12 七歳の記憶
視界の先にある岩場は目もくらむばかりの大絶壁だった。見上げると、せり出した大岩が、まるで蛇の頭のような形をしてそびえている。
頭上で、太陽が雲に隠れて影が差した。
汗ばむくらいの陽気だが、日陰に入ると急に暑さがやわらぐ。それまで心地よく吹いていた風がぱたりと凪いだ時。
たたたっと小さな足音が聞こえた。子ども?
体が反射的に強張る。先ほどの恐怖がよみがえって、ヒンヤリと冷たい手で撫で上げられるような寒さを覚え、鳥肌が立つのが分かった。
背後から走ってきた足音は、イレインの横に並んだ。目の端でチラリと見ると、細くて白い子どもの足が見えた。
ドキン――大きく心臓が跳ね上がる。
堪えようとしても震える体を宥めることができない。じっとりと冷や汗が出て気持ち悪い。
じっと子どもの足許を見ていると、子どもが動いた。イレインと並んだところから一歩、洞穴のある方に向かって踏み出したのだ。
前を行くその子どもを見て、イレインの顔が凍りついた――小さい頃の自分が、そこにいたからだ。
小さなイレインは、怯えた顔をして背後を振り返り、次いで左右を見回した。まるで何かから追われていて、それから逃げるような素振りだった。
洞穴からは冷たい風が吹いてくる。風が流れ出るということは風穴と言ったほうがいいかもしれない。風になぶられて、開口部に張られたしめ縄がたわみ、真っ白な神垂が時おり大きく揺れるのが見えた。
神垂とは、しめ縄に垂らすように取り付けられ、そこから先が神域であることを表すものだ。木綿で作られ、ジグサグの形をしている。これは雷の形を模したもので邪気を払うという意味合いがある。
そもそもしめ縄の役目は、災厄をもたらす邪な存在が神域に入らないように食い止めるための結界、もしくは災厄をもたらす邪な存在を外に出さないための結界だと言われる――あるいは神域におわす神が外に出ていかないようにするためのものだとも。
――この風穴に張られたしめ縄は、いずれの意味を持つものなのか。
子どもは本当に焦っているようだった。隠れ場所を求めてか、しきりに辺りを見回し、引き寄せられるように風穴に近づいていく。
「………め」
イレインの口からポツリと声が洩れる。
駄目――そこは駄目だ。固まっていた足が一歩踏み出す。足を動かせることが分かると、イレインは脱兎のごとくその場を駆け出した。
小さな子どもはしめ縄の前に立ち、目の前で揺れる麻で編まれた縄に手を伸ばしている。その痩せた腕にイレインの目が釘付けになる。
(ああ―――そうだ)
覚えている。覚えている。覚えている。
ガクガクと震える体を必死になって動かす――それに触れてはいけない。
小さな子どもの背後にたどり着いた。背中から覆いかぶさるように、縄へと伸ばされた腕をひっ捕まえようとイレインは手を伸ばす。もう少し、あと少しで届く。
子どもの手首を掴んだ。
だがイレインの願いも虚しく、それと同時に小さな手が縄を握り締めていた。
子どもの非力な力で、しっかり渡されたしめ縄が解けるわけがない。なのに、まるで待ちわびていたように、風穴に掛けられた結び目がパラリととけた。
張られたしめ縄がゆっくりと地に落ちるのを、イレインは絶望的な気持ちで見続けた。
――――怖いのがくるよ……。
幼いイレインが、まっすぐこちらの目を見て言った。信じられない気持ちでそれを見返して、ふと目線の高さが同じだということに気がついた。
小さな己の手のひらを見た後で目を上げると、そこにいたはずのもう一人の自分の姿は、すでになかった。
「……………っ!」
風穴から吹きつけていた風がぴたりと止む。
次の瞬間―――風穴の奥の方から、闇よりもまだ暗い何かが音もなくポツンと現れた。
イレインは声にならない悲鳴を上げた。
最初は点にしか見えなかった黒い塊が、地を這うように出てくる。
逃げ出したいのに、まるでその場に縫いとられたように、足が地面から離れない。速度を上げて黒い塊がズルリズルリと迫ってくる。
目前で黒い塊が鎌首をもたげるように持ち上がった。――目も鼻も口もない。だが目の前いっぱいに広がった黒い影に、腹の底から恐怖が湧きあがってくる。
(そうだ…七歳の時、私はここで怖い目にあった…)
にやりと闇が笑う気配がした。七歳の姿をしたイレイン。あの時叫んだだろう悲鳴が洞穴内に響きわたる。
膨らんだ闇が、頭上からイレインを飲み込んだ。
(怖い)
(怖い)
(怖い)
影は体に巻きついてギリギリと締め上げてくる。神域を暴いた報いとでも言うように。
肺から空気を搾り取るように締めつけられ、かはっと口から苦しい息が洩れる。一指たりとも動かすことが出来ず、なす術もなくその音をただ聞くばかり。
このまま…死んでしまうのだろうか。こんな――リヴィエラに会えないまま。そう思うと悲しみが胸にこみ上げてくる。
意識を飛ばしかけた時、空から甲高い鳴き声が羽ばたきと共に降ってきた。
闇の中でうっすらと瞳を開けると、闇を切り裂き現れたのは一羽の白鷺。神の使いと呼ばれる白く優美な姿が、大きく羽をはためかせるのが見えた。
闇が遠ざかると、大地に横たわるイレインの姿があった。
虚ろな眼差しが、変幻を解いて現れた銀の麗人、その人をぼんやりと見る。
大きな手が壊れ物を扱うように、イレインの体の下に差し込まれ、そっと優しく抱き上げる。
その掌の温もりに、心の底から安堵して、イレインは目頭が熱くなるのが分かった。
「御師様。彼女は大丈夫ですか?」と慌てふためく声も聞こえる――ランドだ。
「あなたがついていながら、このざまはどういうことなのですか…!」
これまで聞いたことのない厳しく叱責する声が、霞み始めた意識に届いた。
(違うんです…リヴィエラ様。ランドは悪くないんです…私が無理を言ってここに来たいって言ったから…)
そこで意識が暗闇に閉ざされた。
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