閑話1・堕ちたらそこは深い沼。多分底のないやつ (前)
大変お待たせしました。
歓びの里編が始まりました。
『イレインの里帰り』は、下記5つのお話で構成された章です。
○堕ちたらそこは深い沼。多分底のないやつ (前・後)
○優しいキスが降り注ぐ{前・中・後}
○燕の天敵は、雀の子{前・中・後}
○あなたと見た景色を忘れない(前・後)
○夢でいいから{前・中・後}※予定
時系列で随時、アップしていきます。
第一話目はランドのお話で前・後編。
お付き合いいただけますと嬉しいです。
エンジュの言葉通り、部屋を訪れた治癒師の腕は、確かなものだった。
治癒師は、全身くまなく診察をして、小さな傷にまで丁寧に治癒をかけ、折れた骨には再生の術を施す。
それだけにとどまらず、治癒師が伴った数名の手により、髪や体を清められ、破れて泥だらけになった衣服も新しいものに取り替えられた。
そして手厚い看護を受けた後、今、フェイバリットは安らかな寝息を立て深く眠っている。
その姿を見て、ようやくランドはひと心地がついた。
だがそんなランドに、エンジュは「骨の再生は大して時間はかかりませんが、もう一つの方はどのくらい時間がかかるか分かりませんよ」と謎めいたことを言う。
傷は治癒師がほぼ完全に癒してくれたはずだ。不思議に思っていたところ、その後になってエンジュの言葉の意味を思い知る。
フェイバリットが眠りから覚めなくなったからだ。
ゆっくり休んでいると思っていたのは最初だけ。あれからどのくらい経ったかは分からないが、さすがに眠り過ぎではないかと不安になった頃、異変に気づいた。
呼べど揺さぶるもピクリとも反応がないのだ。だが口もとに耳を寄せると、確かに息の緒はある。
どうしたものかと弱り果てていたところ、美しい族長が様子を見に来た。
そして眠るフェイバリットの顔をのぞきこみながら、エンジュがさらりと言うことには。
「魂が抜けだしていますね」
あまりにも事もなげに言うので、最初、聞き間違いかと思ったほどだった。たっぷり時間を置いて、ランドは「は?」とひと言言った。
後で振り返ると、失礼な物言いだと思ったが、それほどに(さらりと何言ってんだこいつ)という気持ちが抑え切れなかった。エンジュは美しく微笑むと再び繰り返した。
「魂が抜けています」
ランドは頭を抱えた。
「エンジュ様……」
「呼び捨てでも構いませんよ?」
「――。そんなわけにいきません…っ、それよりも。魂が抜けたことは、分かりました。抜け出た魂はどうなっているのでしょう?」
ランドなりに耐えたつもりだった。それでも、あまりの緊張感のなさに、口調に刺々しさが混じるのが抑えきれない。
エンジュは「ん―」とつぶやきながら、眠る娘の顔をじっくり見下ろしながら考え込んでいる。
「今はここにはないですねぇ…」
「――、今どこにいるか分かりますか? このままで彼女は大丈夫なのでしょうか?」
リヴィエラと同じ賢人でありながら――なんだろう、この違いは。
おっとりと言えば聞こえはいいが、エンジュの間のびした話し方に、珍しくランドが苛立ちを募らせた。
ちらりと、エンジュが視線を寄こす。
一瞥されただけ。なのになぜか、冷たい刃を喉元に突きつけられたようなヒヤリとした気分になる。
焦っているとはいえ、礼をかいた振る舞いをした。
すぐに自身を省みると、ランドは頭を垂れて自らの非礼を詫びる。
「その…申し訳ありません――大恩あるお方に失礼をしました」
「謝罪を受け入れます」
エンジュはそう言うと、穏やかな笑みを浮かべて、静かに目を伏せる。
かと思うと、こらえ切れずに、ふふっと笑いを洩らした。
――笑ってる?
怪訝そうにランドが、わずかに眉を顰めると。伏した目が、ぱっとランドを見上げた。そこにはいたずら好きな子供のような眼差しがあった。
「――優しげな顔の下に、意外に立派な牙を隠されているのですね」
まだ笑いがおさまらないのか、くすくすとエンジュの忍び笑いが続く。
「え?」
「お尻の青みが残る若者に、ガブリと噛みつかれるのは、思ったより悪くありませんでしたよ…ふ、ふふ」
まるで眩しいものでも見るように、エンジュが目を細める。
演技か天然か、どちらかは分からないが、自分は挑発されていたのだと、この時ようやく気がついた。
先ほど晒した自身の拙い反応が思い出されて、かあっと頬が赤らむのが分かった。
エンジュがリヴィエラと違い過ぎるなどと思った自分がひどく呪わしい。賢人など、一癖も二癖もあるものだろうに。
――この方もだいぶ人が悪い。
見た目の柔らかさに油断した。悔しい気持ちを隠し切れず、ランドの目に自然、苦々しいものが浮かぶ。
二度と同じ失態はすまいとランドは唇を噛み締めた。
興味津々という気持ちをもはや隠すつもりもないらしい。エンジュはじっとその様子を眺める。
「最初に見た時から思っていましたが…その取り澄ましたお顔――丸裸にして…手懐けてみたいものですね」
「―――」
ついにランドは顔を覆ってしまった。
「エンジュ様。数々の非礼については深くお詫びします。なので、どうか…この辺りでご容赦願えませんか…」
「そうですね。このくらいにしておきましょうか。今日のところは」
エンジュは楽し気に言った。
一部ひっかかる部分はあったが、ランドは突っ込まずに黙ってエンジュの言葉を待った。
「まず、彼女の魂は行きたいところに飛んで行ってしまったようです」
「行きたいところ…?」
「はい」
エンジュは頷くと、さらに続けた。
「魂は自由にどこにでも行き来できるのです。どれほど遠くても――行けないと思っていた場所にも。会いたい人に会いに千里の距離もたちまちに、なくしてしまえる。それほどの想いがあれば…ですが」
「…魂が離れている間、肉体はどうなるのでしょう…」
「長い間、離れていれば衰弱し――最悪、死に至ります」
あっさりと言ってのける。
『死』という言葉に不安な感情を隠せず、ランドは硬い眼差しを白い顔に向けた。そんな物騒な話とは裏腹に、眼下にあるのは穏やかな寝顔だ。
強ばるランドの隣に、寄り添うようにエンジュが並んだ。
「あなたには、彼女の魂がどこに行ったか分かりますか?」
エンジュの問いに、「もちろん」と深く溜め息をつきながらランドは頷いた。
「彼女が行きたいところなんて一つしかない」
変わりなくご訪問いただいた方に感謝しきりです。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
明日、後編をアップします。
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




