日録20 愛のカタチは人それぞれ
ソジが現れた日を境に、フェイバリットの部屋への立ち入りは厳重になった。さもありなんと思う。
“親指”に担がれて連れ戻された“小指”。黒髪に黒い瞳をした少年の姿を、あの時以来ランドは見ていない。ちなみにあれから二日経った。
どこかからまたひょっこりと彼が現れないかと、少年の姿もしくは獣の姿を探して、ランドは思い出したように周囲を見回す。この二日の間に、すっかりこれが癖になっていた。
そんなランドの背後から、彼に声をかける者があった。
「よお――何か探しもんか?」
すっかりその声も聞き慣れた。相変わらず、張りのあるそれでいて澄んだ声は。
「……チャンジ」
端正な美丈夫の姿がそこにあることを、頭に思い描いて振り返ったランドは、一瞬その顔を曇らせた。それからゆっくりと苦笑する。
そこにいるのは―――黄金色の毛色の大きな犬。ランドと目が合うと、その口もとがニヤリと吊り上がる。犬なのに、とても人間くさくて――表情豊かだ。
ソジが現れた日と同じ二日前、エンジュとチャンジとの間で取り引きがあった。取り引きの代償は、チャンジがランドそっくりに変幻すること。
危うくランドの体が差し出されそうな事態に陥った。それを持ちかけたのは目の前の男――だが、その窮地を救ってくれたのもまた彼だった。
『主は、金毛犬のお世話を、なさりたいのですよね?』
そう言った彼は文字通りこの姿で、見事に主の要望に応えたのだと後で知った。ランドは、あの日の午後、窓の外に見た、チャンジの姿を思い出す。
いやにツヤツヤピカピカの毛並みの大きな犬が一匹、湯にのぼせたのか、ぐんにゃりと地面に座り込み、吹く風にその身を任せてじっと動かない――その後ろ姿。
心配になって様子を見に出たところ、鼻の穴をだらしなく開いてピスピス言わせ、焦点の合わない目を空に向け、ランドの呼びかけにも応えない。
その、あり得ないほど蕩け切った顔を、ランドは一生忘れないと思ったものだ。
その記憶はチャンジにとっても、別の意味でランドと同じく忘れがたいものなのだろう。
あれ以来、チャンジはことあるごとにこの姿を取るようになった。夢よもう一度、ということなのかもしれない。
いや、それだけでなくエンジュが犬の姿をしたチャンジに甘いのも一因だろう。
相手が大の男だと分かっているだろうに、見た目に惑わされて、目の前でひっくり返った犬の腹を撫でて、まんまと喜んでいるのだから。
「兄様…人としての尊厳を失ってしまったのかしら…?」
「こうも己の欲望に忠実だと…いっそ醜悪ですわね」
おかげでこの二日の間に、すっかりチャンジを見る周囲の目は変わってしまった。
眉を顰めて、双子の姉妹はヒソヒソと陰口を叩くし、チュンジに至っては生温かい笑みを向けるだけ――近づきもしない。
その様子を思い出して、ランドはそっと溜め息を吐く。
ちらりと目をやれば、目の前の犬は今日も今日とて、さらさらの毛並みをなびかせながら、瞳にきらきらと星を散りばめている。――とても幸せそうだ。
恋に目の眩んだ男にとって、そんな嘲笑も誹謗中傷もどこ吹く風。馬の尾に群がるハエ程度のものなのだろう。
恋とは恐ろしいものだと、つくづくランドは思う。チャンジにしろ――ソジにしろ。
ランドが無言でチャンジの顔に見入っていると、不思議そうに犬の大きな顔面が傾いた。
「? おう、どした?」
その声に我に返る。「うん」と生返事を返しながら、ランドは無意識に周囲を見回した。
「ソジがいないかと思って――」
「ソジ? そういやあいつ、お嬢ちゃんの部屋に忍び込んだんだってな。その後、どうなったんだ?」
その問いにランドは、お仕置きだと言ってオムジに連れ戻されたことを簡単に説明する。途端に黒目がちな犬の可愛い顔が、うへぇっと苦い薬でも飲んだようになる。
「オムジにこっぴどく叱られたとあっちゃ、当分はまともに体が動かねえだろうよ。クワバラクワバラ」
ぞっとするような言葉をチャンジが平然と口にする。言った本人も、ぶるぶるっと体を大きく震わせた。
ランドは脳裡に、オムジの動かない静かな面差しを思い浮かべる。居るだけで恐ろしいほどの覇気を放っていたオムジ。自業自得とは言え、ランドは黒髪の少年に心からの同情を覚えた。
「――で?」
「え?」
「いくらソジでも、これ以上のちょっかいは出さねえだろ。他になんか用があんのかよ?」
犬の目が探るように、ランドを見上げる。黒いつぶらな瞳は、穏やかな犬のそれだが、その目つきは確かにチャンジ、その人のものだ。
適当なことを言ってもすぐ見破られるだろう。まっすぐな眼差しがランドを射抜く。
「……ああ――聞きたいことがある」
苦笑しながら、ランドはそう答える――特に隠すつもりもなかった。
「で、ソジに何を聞くつもりだ?」
「……。この二日間、どれだけ考えてみても分からないんだ」
チャンジがいぶかしげに眉根を寄せる。言葉が足りないのだと、さすがにランドにも分かった。
「ソジと、術を交えた。ヤクジもそうだが、術を扱う技術が俺とは次元が違い過ぎて、全く歯が立たなかった」
二日前の術比べを思い起こすと、ランドと彼らとでは発動の速さが根本的に違っていた。ソジもヤクジも術の前に唱えるべき『発動の呪』を一切口にしなかった。
こちらではそれが普通なのだろうか。
この目で見たものの、そんなやり方で上手くいくなど、とても信じられない――実際、こっそり試してみたが、やはり発動の呪なしでは術を使えなかった。
そして一瞬だけ見た、ソジの手のひらに光りながら浮かび上がったあの紋様。あれは何だったのか。思い返せば、ソジもヤクジも術を唱える前に、腕や手を突き出す動きを頻繁に見せた。
あれらは手のひらの紋様と何か関係しているのだろうか。里に転がり込んだだけの一介の旅人に、ここで培われてきた術の秘密を、おいそれと話してもらえるはずがない。
それでも、この先の旅路を思うと、ランドにはどうしてもその知識が必要だった。
もしかしたらチャンジも他の兄弟のように術を扱うのだろうか。実際、変幻の術を使うのだから、彼もまた詠唱を口にしているはずなのだ。
チャンジから聞くことも可能だろうかと期待を込めて、ランドは俯いた視線を獣へと滑らせた。
「チャンジも、術を扱うんだよな?」
じっとチャンジの顔を見つめると、はっと短く犬が息を吐き出した。
「お前が聞きたいことは、大体分かった…。まずさっきの質問だが――俺も一応、おんなじように術を扱える」
「そ……っ!」
ランドが何かを言う前に、遮るようにチャンジが続けざまに言う。
「――けどな、俺にはこまっけえことは一切分からねえんだよ。話が聞けるかどうかはともかく、ひとまずソジかヤクジと話をするんだな。…っと、ヤクジは――昨日から山に入ってるんだったな」
薬草を摘みに、時折、ヤクジは山に入るのだとチャンジは説明する。そして、いったん山に入ったら、しばらく戻らない、いつ戻るのか分からないとも。
そこまで言った後、犬の目が気まずげに視線を泳がせながら、ちらりとランドを盗み見る。
「その、な…オムジに反対されてるなら、ソジがここに来んのはちと厳しいと思うぞ」
最後は苦笑しながらそう言う。
「――そうか…」
あからさまにガッカリするランドに、チャンジが慰めるように言った。
「ま、そう落ち込むな」
優しい声にランドは、ほっと目を向けるも、そこにいるのはやはり犬の姿だ。そう言えば、ここ二日間、まともにチャンジ本来の姿を見ていないような気もする。
ランドの視線に、何か?とでも言うように犬の垂れた耳が持ち上がった。一体いつまでこの姿を続けるつもりだろうか。――いくら想い人が喜ぶからと言っても。
それはさておき、そう言えばと、ランドはちょこんと座る犬の姿をとっくりと眺めながら思う。
朝餉を済ませた後、ランドはいつものようにフェイバリットの様子を見に、彼女の部屋に向かう途中だった。
この邸内で、護衛という名の監視の目は、今はもうランドにつけられていない。
後を追うようにチャンジが現れたので、何か用事があったのではと思ったのだ。
「もしかして、俺に話でもあったんじゃないですか?」
ランドの問いに、チャンジが苦虫を嚙み潰したような顔になる。
「ああ…。今日は主が里を見て回る日だ。せっかくだから一緒にどうかとの仰せだ。嬢ちゃんの見舞いが済んだら、ランド、お前、主に同行してくれないか」
そう言う犬の顔には分かりやすく、嫉妬の色が浮かんでいた。獣面なのに、つくづく表情豊かだと、思わずランドの頬が緩んだ途端。
すかさずそれを見咎めた金毛犬が、苛立たしげにヴヴッと低い唸り声を立てる。
「あ? てめぇ今、笑いやがったか?」
けして笑ったつもりはなかったのだが――恋する男(犬)は人一倍、鼻が利くらしい。ランドは笑みを引っ込めて、慌ててぶんぶんと首を振る。
金毛犬はすっかりやさぐれて、せっかくの可愛い容姿が台無しだった。ランドは不機嫌な獣と目を合わさないよう、さりげなく視線を逸らした。
「……。クッソ。俺の方が、絶対可愛いはずなのに…なんでコイツが一緒なんだよ…待てよ?…小狗なら、勝てるか…?」
ブツブツとチャンジの焦ったような呟きが耳に入ってくる。聞くつもりはない。それどころかむしろ聞きたくない。
なのでランドは素知らぬ振りをする。というか、対抗心を燃やされるのもいい加減困りものだ。自分は犬ではないのだから。
恋心を拗らせて、と言うよりも嫉妬に狂うあまり――いずれにせよ、どうもチャンジの頑張る方向が、だいぶズレているようだ。
そうは思うものの――下手なことは言うまい。言わぬが花…いやこの場合『口は禍の元』と言った方がいいだろう。
「―――チッ。後で居室に来いよ」
ランドが相手にならないと分かると、チャンジが鋭く舌打ちして、すっくと腰を上げた。
くるりと向きを変えると、犬の大きな体がゆっくり尻尾を左右に揺らしながら来た道を引き返していく。
その後ろ姿を見送り、姿が見えなくなって、ようやくランドは全身の緊張を解いた。どっと一気に疲労感が押し寄せてくる。ランドは溜め息まじりに一室の扉の握りに手をかける。
ランドの手に反応して、パチパチと痺れるような感覚が、手のひらに感じられる。ソジの襲撃の後、新たに扉に施された仕掛けだ。
どうやら結界の一種らしく、入室を許された者以外は弾かれるらしい。施したのはヤクジだと聞いた。
甲高い音を立てて、扉が開く。
その向こうには、娘が眠る寝台が見える。
絶対、目を覚まさないと分かっていながら、なんとなく足音を忍ばせて寝台へと近づく――その足が不意に立ち止まった。
どこから入り込んだのか、娘の枕元には黒猫が一匹。ゴロロンゴロロンとうるさいくらいに喉を鳴らし、白い頬にぴったりと寄り添う…いや張りつくと言った方が正しい。
目を閉じた子猫は、時折、頬をピクピクと震わせた。甘えるように娘の顔に小さな頭をすり寄せる姿は、とても微笑ましく愛らしい――だが。
「―――あ~…ええ匂い…」
ただの黒猫は、けして、こんなことを言わない。
読んでいただき、ありがとうございます。
次話は3日後、更新予定です。
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




