2 始動
(嫌いだ)
(嫌いだ)
岩燕は時々、羽ばたきと滑翔を繰り返しながら川をいくつも越えていく。
ずいぶん遠くまで飛び続けて、ようやく羽を休めたのは、ヘイルよりもずっと西に位置するコング―だった。
コング―は盆地の北端に位置し、標高200mほどのジョウブゥ山の中腹に位置する集落だ。
大陸で産出される茶の生産量の約4割を占めるここコング―は、茶源郷の別名を持つ。
山の斜面に沿って、まぶしいほど緑の茶園がずっと続く。
何本もの茶園の列がどこまでも等間隔に並び、山肌一面に幾層にも連なり延々と目の前に広がる眺めは壮観だった。
今は二番茶の摘み時らしく、かごを手にお茶を摘んだり刈ったりする村人の姿があちらこちらに見られた。
茶畑を見下ろしながら、イレインは変幻を解いた。
嫌いだ。リヴィエラなんて――大嫌い。
心の中で呟くとすぐに涙がこぼれ落ちた。膝を抱いてイレインはそこに顔を埋める。
違う。嫌いなわけがない。むしろ嫌われたらどうしようと怯えるほどにイレインはリヴィエラを慕っている。それはもう重いほどに。
(……怒られるだろうな)
イレインは瞼の裏に我が家を思い浮かべた。いつものあの家。
深い木々の中にあり、木で組まれた窓枠から部屋の明かりが洩れている。
料理を作る煙と一緒に、肉の焼けるこうばしい匂いが白い湯気となって、リンと冷たい夜気にホワリと浮かび上がる。そこに浮かぶ銀の人影。
どんな風に謝ればいいのだろう。こっぴどく叱られてしまうだろうか。言葉もなく冷たく背中を向けられたらどうしよう…。
考えるとひどく気が重くて、腰を上げることがひどく億劫だった。
帰らなければ、もっと悪いことになる。それは間違いない。帰らなければならないのに、リヴィエラの瞳にイレインへの嫌悪の色があったらと思うと胸が張り裂けそうになる。
リヴィエラを慕っている。父のように、そして娘のように慈しまれてきた。
誰よりも優しい眼差しと言葉を自分は確かにこの身に受けていたはずなのに。
(今は愛されてない。きっとそうだ)
湧きあがった言葉に心がジクジクと疼く。ポロリと涙がひと筋もふた筋も流れ落ちてくる。
だから追いかけてもこない。こないと分かる。これはつき合いの長さからだ。
イレインに非がある時、きちんと彼女が謝るまで、リヴィエラはけして許さない。
リヴィエラからの突き放しに耐えかねて、いつだってイレインは最後はリヴィエラに縋り付くように許しを乞うのだ。
だから今回もイレインが自分から帰るまで放っておくだろう。じゃあ帰らなければどうなるだろう…?
(見捨てられるかもしれない)
どうせ見捨てられるなら、いっそ自分から親子の縁を切って、このまま出て行ってしまった方がいいのではないだろうか。
少なくともリヴィエラの負担も心労もなくなっていいかもしれない。
(―――――っ)
ぶわりと涙が溢れた。
そんなこと出来ない。リヴィエラから離れることなんて考えられない。たとえどんなに疎ましがられても。
(うざすぎるでしょ…っ自分)
そんな煩悶を繰り返し、ようやく帰路についたのはもう日暮れ間近だった。
岩燕は懸命にもと来た場所を目指し、一番大きな川の上空を滑るように飛ぶ。
だが、地の彼方に沈む間際の太陽が姿を消してしまうのは一瞬だ。赤い稜線がすうっと一本の線になったかと思うと、じわりと輝きを失う。
その途端、川を渡り切るか否やの小鳥が撃たれたように落下した。水面にパシャッと小さな飛沫が上がる。
数秒後、白い息を吐きながら岸に這い上がる小さな少女の姿があった。
聖魔術――それは光と闇であれば光、陰陽であれば陽、白と黒ならば白。つまり黒魔術と呼ばれるものとはまったく相反するがそれである。
どちらも等しく納めてこそ、呪術としてようやく役立てられる域と言われるが、イレインはまだ光の加護なしではそう長く術を維持できない。
なのでイレインの術は『発現するのは水場の近くだけ』『行使できるのは日没まで』という条件付きであり、なんとも中途半端なものだった。
ぶるりとイレインは体を震わせた。今越えた川が最後だったのは不幸中の幸いだった。
後は歩いて帰れる距離だ。だがこの大陸の気候は、昼とは違い夜は急に冷え込んでくる。
ひゅうと風がイレインの髪をさらった。身を切るような風の冷たさに、イレインの体の震えはもう抑えようもなくなってきた。
一歩足を踏み出すごとに足がギシギシと音をたてるようだ。
(どこか…風を避けられるところ…)
無意識のうちに寒さをしのげる場所を求めてイレインは歩きだした。朦朧と歩くうち、前方の岩面にぽっかりと暗い穴が開いていることに気がついた。
読んでいただき、ありがとうございます。
うじうじめそめそ娘です。