3-8 君は元気の素
よろしくお願いしますm(__)m
「しかし聞き捨てならんな」
黒猫はむっつりと顔をしかめるとそう吐き捨てた。
これは何ごとかと言うと。
「『べそをかいたらあっつい一発をくれてやる』やと? 阿呆も休み休みに言えっちうねん。でもって冗談でも全然笑われへんしっ」
――つまり、こういうことである。
三角に尖った耳がピンと張って外を向いている。その形状から別名「イカ耳」と呼ばれる。イカはもちろん海の生き物のことである。
猫が警戒している時によく見られる仕草だが、怒っている時にもこの耳になる。この場合は後者だろう。
あれほど人を笑い倒した癖に、思い出した途端、この変わりようだ。フェイバリットは険しい猫の顔をちらりと盗み見る。
黒猫は、いかにも苛々といったように、長い尾を敷布にしきりに打ちつける。タシタシタシタシという規則的な音が、少し早いリズムを刻んで静かな部屋に鳴り響く。
ちなみに黒猫の大爆笑はなかなかのものだったのに、あれから人が駆けつける様子はない。聞けば「“遮音”の術や」と得意満面に言う。
どうやらこの里ではこんな小さな獣まで呪術を修めているらしい。
その事実に軽く凹んでしまったものの、不思議そうな顔をする猫にフェイバリットはやんわりと首を振る。さすがにこれ以上、泣き言を言うつもりはない。
「あいつ、呪いでもかけといたろうか…? 一日一回椅子の足に小指を引っ掻ける呪い。それか頭のてっぺんだけ薄毛になる呪い。どっちがええやろ?」
ブツブツと唱える小さな頭の後頭部の毛が逆立っている。まだ、腹の虫はおさまらなさそうだ。
それを見て自然にフェイバリットの手が猫へと伸びた。膨らみを押さえるようにそっと手をかけると、びくうっと黒猫が身を固くする。
掌ごしに猫の緊張が伝わってくる。驚かせてしまったか。名残惜しい気持ちで、そろりと手を離すと、引き止めるように猫の目が追い縋った。
一瞬ためらうも、再び小さな体に触れ、ゆっくりと撫で下ろすと、想像通りその体は温かく、柔らかい。
相変わらずカチンコチンに固まっているものの、黒猫は大人しくされるがまま撫でられている。
「ありがとう。私の為に怒ってくれて――でも呪いはかけなくていいから、ね?」
猫とは言え、自分の為にこんな風に誰かが怒ってくれるというのが、なんとも面映ゆい。不謹慎かもしれないが、ほっこりと胸の内が温かくなる。
こうして温かい毛並みに触れていると、重く淀んでいた気持ちも少しずつほぐれていくようだった。
罰の悪い顔をした黒猫がこちらを見る。
「君がそう言うならしゃあないな――。今回のところは見逃したる。けど…、君が傷つくのを黙って見過ごすのは、俺的には許されへんねんで…?」
それは知っといてな?と小首を傾げてお願いされると、その可愛さに胸が射抜かれてしまう。
「う――うん? わかった? ありがとう?」
「なんで全部、疑問文やねん。でもって、わかってへんのに「わかった」とか言うのはアカンで。そんなンしてたら、あっちゅうまにわけのわからん借金背負わされて、気づいた時にはもう首まわらんようになってるんや。そうゆうのを“借金地獄”ちゅうんやで。自分、カモられそうやから、人と話する時は疑ってかかるようにせなあかんよ?」
借金地獄? よくわからないが恐ろしげな話だ。フェイバリットはコクコクと頷く。
では得体のしれないアナタは、どうなのか。ここに来るのはどういう思惑なのだろう?
フェイバリットの心に小さな疑問が浮かぶ。ちらりと見ると、当の本人は気持ちよさそうに目を瞑り、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
「…ありがとう。どうして私と仲良くしてくれるのか、聞いてもいい?」
「お。さっそく実践してんのか? ええ子やな」
うっすらと目が開かれて、淡い緑の瞳が現れる。こちらの思惑などお見通しとばかりに、その目がニヤリと笑う。
「俺は君を元気づける為にここに来たんや。動物介在治療法ちうてな…まあ小難しいことはええわ。とにかく動物っちうのは癒されるもんや」
「そうなんだ」
「そうなんよ。安心した? て――なんやあ? そんな変な顔して」
「へ・変?!」
横になりくつろいでいた黒猫の耳がピンと立ち、ムクリと体を起こす。ギクリとフェイバリットは体を強張らせる。後ろめたさも相まって、ふいっと目を逸らしてしまう。
実は黒猫の言葉を聞いた時、(元気になったらここにはもう来ないってこと?)と暗い気持ちになったからだ。
「え…何も?」
「嘘言え。ホンマ便利な顔やな。そんな目ぇして何もないわけあらへんやろ?! 気になって帰られへんわ――吐け」
「!!」
半眼になった黒猫の顔が視界を埋め尽くす――かと思うと頭突き、もとい顔全部を執拗にこすりつけてくる。
「…ちょっ…待っ…、息が…っ、くるし…っつ」
「ちゃんと言うか? 言わなずっとこのままやで?」
「わか…わかったからっ!」
敷布を打ちつけるタシタシタシタシという音。
『一念岩をも通す』とも言うが、話をする為に、萎えた腕を使ってフェイバリットは必死に体を起こした。今日イチの頑張りだ。
しかし目の前で前脚を揃えて行儀よく座る猫の視線は微動だにせず、容赦なく突き刺さる。
正直、視線が痛い。何より圧がすごい。
しかも聞き洩らすまいと、耳だけはこちらにしっかり向いている。
体勢を整えると観念して、フェイバリットはそっと真っ白な敷布に小さな溜め息を落とした。
「…さっきの――元気にする為に来たっていうのを聞いた時、じゃあ元気になったらもう会えなくなるのかと思って、それで――それで…」
それ以上は言葉が続かなかった。向かい合う小さな体からふうっと息を吐く音がした。
「それで? どう思たんや。ええ機会や。さっきも言うたけど、君はも少し思たことを口にする練習した方がええ。思たこと全部言うてみ」
「言うのはタダだから…?」
「その通りや。…ゆっくりでええ。君の気持ち、話して聞かせてくれへんか」
その声は先ほどよりずっと柔らかい。
優しい声に背中を押されて、長い沈黙の末、フェイバリットはきつく噛み締めた唇から力を抜いた。
「…。…。…思ってること全部言ったら――嫌われない?」
「誰に嫌われるんや?」
「……皆に」
「皆が皆、嫌いにならへんやろ。少なくとも俺はならへんで。それより思てることをちゃんと言い合われへん方が俺は寂しい。俺は君となんでも言い合える関係になりたいんや。それに、言いたいこと言わずにおったかて、誤解されたりとか嫌な思いしてきたんとちゃう?」
「―――」
言葉を失うフェイバリットをじっと見つめた後、「それにな」と黒猫は続ける。
「さっきの話もそうや。皆に言われたこと、君は一人でぐっとこらえてよお頑張った。そやけど嫌なもんは嫌、こうしたいってのを黙っとったら、相手に伝わらへんのは当たり前のことや。庇うわけやないけど、あいつらは別に鬼やない。君が自分の気持ちを説明するのをサボった分、あいつらは良かれと思たことをアレコレやっただけや。まあだいぶ暑苦しかったのは可哀そうやけど――な」
自分の気持ちを説明するのをサボった。
「―――うん」
その通りだと思った。目を上げると、目を細めてゴロンゴロンと喉を鳴らす猫の姿がある。口にするのは勇気が要ったが、フェイバリットはそれを口にした。
明日もう少し頑張ってみると。
そう言った後で「出来るかどうかはわからないけれど」とつけ加えたのは我ながらヘタレだが、黒猫がそれを責めることはなかった。
長い尻尾が大きくゆっくり揺れている。猫がご機嫌な証拠だ。
だからなのか――いつもと違って口が軽い気がするのは。
「あ――明日も会いにきてくれる?」
勢いに任せて、気がつくとそう口に出していた。紛れもなく本心から出た言葉だ。
だが会話が途切れて、今にも黒猫が姿を消してしまいそうな気がした。
少しでも時間を引き延ばしたい。
そんな切羽詰まった気持ちが、フェイバリットにそう言わせたのもまた事実だ。
この賢い獣には言葉の裏に隠された心の機微など、全てお見通しだったのだろう。
キョトンと目を丸くした後、にやりと笑う。
その瞳の奥にキランと意地悪な光が浮かんだが、この時フェイバリットは良くも悪くも必死で、それに気づくはずもなかった。
「そやなあ…。今日、頑張ったご褒美にお願い聞いたろかな――ちゃんとお願い出来たらやけど、な?」
「! 出来る!」
言うなり、相手に倒れ込まないようフェイバリットは細心の注意を払って、ゆっくりと身を屈める。目の高さまで体を下げると、しっかりと目と目を合わせる。
必然的に唇が触れんばかりの距離。
黒猫の緊張などもろともせず、フェイバリットは真剣にコツンとその額に自分のソレを合わせた。
「!!!」
黒猫の目が最大限まで見開かれ、真ん丸になる。
身動きすれば、フェイバリットが体勢を崩してしまうと思ったのか――それともただ固まって動けないのか。
いずれにしろ置き物のようにビシィッと体を硬直させて、黒猫は身じろぎ一つしない。
「約束が欲しい――お願い。明日も会いに来て」
声はあっという間に空気に紛れ込んだ。
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次話は来週水曜、更新予定です。
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