11 山で出会うもの
「山では名前を呼ばれても返事をしてはいけませんよ」
小さい頃、山に入るたびにリヴィエラから山での決まり事を教わった。
山の中には恐ろしいものがいて、名前を呼ばれてうっかり返事をしてしまうと連れて行かれるから。だから、山に分け入る時は仮の名前で呼び合い、自分の本名を山の何かに聞かれないようにする。
山に入る時、挨拶をするなど決まり事はいくつかあるが、この教えは小さなイレインにとって、とても恐ろしく、ずっと心に残り続けた。
なのでイレインは、いつも山中では『小鳥』と呼ばれている。ちなみにランドのことは『尾白鷲』と呼んでいる。
ランドの呼びかけにはっと我に返ると、イレインは「ううん、何でもない」と再び歩き始めた。
――― 急がなくちゃ…リヴィエラ様が帰ってくるまでに
イレインは激しく目を瞬かせる。まただ。小さな子どもの声が、今度は耳もとで聞こえた。
自身の荒い呼吸と、小さなイレインのそれとが、ゆっくりと重なり合っていく。
―――ああ…たくさん走って息苦しい。
( リヴィエラ様が帰ってくるまでにモミジイチゴの実をもいでくるんだ )
( きっと喜んでくれる )
( でも早くしないと )
( 勝手に一人で山に入ったことが見つかると怒られる )
次々に脳裡に浮かんでは消える。いつの間にか小さな自分になって山野を走っているような錯覚に襲われる。
はあ――――――はあ。この息苦しさはどちらのものなのだろう…?
強い既視感。私はこの道を昔、一人で通った。
「―― 小鳥」
腕を掴まれてイレインは意識を取り戻す。見ると、汗を浮かべたランドが息を弾ませながら、こちらを見ている。その目が心配そうにイレインの顔をのぞき込んだ。
「どうした? なんだかおかしいぞ」
イレインは、とっさに返事が出来なかった。うまく言葉にならない。
はっはっはっと荒く弾む息を整えながら、なんと言おうと思考をめぐらせた時。
クエエエエエエエエエエエエエエエェェェーーーーン
少し離れたところから、耳をつんざくような高い鳴き声が突如、響きわたった。びくりと声のした方向に視線を向ける。これは何の鳴き声だろう…?
二度三度と鳴き声が続く。その声は人の声のようにも聞こえて、途端に心がざわざわと落ち着かなくなる。
そして、妙なことに気がついた。
山には昼夜問わず、いろんな音に満ちているものだ――なのに。
鳥の声や虫の鳴き声、そればかりか先ほどの得体のしれない音すらも。
一切が聞こえない。
マズイ
本能が訴えてくる。足元から震えが立ちのぼってくる。
外はこんなに明るいのに、草木も森もいつも通りなのに、心臓がバクバクと暴れ回る。
イレインは早く目的の場所に着きたくて、いったん止めた歩を再開する。
ふわふわと足元がおぼつかないが、そのことをけしてその何かに悟られてはいけない。
何かがいる。それには気づかない振りをしてイレインは足を速めた。
イレインが気づいていることを知られてしまったら…怖がっていることに気づかれてしまったら、きっと追いかけてくるから。
ガサリ。
小さな音だったのに、飛び上がるほどイレインが肩を跳ね上げさせた――その途端。
ザザ…ザ、ざぁっー……
(見つかった)
何かが背後で近づいてくる音がする。ここは、きちんと均されていないけもの道。だから、とても全速力で走れるような道ではないのに、藪を揺らす音はぐんぐん迫ってくる。
ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざザザザザザザザザザザザザッ……
(怖い)
――― 怖いよう。何か怖いものが追ってくる
「走れ!」
素早くイレインを追い越したランドに腕を掴まれて、つんのめりながら山頂に向かって走り出す。足場の悪い地面に足を取られそうになると、その腕を力いっぱい引き上げられて、とにかく二人は前に進む。
二人が来た道から、下草を掻き分ける激しい音がすぐ後ろまで近づいてくる。
急に力を失くして膝が抜けそうになるのを必死で堪えて、イレインは泣きたい気持ちをぐっと唇を噛みしめて、ランドの背中だけに目を凝らした。もう後ろを振り返る余裕もない。
視界を埋めるのは、緑、緑、緑。むせ返るほどの草いきれ。
草木が途切れて、目の前で急に視界が開けた。
同時に、いきなり背後の音がピタリと鳴り止んだ。
いつの間にか、鳥の声が、風が木々を揺らす音が戻っていた。イレインが知っているいつもの山に戻ったのだ。まだ小刻みに震える体を両手で抱き締めながら、ゆっくり振り返ると、そこには草ひとつ揺れていない静かなけもの道があった。
ドッドッドッと激しく波打つ心臓の音が、先ほどの出来事が夢ではなかったことを告げている。前に立つランドもまた、緊張を緩めず、厳しい目を周囲に向けて警戒を怠らない。
ゆっくりと視線をめぐらせて――イレインは前方の奥まったところにそびえ立つ大きな岩場と、そこにぽっかりとあいた暗い穴を見つけた。
ひゅっと変な息が喉から出るのを手で押さえる。
角度を変えてのぞき込むように見ると、そこには岩をくり抜いたような洞穴があった。そしてその洞穴は、昨日イレインが迷い込んだその場所だと気づいた。
濡れた体を引きずって、夜に人の足で歩いて山の中腹に迷い込むなどあり得ない――だが間違いなくここだと直感がそう告げた。
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