2-18 それは微熱の始まり
それは誰の微熱なのか。
頬の火照りがおさまるまで、どのくらいかかったか。
頬に触れて、その温度を手で確認しながらフェイバリットは樹林ごしに空を見上げる。
少し前と日の傾き具合が変わり、日差しに午後の柔らかさが帯びている。まだ日暮れには早いけれど、日暮れがすぐそこまで迫りつつある、そんな感じだ。
空の明るさとは対照的に、樹林の影は先ほどよりも濃くなり始めていた。もう少ししたら本格的に暗くなり始めるかもしれない。そろそろ戻らなければランドが心配するだろう。
フェイバリットは腰をあげると、外套についた枯草を払い落とす。斜面を登ろうと地面に足をかけて、その足が止まった。
草木の揺れる音に混じって、腰を下ろしていた斜面のその向こうに、水が流れる音を聞いたように思ったのだ。近くに渓流が走っているのかもしれない。
そちらに向かうつもりはないが、何となく気が惹かれてちらりと背後に視線を向けた途端。
「そ・それより向こうに、い、行っちゃなんねえ、ぞ?」
斜面の上の方から、怖がりの声が降ってきた。はっと振り返って見上げると、先ほどフェイバリットがここに下りるために分け入った茂みの所に大きな人影があった。
「怖がり」
声に出してから、しまったと気づく。勝手につけた呼び名をうっかり口にしてしまったからだ。怖がりには聞こえてしまっただろうか。もし聞こえたとしても、それが自分のことだとは思わないに違いない。
黙ってその場に立ち尽くしていると、怖がりが斜面をゆっくり降りてきた。
「その、さ・先は、急なしゃ斜面になってる。危ないから、もも、戻れ」
フェイバリットを迎えに来たのだろうか。ここにいるのがどうやって分かったのか、フェイバリットには不思議だった。
そして何よりこの男はだいぶ前とは言え、鹿を回収しに出かけたはずだ。どこまで行ったか知らないが、場所も聞かずに出て行った。この広い山野をたった一頭の鹿を探し出して、もう戻って来れたのだろうか。
そんなことを思っていたら、目の前までたどり着いた怖がりの黒々とした目がふっとやわらぐ。
「さ、さっき戻ってきたとこ」
「え?」
「か顔に書いてあ――ある。お前、わかりやす…やすい、な」
「顔」と言われて、フェイバリットは自身の迂闊さを呪いたくなった。一人きりだと気を抜きすぎて、外套が脱げそうになっていることにも気づかず、顔がまったく隠れてなかったのだ。
「―――!!!」
声にならない悲鳴をあげて、外套を深くかぶり直そうとした時、丸太のような太い腕がやんわりとそれを押しとどめる。
「き・きれい。あか赤い――目」
フェイバリットの顔の真ん前にすうっと怖がりの顔が下りてきて、すぐ間近で男が瞳をのぞき込みながら、うっとりと言った。目を閉じるどころか驚きのあまり目を見開いてしまう。
「あ。あ…これは、その…っ」
口が上手く回らない。せめてもとフェイバリットは外套を深くかぶろうと、頭巾の縁に手をかけると、またも男の大きな手がそれを阻んだ。
「なんで…? おオレ、もう知ってる、よ? 昼間見たもの…。うん―――そそれに、やっぱり、女のコなんだ、な」
「―――。な、な・んで?」
さらに血の気が引くのが分かった。それだけ言うと、フェイバリットは口をぱくぱくさせるしかない。とぎれとぎれのフェイバリットの問いに、怖がりはさも当たり前というふうに言った。
「”匂い”でわ分かる。だ・からオレ、ふし不思議だった。なんで…か、かか隠す、の?」
動揺しかない。そんなフェイバリットにお構いなしに「もっと見せて?」と男は、邪心の欠片もない無心な笑みすらその顔に浮かべて、目をのぞき込んでくる。
「こ・困る…!」
苦しまぎれに出た言葉はとても陳腐なものだった。己のあまりの無能っぷりにフェイバリットは本当に涙が出そうになる。何も出来ない上に口も上手くない。自分の取柄は果たしてあるのだろうか。
歯がゆい気持ちで唇を噛みしめる。だが思った以上にこの言葉は男の胸に響いたらしい。フェイバリットの言葉を聞くと、怖がりは太い眉を八の字に下げ、シュンと肩を落とした。
「こここ困る…オレ、困らせ、た?」
あまりにもその様子があからさまだったので、フェイバリットの方が逆に驚いてしまったほど。そのおかげで冷静さを取り戻すことが出来た。
「ええと、そうなの。知られたらいけないことなんだ」
「お、怒られる、のか?」
怖がりが心配そうに言った。それに対してフェイバリットは小さく笑って首を振る。ランドは怒りはしない。
だが普段から彼女のこの異質な色をどう隠そうと頭を悩ませていることを知っている。これ以上、余計な心配をかけたくない――だから。
「お願い。どうか、このことは知らない振りをして欲しい。誰にも言わないで……」
虫のいいお願いだ。けれどこう言う以外、フェイバリットに方法はない。縋るように見上げて言うと、怖がりは考え込んだ挙句、小さく頷いた。
「わ――わかった」
その言葉にぱあっとフェイバリットが顔を輝かせる。その顔をじっと見下ろしながら、怖がりがぽつりと言を継いだ。
「そ、そのか・代わりに、き・聞きたいことが、ある」
「―――ええ?」
フェイバリットの顔がカチンと固まる。予想外の返答だった。何を聞くつもりだと警戒と共に頭の中で憶測がぐるぐると回りだすものの、分かるはずもない。
怖がりは困ったようにそんなフェイバリットを見下ろすと、おずおずと口を開いた。
「さ・さっき――オレ、オレを見た時に、言ったの、な・なに…?」
さっき? ぐるりと頭の中を思い返して、「あ」とフェイバリットは呟いた。思い当たることと言えば一つ、この男を”怖がり”と呼んだことだ。なかったことにならなかったようだ。
言ってもよいものか分からず、フェイバリットは「ええと」と口ごもりながら男にちらりと目をやったが、男は返答を待ってただ静かに見下ろすばかり。
これは答えるほか、選択の余地はないということだ。怒られるかもしれないと思いつつ、フェイバリットはうつむいて小さく言った。
「……。怖がり」
「怖がり? それ、おオレ? オレの名前、か?」
嘘をつくことも出来ず、フェイバリットは地面に目を落として頷いた――その途端。
「怖がり。いいなぁ…っ。き、気に入った。オレ、怖がり、だ。だから、ぴ・ぴったり…!」
頭上で、嬉しそうな声があがった。見上げると怖がりがこれまでになく、嬉しそうに頬を上気させて喜んでいる。
音だけでなく、ちゃんと”怖がり”と言葉の意味まで正しく伝わっているのに、それでも嬉しいらしい。きっと不思議そうな顔をしていたのだろう。怖がりはふふっと笑うと言った。
「や、山では、怖がりじゃないと、生きられない。だから、生きるために、こ・これは、いい名前だ。あり――ありがとう。だい大事にする」
その姿が本当に嬉しそうだったので、フェイバリットはひとまずホッとする。だが他の二人ならきっとこうはいかない。きっとブチギレる。うん、間違いない。ここ数時間の己の失態を思い返して、フェイバリットは改めて気をつけねばと自身を強く戒めた――その時。
「――呼ばれている」
怖がりがぴくりと肩を震わせると、背後を振り返る。視線はじっとそちらに固定されたまま。男の言葉を聞いて、フェイバリットも耳を澄ませてみるものの、何も聞こえない。あるのは、薄暗くなった樹林の中にただよう葉擦れの音だけ。
「? 聞こえないけど?」
フェイバリットはひとり言のつもりだったのだが、その声を聞いた怖がりはぱっと彼女に振り返ると、ぐいっと自身の胸元を引き下げて「これだ」と低くいった。そこ――太い首には黒い輪がはまっているのが見えた。
「え、えっと…?」
首輪? と言いかけて止めた。その呼び名はあまりにも失礼だと口に出す寸前で気がついたからだ。だが首に巻かれているものは、それ以外に形容しがたいものだった。
これは異国のおしゃれ? 好んで身につけているものに他人がとやかく言うのは礼儀に反する。もしくは誰かにつけるように言われた? 「兄」と呼ぶあの男は知っているのだろうか。
もしかして「兄」がつけるように言ったのだろうか? 問うようにちらと怖がりの目を見ると、黒い瞳がふわりとなごんだ。
「や・やっぱり、お前、わかりやす…やすい、のな。あ兄が、遠くにいても、オレ、を、よ呼ぶのが、分かるように。つけてる」
「ふうん。便利なもの? なんだね」
なんにしろ、本人が納得してつけているものならいいのかなと、単純にフェイバリットはそう納得する。そんなフェイバリットに不器用な手つきで、怖がりが外套をかぶせ直す。
「い・行こう、か――お前の、あ兄も、心配してる」
読んでいただき、ありがとうございます。
2月26日日曜から、二章19~21話の3話を連日更新します。
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




