2-27 あと一歩が、届かない
ヒロインが暴力を受ける描写があります。
苦手な方はご注意ください。
落ちた瞬間のことはよく覚えていない。何度も体が転がった。衝撃で頭がくらくらする。どこか怪我をしていないか確認しようとして腕に力を込めたのに、なぜか左腕が全く動かない。
左の肘から下がぶらんと垂れ下がったまま、指一本動かない。ひどく驚いて腕を持ち上げようと肩に力を入れたら、途端に激痛が走った。
痛みに呻きながら目を上げると、荷車が前方で止められるのが見えた。男たちがこちらを指さして何かを騒いでいる。フェイバリットは立ち上がると、後ろも見ずに走りだす。
泣きたい気持ちで走り続ける。なのに足が震えて足もとがふわふわと心許ない。突然、膝が抜けてしまいそうだ。だがここで転んだらお終いだ。
ちらりと背後を垣間見ると後方から男たちがぐんぐんと近づいてくるのが分かった。苦しい息を飲み込んで、ぐっと唇を噛みしめる。
――――逃げられない。
いつものように、胸もとに手を伸ばしていた。元気が欲しい時や眠れない夜、無意識に手がそこに触れるのがいつのまにか癖になっていた。
細い首筋を、しゃらりと何かが音をたてて滑るのを聞いた。首飾りの鎖の音だった。
「一度だけ」と言って穏やかに笑った美しい顔が脳裡をよぎる。
”あなたが困った時、危機にあった時に一度だけ、私を呼びなさい”
(リヴィエラ様の珠飾り……っ)
手の平に触れるその丸い感触をぎゅっと握り込む。
(これで助けを呼べば)
(ランドも私も助かる)
―――けれど。
ふわりとその想いがよぎった。
一度きり。この後、どんなに会いたい時でももう会えなくなると。
その気持ちがわずか数秒、フェイバリットの決断を遅らせた。その数秒が両者の命運を分けた。フェイバリットが名前を口にする直前に男たちが追いついたのだ。
服の端を掴まれて、ぐいっと勢いよく引き倒される。小柄な娘は足をもつれさせるとあっという間に地面に組み伏せられた。
逃げる獣を取り押さえるように、上から首根っこを掴んだ男は、呼吸を整えながらうつ伏せになる娘を見下ろした。
どうやら、先ほどもつれ合った時に鎖が切れたらしい。緩く開いた手の先には小さく光るものが転がっていた。
目敏くそれを見とがめると、半笑いは指でつまみ上げる。ちぎれた鎖の先で揺れているのは青緑色の――宝珠。
「へっ。珍しいもん持ってんじゃねえか」
目の高さに持ち上げると半笑いが石をのぞき込む。へへっと笑うと、勝ち誇った眼差しがフェイバリットに向けられた。
「お嬢ちゃん。悪いなあ――ま、弱いもんは奪い尽くされるってのがオチだ。大事な首飾りも、自由も――でもってその体もな」
楽しそうに言いながら、男が見せびらかすように珠飾りをわざわざフェイバリットの目の前で揺らして見せる。
男は子供っぽい嫌がらせをして満足したのか、それを懐にしまい込む。当然ながら、その間はフェイバリットから目が離れている――だから気づかなかったのだろう。
その瞬間、フェイバリットの身の内で、何かが切れたことに。
次にフェイバリットの取った行動は、半笑いも、半歩後ろで見ている怒りんぼでさえ唖然とするものだった。
首のつけ根を押さえる男の手を引き剥がすと、身をひねってその手に力いっぱい歯を立てたのだ。
怒りに任せた遠慮のない一撃に、ぎゃっと男が悲鳴をあげた。歯を食いしばってぎりぎりと肉に歯を食い込ませる。
「か・返せ……っ!」
食いしばる歯の隙間から言葉を押し出す。
渡すものか。リヴィエラ様を絶対に手離さない。それだけは――許さない。目の前が真っ赤になるほどの怒りがこみ上げる。
フェイバリットを引き剥そうと、半笑いがもう片方の手で荒々しく白い髪を鷲掴みにする。男が力を込めて引っ張ったので、ぶちぶちっと髪がちぎれる音が聞こえた。
「…やろう…っ」
低い声がした。その次の瞬間には、男の拳が腹部にめり込んでいた。鈍い音がして、フェイバリットの体が地面の上を転がった。
ぐっと喉をつまらせると、吐逆する。すっかりものを吐き出すと、四肢を丸くして激しくむせた。
立ち上がって、丸くなってうずくまるフェイバリットのそばまでやってくると、男が無言でその体を見下ろしている。
仰ぎ見た半笑いの顔は怒りで歪んでいた。白目の部分を赤く充血させ、その目には殺気すら帯びている。額には青筋が浮いていた。
震える拳には、くっきりと鬱血した歯型がついていた。手の震えは怒りのせいか、噛まれた傷の痛さからか。
そのただごとでない様子に、さすがの怒りんぼも「おい」と声を上げかけた時。無言の蹴りが脇腹に入る。ミシリと骨が軋むほどの威力に、一瞬フェイバリットの息が止まった。
それでも怒りがおさまらず、男はさらにその背に向かって何度も足を振り下ろし、草をむしり掴む手の甲を踵で踏みにじる。
「やめろっ! ”商品”に傷をつけんじゃねーよ…っ!」
「だから、顔は避けてんだろーがっっ!!」
もはや顔を上げる力もない。フェイバリットは、頭上で交わされる、切れた半笑いの声とそれを諫める怒りんぼの声をぼんやりと聞いた。
その直後だった。顔の下の地面から、地響きを感じ取ったのは。近づいてくると思った刹那、いきなり轟音が降ってきた。
獣の咆哮、二人の叫び声、そこに激しく取っ組み合う音など、さまざまな音が頭上で入り乱れる。
何が起こっているのだろうか?
フェイバリットが少し首を傾けて仰ぎ見ると、目の前には真っ黒な毛並の獣の大きな鼻面があった。
信じられない気持ちで何度も瞬きを繰り返す。大きな真っ黒いその獣は熊だった。ふーっふーっと荒い鼻息が至近距離から吹きかけられる。
(あ……詰んだ)
どうしてこの場所に熊が現れたのか。二人の男はどうなったのか。熊が大きく口を開ける。ずらりと並んだ白い牙の一本一本までもがはっきりと見えた。
きっとこの恐ろしい牙はこの頸をひと噛みにしてしまうのだろう。観念して目を瞑った時――クンッと服の端が引き上げられた。
(え?)
持ち上げられて、地面しか見えなかった視界に二人の男が頭から血を流している姿が目に入った。呆然としながら二人がこちらを見ている。
ふっふっと獣の荒い鼻息が髪をなぶる。はっとしたように男たちが我に返った。
「あ! ま、待ちやがれ……っ!!」
口にフェイバリットをくわえたまま、獣がぱっと体の向きを変えると走り出した。全力で走ると、熊の足は相当速い。みるみる間に熊は追いすがる男たちを引き離す。
一度だけ、大声で怒りんぼが何かを叫んだ時にぴくりと耳を立てて足を止めるも――それも一瞬。
ふたたび熊は前を向いて走り始める。今度はもうその足を止めることはなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
第二章…残りそれでも5話も。。。m(__)m
3日後から連日更新します。
なお28、29話は前・後編につき、初回のみ2話を同時更新します。
その後最終話まで1日1話更新の予定です。
最終話まであと少し。
二章最後まで、お付き合いいただけますと幸いです。
次話も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




