような、どちらともつかず複雑な顔になる。
いわれもなく、ただ助けてもらうのは性に合わない。
受け取るばかりの親切なら、申し訳なさが先に立ってしまう。返すことが出来なければ尚更だ。
頑なだと自覚はあっても、ランドは己の性分を曲げることが出来ない。
だがそれが好意となれば、少し話は変わってくる。この尊い貴人の心づくしを拒むなど不敬以外のなにものでもない。もちろん、とてもありがたいし感謝しかない。
――のだが、上手く言いくるめられたようで、それが少しばかり、ランドにとっては面白くない。
「そんな顔をしないでください。それなりに私の助力は、あなたのお役に立ちますよ…?」
「そんな…あなたには、感謝しかありません…」
「いえいえ。何より私が安心したくてすることです。どうぞお気になさらず――とは言え」
ちらりと淡い瞳が上向く。にやりと笑ったのをランドは見逃さなかった。
「あなたの性格上、気兼ねしてしまいそうですものね」
「それは――もちろん」
「では一つ。先ほど名を返そうと返すまいとどちらでも構わないと言いましたが、どうかご一考ください。私とて欲しいものを前に、ただ指を咥えて見ていられるほど、無欲ではありません」
「お・俺など――」
――あなたに相応しくない。エンジュはランドに皆まで言わせなかった。
「ひとまず、親愛でも恋慕でも、私はどちらでも構いませんので」
言い終えるとエンジュは、期待に満ちた目をランドに向ける。一見、子供のそれのように純真無垢な眼差しに見えて、その目にはうっすらと愉悦を含んでいる。
憎まれ口など子供のすることだ。
囁く声が頭の片隅で聞こえたが、この時ばかりは理性より悔しさがわずかに勝った。
「エンジュ様…親愛と恋慕。選択肢は二つではありませんよ。三つ目の――“断る”選択が入っていないこと、誤魔化せるとお思いですか?」
「――ばれましたか」
悪戯を見つけられた子供のように、エンジュはさも嬉しそうに笑う。全くこたえていないその顔を、ランドは苦々しく見る。
ちなみに、第三の選択は不敬すぎて、おそらくチャンジあたりが許さないはずだ。
「まあそうつれないことを言わず、考えてみてください。まだ時間もあることでしょうし、あなたの気持ちが変わるよう、私ももう少し気合を入れてあなたを口説くことに致しましょう」
口には出さないが、見るからにランドの顔が渋い顔になる。
「――お手柔らかに、お願いします」
日没から真っ暗になるまでの時間を『薄明』と呼ぶ。夏を過ぎれば薄明の時間はどんどん短くなっていく。
遠くに見える空に、夕映えの名残りが残っているものの、辺りが薄闇に沈み始めたら、あっという間に夜の暗さに取って代わられるだろう。
空を仰ぐランドの頬を、冷たい風がひやりと撫で上げる。
ランドはターキンに括りつけた荷を下ろし、中から毛皮で仕立てられた頭巾のついた防寒着を取り出す。行きがけにチャンジから手渡された荷だ。
ほっそりとしたエンジュの体を、厚い毛皮でふわりと覆うと、顔の真ん中の部分しか見えなくなる。これならかなりの寒さでも凌げそうだ。
「そろそろ戻りましょう。屋敷に着くのは、月がかなり高い位置に昇ってからになりますね…」
来た道を同じように戻るなら、到着は深夜になるだろう。
「ああ――それなら。帰りは人を呼ぶので、そこまで遅くはなりませんよ。安心してください」
「え?」
「行きは、くまなく里を練り歩く必要があったのです。と言うのも、外の世界にこの里の入り口を探ろうとする者が現れ、しかも年々その人数も増える一方なのです」
困ったように、エンジュが眉根を下げて苦笑する。
「それに加えて結界への干渉も多く、部分的に脆くなってしまわないか、やはり心配で…。ですので、ここ数年は結界の手入れを兼ねて、年に数度は自ら足を運ぶようにしているのです」
里そのものはエンジュの結果に守られている。しかし害をなそうと結界に傷をつける者が現れたら、壊されるほどではなくても、小さな綻びくらいは生じるかもしれない。
「…どこかでこの里のことを聞きつけた者がいるのでしょう。いつからか分かりませんが、『飢えもせず絶えず緑豊かな里』『長寿を授ける生き神がいる』などと、まことしやかに囁かれるようになり、今ではこの里は“常世国”とまるで楽土のように呼ばれるようになりました。しかも噂はとどまことを知らず――その里には不老長寿を司る神がいる。その神を弑した者は永遠の命を得られるという話まであるそうですよ…?」
ゾッとするような話を、エンジュはこともなげに口にする。その話を聞いて、息を呑んだランドの口から、ひゅっと短い音が洩れた。
長く生きたい。豊かな暮らしをしたい。誰しも持って当たり前の願いとは言え、神を弑して不死を得ようなど、どこまで人は欲深くなれるのだろう。
これが三千年を経た人の世か。やり切れなくて、握り込んだ拳に力が入る。宥めるように、エンジュの手がそんなランドの拳をぽんぽんと叩く。
「戻りましょうか――さすがに私も今日は少々…疲れました」
珍しく、エンジュが疲れた声を出す。はっとエンジュを見ると、薄暗い中でもはっきりと分かるほど、毛皮に包まれたその顔色が悪い。
今日は一日騎乗して、隈なく里に結界を張り直してまわったのだ。ランドには想像もつかない大仕事だが、さぞ疲れただろうということは分かる。
静かに佇む肢体は、今にも消え入りそうなほど儚い。これ以上、無理をさせては駄目だと、ランドの直感が告げる。
ランドの心配を表情から読み取って、エンジュの顔に淡い笑みが浮かぶ。
「嫌ですね。私は大丈夫です。これから呪歌を使って人を呼ぶので――」
「“睡大觉”(ぐっすり眠る)。――その必要はない」
凛とした声が、冷たく澄んだ空気を貫いて、黄昏の空に響き渡る。その途端、まるで糸が切れたように、エンジュの体が力なく崩れ落ちた。
その体が地面に倒れ込む直前に、ランドが素早く抱き止め、腕に抱え直す。
聞き覚えがある声だと思いながら、ランドは声が聞こえた辺りを振り返ると――その場でじっと動かなかったターキン、その獣の輪郭が不意にじわりと滲んだ。
まさか…。
ランドの視線の先で、獣の姿がみるみるうちに形を変えていく。そして獣のいた場所に、非の打ちどころのない肉体美を持つ、惚れ惚れするような美丈夫の姿が現れた。チャンジだ。
「ったく――主を落っことそうもんなら、遠慮なくぶっ殺してやろうと思ってたんだがな――」
笑い混じりに冗談めかして言うものの、チャンジの目は笑っていない。ランドはひんやりと冷たい汗が背中に伝うのを感じた。
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次話は5日後、水曜更新予定です。
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