日録11 俺の屍を越えてゆけ
「――なりません」
チャンジのひと声で室内が凪いだように静まり返った。
先ほど――茶器が割れた一件で、ピタリとおしゃべりを止めた姉妹がランドに目配せをする。
小さく「どうぞお食事を続けてください」と勧めてくれるものの、なんとなく音を立てることが憚られて、ランドは茶を片手に二人を盗み見る。
その場に膝まづくチャンジの横顔が見えた。動かない表情は、敷物にじっと視線を落としたまま。今朝、双子の姉妹に見せた恐ろしいほどの覇気もない。
大雨が降る前の小川のような静けさ。怒りを露わにしているわけでもない――なのに、朝の怒りよりも恐ろしい。いっそ怒鳴り散らすなり分かりやすく怒ってくれた方が何倍もマシのように思える。
「――客人は立派な男児。他ならぬ一族の長が、沐浴を手伝いたいなど、もってのほか。間違っても口にしてはいけません。わかりましたか?」
「…言ってみただけですのに…」
「それは返事ではありませんね」
チャンジの声は子供を諭すように、思いのほか優しい。それがかえってランドには空恐ろしく聞こえた。
エンジュはしゅんと見るからに気落ちしている。眉をへにょりと下げ、その目がわずかに潤んでいるようにも見えた。
頼りなげで可憐な姿は、思わず支えてやりたくなるほど、見る者の庇護欲を駆り立てる。
そんなエンジュを前にしてチャンジは少しも揺るがない。それどころか眉ひとつ崩さず、ひたすら苛烈な視線をエンジュに注ぎ続ける。
「…怒っていますね?――チャンジ」
「怒られるようなことを言った覚えがあるんですか」
「やっぱり、怒ってます――…」
「誤魔化されませんよ、主。返事がまだです」
さんざんランドを振り回していたエンジュも、チャンジの包囲網の前には旗色が悪そうだ。
この勝負の軍配、どうやらチャンジに挙がるのか。ランドがそんなことを考えていると、ウコムジがランドの茶器に湯を注ぎながら、そっと耳打ちした。
「いつも、ここから主様が巻き返すんですよ」
「そ、なんだかんだ言って、チャンジ兄様は優しいんですの」
朝のひと幕でチャンジに叱られて半泣きになったというのに、二人は楽しげに笑い合う。仲のいい姿に、ランドの心がじんわりと温かくなる。
「常に冷静に振る舞われておりますが、チャンジ兄様は誰よりも情に厚い方」
ウコムジがそう言うと、サコムジがその後を引き受ける。
「ああ見えて、一度懐に入れてしまったら、けしてお見捨てになれない…そんな一面もおありなのです」
「…良い兄君なのですね」
ランドの言葉に、二人が嬉しそうに微笑んだ。そのまま肩越しに視線を滑らせると、今度は口もとを隠すように、そっと袖口を押し当ててこっそりと言った。
「ですが――チャンジ兄様が主様に甘いのは、性格のせいばかりではないのですよ」
「そうなんです。ここだけの話ですけれどね」
意図したわけでもないのに、ごく自然に二人は視線を交わし合うと、こくりと頷き合う。
「兄様は主様を、それは大切になさっておいでです」
「主様は兄様の特別なのです」
二人がチャンジとエンジュに向ける眼差しはこの上もなく優しい。その様子に、この手の話に鈍いランドもさすがに気がついた。
チャンジは、エンジュに、恋慕の情を抱いている。
だとすれば、チャンジがランドを気に食わないと言った理由もすぐにそれと分かる――嫉妬だ。
二人の間では、すでに先ほどと違う話題に移っていた。チャンジの低い声が途切れ途切れに聞こえてくる。
「――召し上がってないじゃないですか」
「その…食欲が湧かないのです…そんなに怒らなくとも…」
しょぼくれるエンジュを前に、気を落ち着けるように、チャンジがふ――と長い息を吐く。
「心配なんです――あなたは神と言っても半分は人。食べなければ死んでしまいます――ですから少しでも召し上がっていただかないと」
「ですから、食べたい気持ちがあっても、喉を通っていかないと何度も…チャンジは…意地悪ばかり言います」
「な…っ。意地悪で言うわけがないでしょう?」
「だって毎回毎回、くどくどくどくどと」
「お言葉ですが、毎回毎回食べないのは主ですよね? あと、くどくどが多くないですか?」
段々、二人の会話が、子供の喧嘩じみてきた。
そんなやり取りを見て、コムジたちが「あらあら、またやってる」と呟く。ランドを残し、姉妹は二人のもとに近づいていく。
「お兄様。そんな言い方ではいけませんわ」
「そうですよ。食べることがもっと嫌になってしまいます」
仲間が来たと、エンジュが瞳を潤ませる。あまりにもホッとしたその表情に、さしものチャンジも思わず閉口する。それでも最後の抵抗とばかりに、口をすぼめて小さくぼやいた。
「う…っむ。だが、主には召し上がっていただかねば」
「まあ――それもそうですよねえ…」
コムジたちが、何故かちらりとランドを振り返る。何かを思いついたのか、その顔がぱっと笑顔になる。
「――そうですわ。ただ食べろと言うのではなく、ご褒美を差し上げては?」
「あぁ? ご褒美?」
「ええ。例えば、お食事をされたら、主様の希望を叶えてお客様のお世話をしていただく――とか」
瞬間、エンジュの顔がみるみるうちに紅潮して、まるで日が差したように、ぱあっと明るくなる。
「それ――いいです。それなら頑張れそうです」
「いや…待て」
チャンジの声に、ランドも心で力一杯頷いた。冗談ではない。これではまるっきりの、とばっちりではないか。
こちらを鋭く射抜く美丈夫の瞳に、隠しきれない嫉妬の炎が浮かぶのがはっきりと見て取れた。――非常にまずい。
「――分かりました」
その声は室内によく響いた。エンジュの驚いたような視線も、双子の姉妹の視線もチャンジに集まる。ランドもぎょっと彼を見た。
どういう意味の”分かった”なのだろう。少なくともランドは同意はしていないし――頷くつもりもない。
エンジュの期待に満ちた眼差しに、チャンジはゆっくりと頷いて返す。
「それでお食事をしてくださるなら、お気持ちを汲みましょう――ただし」
チャンジはいったん、言葉を切った。つかの間、逡巡するように視線を彷徨わせるも、やがて意を決してきっと目を上げる。
「ご本人の気持ちを無視するわけにはいきますまい――何より、主が手ずから他の男の体を洗うなど、想像するだけで気が狂いそうになる。俺はきっと、正気を保っていられないと、それは宣言しておきましょう。主はそれでも良いのですか?」
清々しいまでの本音――そして脅しだ。だがエンジュを悲しませるのも、チャンジにとっては不本意らしい。
その後「どうしても洗いたいとおっしゃるのなら」と男は口早に続ける。
「主――洗うのは俺ではいけませんか?」
チャンジは懇願するように、熱い視線を目の前の麗人に向ける。自分は今、何を見せられているのだろうと、ランドはどこか遠くを見てしまう。
…これはどうしてもこの先を進むなら、俺の屍を越えてゆけ的なものだろうか。
チャンジの言いたいことが分からない。果たして、これでエンジュが納得して頷くのだろうか。見るとエンジュも困惑顔をしている。チャンジは噛んで含めるように、ゆっくりと話した。
「主は、金毛犬のお世話を、なさりたいのですよね?」
ついに、山酔いが頭にきてしまったのか。言葉がいくつも重なって聞こえるようになってしまった。
実際は茶髪の青年と言っているはずなのに、なぜか幻聴が聞こえる。それに対して、こっくりとエンジュが頷く。
「であれば問題ありません。俺の”変幻”なら、見た相手の隅々までそっくりに化けることが出来ます」
「つまり…?」
「つまり――客人の姿を完璧に写し取れるということ。今朝、客人をひん剥いて見ておりますので、ばっちり化けられます」
いや――待て。何を言っている?
ランドは信じられない思いで、ドヤ顔を決める男の横顔を見る。
「…。…。…それなら、まあ…」
「―――おい、そこ」
まんざらでもない顔で、頷こうとするんじゃない――でもって。
ランドは、目の前でホクホクと顔をほころばせる男に苛立ちを募らせた。
――あんたも、これはいい機会とばかりに自分を売り込むのは、やめろ。
気持ちばかりが先に立ち、なぜか言葉が出てこない。ランドは焦った。さらに追い打ちをかける声が、姉妹から放たれる。
「「私どもも、お手伝いいたしますわ~」」
(俺の、尊厳は、どこへ行った?? )
読んでいただき、ありがとうございます。
チャンジという人物をひと通り書けて、個人的に満足です。
読んでいただいた方にも楽しんでいただけたら、嬉しく思います。
すみませんが、自宅作業のため、二週間後に更新を再開します。
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




