2-23 赤い崖
二人の体が、地上に向かって。
落ちていく。
ランドの肩越しに青い空が視界に映る。
ぎゅっと、たくましい腕に胸に抱き込まれる。
永遠にも似た一瞬。
フェイバリットは胸の中で、激しく目を瞬かせた。
――何が、起こった…?
◇
頭の中をものすごい早さで、記憶が流れる。
(あ、これってリヴィエラ様に聞いたことがある。走馬灯ってやつ?)
死に直面すると、一生懸命、脳が生きる術を探ってフル回転するって。本当だったんだと、どこか他人事のようにフェイバリットは思った。
何が起こったのか、分からなかった。フェイバリットを咥えて、尾白鷲に変幻したランドと共に空に舞い上がった。
赤い崖の高さは天までそびえるほどの高さだったが、7尺(約2メートル)の大きな翼で越せないほどのものでもない。
大地を離れる前、天を仰いだランドから「朝日が眩しそうだから、風呂敷の中で丸くなってた方がいい」と言われた。
その通りにしていたので、実際には風呂敷にもぐり込んだ後の出来事はフェイバリットには分からない。
ばさりと大きな翼が羽ばたく音と、頭上を勢いよく吹きつける風――飛び立ったことを暗がりの中で感じ取っていた、それだけだ。
上昇はすぐに緩やかになった。崖の上に到達したのだと思った瞬間――尾白鷲の悲痛な鳴き声が空気を切り裂いた。次いで動揺したような激しい羽ばたき。
その音にフェイバリットはとんでもないことが起こったのだと分かった。風呂敷から顔を出そうとした次の瞬間――落下が始まっていた。
驚きのあまり、フェイバリットの変幻は落下の途中で解けてしまった。
ランドが変幻を解いたことが分かったのは、落ちるフェイバリットの体が、胸の中に強く抱き込まれたからだ。
――まるで何も怖いことはないのだと怯える子供を守るように。
ランドの体に腕を回して、フェイバリットはぎゅうっと強く力を込めた。その頭上で、素早く発動の呪が唱えられるのを聞いた。
「 ――ratcitara (ゆっくりと) 」
発動するや、強い力で押し戻されるような、背中側から引っ張られるような、強い抵抗が体にかかる。
落下する速度がぐぐぐっと急激に落ちた。だが――その前に、地面が迫ってきた。
(間に合わない――――!)
ドンっと落下音が谷の向こうまで響き渡った。乾いた地面から砂埃が舞い上がる。やがて、舞い散る砂埃と共に、ゆっくりと静寂が戻ってきた。
倒れ込む男の腕の中から抜け出して、いまだ震える体を起こす。砂地の上に倒れたランドの体はぴくりとも動かない。
「………!!」
足もとから悪寒が這い上がった。震えがおさまらず、声が出てこない。這いずるようにしてその口もとに顔を寄せ、恐る恐る薄く開かれた唇に耳を澄ませる。
細く薄く吐かれる息の緒をなんとか確認した時は、全身から力が抜けるほどにフェイバリットは安堵した。
見上げると崖に挟まれた隙間からのぞく空。赤い絶壁が壁のように両側を塞いでいる。
赤い崖の谷底の道に墜落したらしい。
よくこんな狭い崖の間を岩肌のどこにも引っかからず、打ちつけられることもなく、真っすぐ落ちることが出来たものだ。不幸中の幸いと言うより他ない。
ランドの体を揺さぶりかけて、その手を止める。急に動かすのは危ないかもと思い直したからだ。それよりもまず水で頭を冷やしたりした方がいいのかもしれない。
動揺しながらも、背後に落ちた背負い袋を見つけて、手を伸ばしかけた。手に取るより先に、ランドが意識を取り戻すのが早かった。
小さな呻き声がして、ランドの体が身じろいだ。体を起こそうと地面に手をつくのを見て、フェイバリットがほっと息を吐く。その体を支えようと、背中にそっと手を添えると、びくりとランドが体を強ばらせた。
「フェイバリット……そこにいるのか…?」
「え? うん」
声を頼りにランドがこちらを見る。だがその眼差しは不自然にさまよい、フェイバリットの視線と合わない。
「ランド……? どうしたの?」
「ここは…。今…夜じゃないよな…?」
その問いに急に不安がこみ上げる。
「違うけど……?」
知らず知らずのうちに心細い声になってしまう。食い入るように見守っていると、ランドが悲痛な表情になり、目を伏せた。絞り出すように声を洩らす。
「―――見えない」
悲鳴と一緒に息を飲み込む。なぜ?と掠れた声で問いかけると、ランドは分からないと首を振る。
「崖の上に上がった途端、閃光が走った。目が焼けるような痛みに襲われ…その次には墜落していた――覚えているのは…そのくらいだ」
途方に暮れたように言って、手のひらで顔を覆う。どう声をかけたものか、フェイバリットにも言葉が見つからなかった。
その二人の背後で、じゃりっと砂を踏む足音が聞こえた。と同時に声が降ってくる。
「よお――。思ったより早く着いたんだなあ」
その声が知っているものだったので、フェイバリットは驚いてそちらに振り返る。そこには久方ぶりに見る怒りんぼがいた。
すんでのところで、フェイバリットは声を殺した。怒りんぼの後ろには半笑いが相変わらずのニヤニヤ顔で佇んでいる。
そのずっと後方には荷車があり、怖がりが荷台から申し訳なさそうに顔をのぞかせている。ますます持って分からない。一体今何が起こっているのだろうか。
言葉は伝わらないまでも、ランドにも声の主が誰なのか分かったようだ。ひそめた声が素早く発動の呪を唱えるのが聞こえた。
「 itak en=kore (吾に言葉を与えよ)」
視力を失っていることを感じさせない気丈さで、ランドがその場に立ち上がる。
「無理すんな。目をやられたんだろ?」
だが男にはすでにお見通しらしく、含み笑いをするとあっさりと言ってのけた。余裕すら感じさせるその口調に、ランドが苛立ったように低い声を出した。
『どういうことだ? なぜここにいる?』
「おいおい。心外だなぁ。俺は助けにきてやったんだぜ?」
『助けだと?』
「そうだ。きっとお前らは知らないだろうと思ってな――」
『もったいぶるな』
「今から教えてやるから、そう急くな。この道を通る時はな、ひとつ大事な決まりごとがあるんだよ」
「それはな」と怒りんぼは声を一段落とした。静かな谷に声はよく通った。
「この街道は、日のあるうちは使っちゃいけねえ道。つまり、この街道を越えたいなら日が沈んだ後が正解ってことだ」
「それと、もう一つある」ニイっと唇を吊り上げると、男はさらに続けた。
「必ずこの道は歩いて抜けること。たまーにおめえのように、わざわざ苦労して上から越えようとする奴がいるのよ」
怒りんぼは頭上を仰いでわざとらしく溜め息を吐きながら「気がしれねえよなあ」とひとりごちる。
「ま、とにかくこの崖を登った者は皆、わけの分かんねえ光に目を射抜かれる――何でもそれは“神の閃火”って呼ばれてるらしいぜ?」
恐ろしいよなあと男は笑う。笑いまじりの声に、信じられないというふうにランドが声を震わせた。
『知ってた…だと? なんでそれを…っ!』
「――教えなかったってか?」
男がその先を奪った。目を見開くランドを楽しげに見やりながら、怒りんぼは口を開いた。
「仲間にするためだ。こうでもしなけりゃあ、おめえはうんって言わねえだろ?」
その瞬間、ランドが表情を失った。
『――つまり…騙したということか…?』
「騙したなんて、ひでえ言い草だな――ただ黙ってただけだ。こんな話、ここを通ろうってヤツなら誰でも知ってる話だからな」
まるで知らない方がおかしいと言わんばかりの口調だ。言葉を詰まらせるランドを見て、怒りんぼが喉を鳴らして笑った。
『盗賊に遭うと言ったのも、崖を登るように仕向けるための罠か』
「嘘は言ってねえぞ。夜にはこの道も、追い剥ぎも出れば盗賊だって出る」
『この――卑怯者が』
「知らねえ方が悪い――おめえは強いが、商人にも商人なりの闘い方ってもんがあるのよ。いい加減、負けを認めるんだな」
気力で踏みとどまっているものの、ランドの足もとはおぼつかない。精神的なものも大きいのだろうが、先ほどの落下の衝撃がまだ体に残っているのだろう。
ふらつくランドの体を、しがみつくようにしながら、フェイバリットの小さな体が懸命に支える。
それを冷ややかな眼差しで見ながら、怒りんぼがぼそりと言った。
「…だから最初に仲間にならねえかって声をかけた時に頷いておけば良かったのによ――。そうすりゃあいい条件で扱ってやれたのに」
「馬鹿が」と最後に、男は吐き捨てるようにつぶやいた。おいっと背後にいる半笑いに声をかけるとそれを合図に、男が縄を手に、ゆっくりと近づいてくる。
『は……あいにくだが、目が見えなくてはお前の役に立たないだろうに』
「安心しろ。視力は1、2時間もすれば戻る」
「ちっ、長々としゃべってたら来ちまったな」ちらりと怒りんぼが谷の奥の方へと視線を走らせる。釣られて、フェイバリットは視線の先を追って背後を振り返った。
薄暗い、谷底の道の奥の方から、何かが地面を赤く染めながら近づいてくるのが見えた。よく耳を澄ませると、カリカリという音が谷を埋め尽くしていた。
「教えてやるよ。”赤い崖”という名前は何も、この崖の見た目だけのことを言ってんじゃねえ。ここには音や振動でやってくる赤い悪鬼が住んでいる。そいつらが地面を真っ赤に染めながら移動するのを見た奴が、いつしかここをそう呼ぶようになったのよ――”赤い悪鬼が住まう谷”ってな」
地面がまるで赤い絨毯を敷き詰めたように奥の方から鮮やかに染め上げられていく。何が近づいてきているのだろう?
『何が見える?』
ランドに耳打ちされて、フェイバリットは遠くに目を凝らした。そしてようやく音の正体に気づく。
「―――虫…これは…蟻…?」
「流離蟻――ちなみに奴らは”人食い蟻”ってえ恐ろしい名前でも呼ばれてんだぜ」
声は同時だった。
地面を這う赤い帯は、恐ろしい速度で近づいてくる。ここにもじきにたどり着くだろうことは、たやすく想像がついた。
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