14 御印 [みしるし]
視界の中の子どもの小さな手が、縄を掴んでいる。自分の手だと認識するまで、わずかな時間差があった。反射的に奥の暗闇に目を凝らす。何かがやってくることを、この体は覚えているのだ。
張り裂けんばかりに叫ぶ自分の声は聞こえない。目の前に立ちはだかる漆黒の塊が歓喜する、なぜかその喜びばかりが伝わってくる。
<見ツケタ>
はっきりと聞こえた。そう言って体を抱きすくめる荒々しいまでに剥き出しの力。呼吸も出来ないほどの力強さに口からカハッと息が洩れる。そこで、死を身近に感じた。
死んでしまう――あの人に会えないまま。
朦朧とする意識の中で、体を締め上げていた闇の力が急にやわらいだのが分かった。かと思うと、空中で形を変えた闇が突然、左腕を捕らえると、肌を食い破り体の内側に入り込んできた。体の中を這いまわるえも言えぬ感触に怖気立つ。
<刻ンダゾ――コレデ何処に紛レテモ見分ケラレル>
<コレハ何者二モ消セナイ印ダ>
七歳の時、イレインは山に一人で迷い込んだ。
どういうわけかリヴィエラの“探索”の術に引っかからず、結局里の皆とで手分けをして山中を探し回り、一昼夜かかって発見されたらしい。
倒れているところを助けられた後、三日三晩高熱を出したが、幸い命に別状はなかった。
時を同じくして、神を祀った風穴に吹く風が、ある日を境に止まってしまった。風の絶えた風穴は、神が去ってしまった証――凶事の前触れだと里で大騒ぎになったのだと、ずっと後になって知った。
イレイン…――イレイン
必死な呼びかけ。今にも泣き出しそうな…。
「イレイン」。これまで聞いたこともない辛そうな声が頭上から降ってくる。
いつも涼し気で、取り乱すことなどない美しい顔が、今にも泣き出しそうなほど大きく歪み、髪を振り乱している。
イレインに零れ落ちるのは、汗だろうか。それとも涙…?
手足を投げ出し、ぐったりと横たわる小さな体の前で、長袍が汚れるのも厭わず、その人が地面に膝まづく。
「大丈夫だよ」。そう言って安心させたいのに、どういうわけか声が出ない。体も全然言うことをきいてくれない。こんな風に悲しそうな顔をさせたくないのに。
抱き上げられ、体の横に力なくぶらりと垂れ下がった腕が、生気を感じさせないほどに白い。
その腕の、肩から少し下がった辺りに、肌の白さと相反する禍々しい黒い痣が、異様な存在感を放っていた。
少し離れたところから、イレインはそれを――自分とリヴィエラとを眺めた。倒れている自分よりも、動かない自分を抱きかかえて座り込むリヴィエラが痛々しくてたまらない。
泣かないで。ごめんね…心配かけて、本当にごめんね――……。
そこで意識が浮上する。イレインはいつもの寝台の中で目を覚ました。ぼんやりと天井を見上げながら、まだ耳の中に残る声を反芻する。
手のひらを開いてじっと見つめる。自分がもう小さな子どもではないことを確認して、ほっとした。
体を起こして少し躊躇った後、イレインは左腕の袖をまくり上げた。腕をのぞき込むと、そこに夢で見たものと同じ黒い痣があった。黒い痣は、蛇が巻きついた跡のような不吉な文様を描いている。
覚えている限り、つい昨日洞穴で倒れるまではこんな痣はなかった。記憶と共に痣も取り戻されたのだろうか。
だとしたら、きっとこれも名にしおう呪術師の手によって、消せないまでも人の目から隠されてきたのだろう。
何かが足許に忍び寄ってくるような気がして、急に心許ない気持ちになる。痣を押さえる手に、知らず知らずのうちに力が込もっていた。
「ふぅ……」
深く息を吐いて――目を瞑ることしばし。イレインは寝台を下りると居間に向かった。
居間にはいつもと変わりないリヴィエラの姿があった。東側の窓から差し込む明るい日差しに、今日も天気が良いことが伺える。
「おはようございます」「おはよう、イレイン」
二人で朝食を作り、囲炉裏端で共に食事する。
朝食の席でリヴィエラから「今日の学びの時間は二人きりで行いましょう」と告げられた。
「はあ…」と間抜けな声を上げるイレインに、「周りのペースを気にせず集中して取り組むため」とリヴィエラは簡潔に説明する。
その日の学びの時間は、とても丁寧に進められた。
「基本のおさらいをします」と言った通りに、“水脈を探る術”、”水を地中から引き出す術”、”汚水を清める術”、さらにイレインが苦手とする[火属性]の”着火の術”や”体温を上げる術”など本当に基礎ばかりを一つ一つおさらいしていく。
「今さら基礎をしなくても」と口を尖らせるイレインに、「二度も山で倒れるあなたが心配だから」と言った後で「三度目は勘弁してくださいね」とリヴィエラは意地悪く笑った。イレインは反論できなかった。
ひと通り学びを終えた後、イレインとリヴィエラはモミジイチゴを採りに山に入ることにした。
途中、秘密のけもの道が気になったので立ち寄ってもらったところ、灌木や藪が生い茂り、入り口は完全に塞がっていた。
日々、枝葉を伸ばす草木がけもの道を呑み込むのは、あっという間だ。小さなけもの道ならば尚さらだろう――つまり八年も前のけもの道が当時のまま、残っているはずなどなかったのだ。
それを前にして、イレインはただただ困惑するばかりだった。
ちなみにモミジイチゴは、リヴィエラと一緒に摘み立てを美味しくいただいた。
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続きます。




