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唯一無二〜他には何もいらない〜  作者: 中村日南
歓びの里 [ランド、七日間の記録]編
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日録4 里長様の胸の内

お待たせしました。

またお付き合いいただけると、嬉しいです。

「さて、ここからは真面目な話です。あなたの診察はまだでしたよね?」

「診察?」


 戸惑いながら自分の体を見下ろす。と言うのも、ランド自身は特に不調を感じていないし、怪我もしていないからだ。


「ええ。一日の最後に少し診ておきましょうか。そこに腰かけてくださいますか」


 そこ、とエンジュは長椅子を示す。


 対してランドは、己の汚れ具合に自覚があるからこそ、布張りの美しい長椅子に再び腰を下ろすのは、非常に抵抗があった。

 

「…でしたら、先に着替えた方が…」

「時間は取らせませんよ」


 きっぱりとした口調に、どうやら診察は決定事項らしいと察したランドはさっと部屋を見回す。


 ちょうど視線の先に、先ほどまで座っていた木の腰かけが目に入った。「少しお待ちください」と腰かけを持ってくると、そこに腰を下ろす。


 もの言いたげに見上げるランドに、エンジュの目がなんとも言えない愉悦の色を浮かべて細くなる。


「ああ――普段、見上げている方を見下ろすのは、なかなかいいものですね」


 また何を言い出すのかと、ランドが呆れた顔をする。


「治癒でしたら私も術師の端くれ。具合が悪くなれば自分で癒せますが…」

「治癒と診察は別物ですよ。それに具合が悪くなる前に一度診ておくのが安心かと――『山酔い』をご存知ですか?」

「山酔い…ですか」

「山迷い、山気(さんき)とも言いますが――ああ、(ちまた)では“高山病”と呼ぶそうですね。そちらの方が分かりやすいでしょうか?」


 エンジュがそう説明すると、「高山病」とランドが小さくつぶやいた。


「聞いたことはあります…なんでも高い山でわずらうのだとか」

「おっしゃる通り。高い山に登った時に現れる(やまい)です。なにしろこの里は、標高1650(じょう)(約5000メートル)の高地にあるのですから」


 言ってから、エンジュはふむと考え込む。


「1650丈とひと口に言っても数字が大きすぎて、いまいち実感できませんよね…。雪を頂く連山は見ましたか? あの山々の半分くらいの高さと言えばお分かりになるでしょうか?」


 こちらに来て初めて見た、一枚の壁のようだった白い連山。

 

「標高が高くなればなるほど、空気は薄くなる。すると、いつもと同じように呼吸していても、思ったより息を吸えていないということが起こります。高地に慣れていないと、この環境の変化に体が追いつかず、体の具合が悪くなることがあるのですよ」


 ランドと向かいあうように、エンジュもまた長椅子に腰かけた。


「ゆっくり体を慣らせば問題ありませんが、あなたの場合いきなりこの里にきた。しかも疲労も激しい。体調が悪くとも山酔いを起こしやすくなるのです」

「山酔いになるとどうなるのですか?」

「発症するとまず、二日酔いのように、頭痛、吐き気、嘔吐、倦怠感、脱力感、ふらつき、めまいなどの症状が現れます――なかなかツラいみたいですよ?」


 「肌に触れますね」と言って、エンジュは正面に座るランドの両手首を取り、心臓の高さに上げさせた後、手の平を上に向けさせる。


「この里の高さになると、空気は平地の半分ほどになるのだそうです――息苦しさはありませんか?」


 自身を探った後で、いえ大丈夫ですとランドは首を振る。


 左右それぞれの手首の親指のつけ根辺りを、人差し指、中指、薬指とエンジュのしなやかな三指がそっと押さえていく。


「これは?」

「脈を診る方法です。脈診と呼びます」

 

 押さえた三指に均等に力が加えられる。

 三指の力が緩んだ後、次に薬指と中指にぐっと圧を加えられ、あるところでピタリとその動きが止められる。


 それが終わると、さらに一指ずつ、力を入れたり抜いたりを丁寧に繰り返していく。これで何がわかるのか、ランドには見当もつかない。


 エンジュはその都度、指先に耳を傾けるように慎重に脈を取る。集中しているせいか、その顔にはいつものような笑みはない。


 この上なく真剣な顔を見下ろしながら、診察の邪魔にならないよう身動きをせず、ランドはじっと静かにした。そうしていると、この場所の静寂さが改めてはっきりと感じられた。


(標高1650丈にある隠れ里…今そこに俺がいるなんて、不思議な気分だな)


 何気なく目を向けると、窓の向こうに雲一つない晴れ渡った空が見えた。


 その色は、輝かしく鮮やかで、驚くほどに深みのある青色をしている。この美しい青は時に『紺碧(こんぺき)』と呼ばれる空の色だ。


 ランドは、いつか見た天を衝く白い峰々を、脳裡に思い浮かべた。


 あの山の半分とは言え、これほど高い場所に登るのはこれが初めてだ。大気が半分の薄さと言われたものの、地上とそれほど大きな違いを感じるわけでもない。


 だからだろう。二日酔いがどんなものかよく分からないが、頭痛や嘔気くらいなら別にそれほど大したことでもない――診察を受けながら、そんなことを考えていると。


 まるでランドの心を見透かしたかのように、エンジュがさらりと言った。


「たかが頭痛や吐き気などと侮ってはいけませんよ」


 内心どきりとするも、もちろん表情を変えるようなへまはしない。視線を戻すも、エンジュは手元に目を落としたまま。こちらも見ずにさらに続ける。


「山酔いは、症状が進むと、息切れ、錯乱、そして昏睡状態など、状態はより重いものになります。さらに言えば万が一、浮腫を起こそうものなら、脳がむくみ肺に水が溜まるという、それはそれは恐ろしいことにもなりかねません」


「侮るなど、そんなことは…考えておりま、せん…」


 後ろめたさからか語尾にどんどん力がなくなっていく。下げた目線をちらりと上げて、エンジュが悪戯っぽく笑う。


「本当に?」


 診察の為とは言え、膝が擦れ合うほどに近い。エンジュが身動きすると長い裳裾がさらりと音をたてた。そんな小さな音まで聞こえるほどに――二人の距離は近い。


 意識した途端、かあっと血が顔面に集まり、頬に熱を帯びるのが分かった。ランドはぎこちなく体を引く。これは恥じらいというよりも、防衛本能に近い。


「そ、そんなことより…何か問題はみつかりましたか?」


 下手に誤魔化すのは悪手だ。

 ランドは正面からまともに相手とやりあうことを避け、話題を逸らすことにした。目論み通り、ランドの言葉にエンジュが再び手元に視線を落とす。


「ん…少し脈が浮いていますね――脈拍もやや早めです」

「脈が浮く…とは?」

「簡単に言うと、体調はやや下降気味ということです。脈の形状も、わずかながら硬くて細い。つまり若干、呼吸を取り込めていないように見受けられますね――失礼」


 手首から細い指が離れると、そのまま腕が持ち上がり、ふわりとランドの頬を柔らかく包み込んだ。その手がひんやりと冷たい。


 その冷たさのせいか、肌に直接触れられたせいか、反射的にびくりと体が強ばる。


 初心(うぶ)な小娘のような己の反応に、歯噛みしたい気持ちをランドは、なんとか残った理性でねじ伏せる。


 そんなランドの気も知らず、人外レベルの美貌は小首をかしげながら、さらに至近距離からのぞき込む。


 あまりの近さに、ぎょっとランドが目を瞠った。


「う………ゎ…っ。え・エンジュ様…――近い近い――近すぎます…っ」


 ランドの顔は全面、真っ赤だ。たまらず、その華奢な肩に手をかけ、押し戻そうとするも――線の細い体つきにも関わらず、びくともしない。


 あまりにも強い体幹に、ランドは驚いて目を見開き、赤い衣に包まれた薄い体をまじまじと見下ろす。


 手をかけた肩も華奢で、少し力を込めるだけで、ぽっきりと折れてしまいそうなのに。


「―――そんなに取り乱さなくとも…。ただの診察ですよ?」


 邪気のない瞳が上目遣いにランドを見上げて、するりと体を離す。


 余裕のないランドと違い、その淡い緑の瞳は、ランドの動揺を見ても揺らぎもせず、どこまでも穏やかだ。


「…。…。俺は、その、女性と、これほど近いのは…慣れないのです」

「ああ。そんな心配なさらなくとも…だって」 

 

 いったん、言葉を区切ると。


「私はあなたと同じく男性…」

「――、!!」

 

 きまり悪く伏せたランドの顔が勢いよく上がる。それを見て、エンジュがふと笑った。


「…かもしれませんし?」

「―――おい」


 はっとランドは口を押さえたが遅かった。吐いた言葉は戻らない。


「そ、その。申し訳…ありません…」


「構いません」とエンジュはにっこりと女神のような微笑みを浮かべる。


「あなたにはその不敬を許します。これ以後も気にせず思うまま、話してくださって結構ですよ」


 輝かしい栄誉を(さず)けられて、本来なら喜ばしいことなのだが、ランドの顔は複雑だ。


「さて…大変、心苦しいのですが時間です。診断結果を踏まえた上で、あなたはそろそろ体を休めるべきだと思いますので」


 申し訳ありませんと、しおらしくそっと目を伏せながらエンジュは言った。


 なぜ自分は振られたように扱われているのだろうと、ランドは半ば死んだ目をしてそんなエンジュを見る。


 もう言葉も出てこない――そろそろ疲れも限界かもしれない。


「さぞお疲れでしょう。お部屋を用意したので案内させましょう」


 ここでぐずぐず居座ろうものなら、まるで自分がエンジュに未練がましくしているみたいではないか。こうなるともう部屋に下がって休むしかない。

 

 そこでランドはふと気がついた。回りくどいやり方だから分かりにくいが、これはエンジュなりの心配りではないかと。


 最初に警戒心を剥き出しにしたのは自分だ。しかも助けてもらっておきながら、気持ちに余裕がないばかりに、その後も頑なな態度を取っている。


 信じるにも時が必要。そう言ったエンジュは文字通り、時間をかけて信用するに足る姿勢を示してくれているのだろう。


 言葉ではなく――態度で。


 ここにきてようやく、ランドはそのことに思い至る。ちらりと見ると、目が合ったエンジュがにっこりと笑う。


(本当に分かりにくいが…この方は、良い方だ)


 ただ癖が強い…いや強すぎて、そこがやや難点だなとランドは小さく笑った。幸い、エンジュはそれには気づいていないようだ。


「高地に慣れるまで、ゆっくりで構いませんので、水分をしっかり取るようにしてくださいね」

「…それは助言ですか?」 

「ええ。山酔いにならない為のちょっとしたコツです。一つ、水分をしっかり取ること。二つ、食事は控えめに。三つ、慣れるまで、当面は湯に浸からず、体を拭く程度にとどめること。そして、意識して深い呼吸をするよう心がけること。覚えられましたか?」


 ――その証拠に、なんのかんのと言いながら、ランドの身を案じてくれる。


「…ありがとうございます。しっかりと肝に命じます」


 素直に礼を述べると、その美しい形の眉が驚いたように持ち上がった。


「おや。素直ですね?」

「はい。エンジュ様の胸の内、俺の心にしっかり届きましたから――やはりエンジュ様はお優しい方なのですね…心より感謝いたします」


 きょとんとエンジュの目が丸くなる。その後一瞬、頬にうっすらと朱が走るのをランドは見逃さなかった。初めて見る素の表情だ。


 不覚にも、その顔が少し可愛いと思ったことは――墓場まで持っていく。ランドはひそかにそう心に誓った。

読んでいただき、ありがとうございます。


次話は一週間後の水曜に更新予定です。

次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。

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