3-6 明けない夜はない
大変、お待たせして申し訳ありませんm(__)m
「エラい疲れとんなあ」
のんびりとした声に目を開くと、視界いっぱいに黒猫の顔がある。
思いがけない訪問客に、目を瞠ったフェイバリットは、ぱちぱちと勢いよく瞳を瞬かせる。やっと一人になり、寝台に横たわったのはつい先ほどだ。
「おっきい目。自分、そんなに目ん玉見開いたら落っこちてまうで」
癖のある話し方は忘れようもない。
長いヒゲをそよがせて、顔の真上から真っ黒い影がのぞき込む。淡い緑の虹彩に驚いた自分の顔が映り込んでいる。
――また会えた。
もう会えないかとずっとヤキモキしていたので、フェイバリットにとってこの再会は本当に嬉しいものだった。
会って二度目だというのに、ちょっとばかり気が緩んでしまうのは無理からぬこと。だからと言ってしょうがないと居直るつもりは毛頭ない――だが。
「どないしたん? 話してみ」
こてりと小首をかしげられ、促されるまま、この黒猫に今日あったことを包み隠さず全部話してしまった。
我ながら、これはあまりにも軽はずみで迂闊な行為だ。けれど、この可愛さを前にして――これはもう不可抗力。そう思ったのは紛れもなく事実である。
◆
「さあ、最初のご用命をどうぞ?」
眼前の美丈夫は優しくそう告げた。
自分に注がれる、宝玉のような淡い緑の瞳。…しかも八つも。
肌に突き刺さる眩しいぐらいの視線に、全身穴だらけになりそうだった。とてもじゃないが、十五の小娘に受け止め切れるものではない。
拷問。控えめに言って拷問もしくは公開処刑だ。――そのどちらか以外なにものでもない。
衆人環視の中、恥ずかしさのあまりカ――ッと頬に熱を帯びる。不覚にもじわりと瞳が潤んでしまう。
別に責められているわけでも、寄ってたかって叱られているわけでもない。――なのにただ見られているだけで半べそをかくとは一体、何ごとだ。
涙をこらえて、ぐっと歯を食いしばった途端。
「ぶっ―――ふ・くくっ」
盛大に噴き出したのはチャンジだ。
きょとんと目を丸くするフェイバリットの前で、男はしばらく肩を揺らして笑う。
「は・はは。悪い悪い――」
(悪い? 悪いって何が?)
散々笑い尽くし、は――あっと腹の底から最後のひと息を吐き出した後、男がゆっくり立ち上がる。
切れ長な目がこちらを見下ろす。その目が笑っているのは一目瞭然だ。
最初はただ呆気に取られていたが、この状況に気づくのにそう時間はかからなかった。
自分は揶揄われたのだ。
そうと知ると、じわじわと怒りがこみ上げてくる。
「…この世の終わりみてえな顔してべそべそ泣いてるより、ちったあマシな顔になるだろ」
笑った本人は至ってケロリとしたものだ。あっさりと言ってのけた途端。
「はあ?? おま、どういうこったよ?! これ全部、嘘なのか?!」
掴みかからんばかりの勢いで、チャンジと瓜二つの男が二人の間に割り込んだ。いきり立つチュンジに続いて、姉妹もわらわらと立ち上がる。
渦中の人は皆から詰め寄られ、非難を一身に浴びても少しも怯む様子もない。
「あ――やかましいな、お前のクッソでかい声。耳もとでがなり立てんじゃねえよ」
その強い心臓、ぜひとも自分に譲って欲しいものだ。非難の大合唱を泰然と受け流すチャンジを眺めながら、湧き上がった怒りも忘れて、心の底から羨ましく思う。
「全部が全部、嘘じゃねえ。主がここに俺らを送り出したのは本当だ。――おい娘」
いきなり話を振られ、フェイバリットの体がビクンと大きく跳ねた。返事の代わりに相手に恐る恐る目を合わせると、形のいい唇の両端が大きく吊り上がった。
(あ)
――この笑い方には見覚えがある。
里で自分を執拗にいじめていた男の子が意地悪をする前に、よくこういう笑い方をした。嫌な予感に首の後ろがぞわぞわとする。
「主から伝令だ。“泣いている時は優しく目蓋に口づけてやれ”――とな。べそをかいたらあっつ〜い一発をくれてやるから覚悟しろ」
「覚悟しろ」など慰める相手に使う言葉じゃない。抗議したい気持ちはひとまず横に置いて、ふるりと首を振る。
ヘタレと分かっているが、これがフェイバリットに出来る精一杯の拒否だった。
「さあて、こっからが本命だ。今日やることを説明すんぞ」
そう言って、チャンジの口から告げられたのは食事、着替え、洗顔…など、全部、日常生活に必要なことばかり。
正直、何を言われるのだろうと身構えていたフェイバリットにとって、かなり拍子抜けする内容だ。むしろ今の自分は、この程度も出来ないのかと不安を覚えるほど。
「コムジたちをお前につけるから、初日だが今日から少しずつ一緒にやれ」
チャンジ相手に意見するのは勇気が要ることだったが、フェイバリットは自らを奮い立たせて「あの」と声を振り絞る。
腹に力が入らず、口から出たのは思いのほか弱々しいものだった。それでもフェイバリットの情けない声はきちんと相手の耳に届いたらしい。チャンジの視線がこちらを向く。
その視線のあまりの鋭さに、喉の奥がきゅうっと塞がったようになる。――圧がすごい。
「じ・自分のことは自分でやります…私の為に手を煩わせるのは本当に申し訳ないので「却下」」
食い気味にばっさり切り捨てられた。それはもうケンモホロロに。
「へ…?」
「却下と言った。言いたいことはそんだけか?」
意を決して、なけなしの勇気を振り絞った発言は、ものの数秒であっさりと受け流された。
そしてフェイバリットが思わず洩らした声に関しては、どうやら聞こえなかったものと判断されたらしい。
(いやいや。この近さで聞こえないわけないし。ってか返事、早すぎでは??)
一瞬固まったものの、慌てて気持ちを立て直す。じっとこちらを見下ろすチャンジを前に、フェイバリットは深呼吸ひとつ、改めて口を開いた。
「あのぅ――時間をかければ一人でも「無理だな」」
「そのぅ…「駄目だ」」
「………」
どんどん割り込むタイミングが早くなっているのは気のせいではない。とうとうフェイバリットは口を噤むしかなくなった。
「申し訳ないと思うなら、さっさと体調を戻すのが一番だ。ちゃんと出来るようになったらもちろん一人でやらせてやる。ガキは遠慮なんかせず、大人しく世話されとけばいいんだよ――バーカ」
(ばか?)
あまりの言われように呆気に取られる。
どのくらいポカンと呆けていたのか、ふわりと鼻腔をくすぐるいい匂いがフェイバリットを現実に引き戻した。
見ると、いつの間にか寝台に腰を下ろし、くっつくように美人姉妹が自分に寄り添っている。
しかもあろうことか、白魚のような手が二つ、フェイバリットの頭をよしよししてくれている。
「まあまあ、お兄様。相手はまだ子供ですのよ」
「そうですわ。そのような言い方では怖がってしまいます――そうよねえ」
甘い声がして、柔らかな手がそっと頬を包み込む。待ったなしで頭に血が上るのがわかった。
女神と見紛う美貌が至近距離からのぞき込み、真っ赤になったフェイバリットに微笑みかける。
「安心して。お兄様は陰険な意地悪をするような方ではありません。大変、不器用でとてつもなく矜持が高く、捻くれているだけ」
「そうよ。とても男らしい方です。その上とても厳しく頑固で、ちっとも女心などお分かりにならない唐変木なのです」
(ん?)
ニコニコと笑う姉妹をフェイバリットは無言で見つめる。…なんだかただの悪口になっているような気がする。
あれ? 何か聞き間違えた?
首を捻り捻り、改めて姉妹の言葉を最初から反芻していると、寝台脇からただならぬ気配が漂ってくることに遅れて気がついた。
ちらりとそちらに目をやれば――そこには額に立派な青筋を立てた鬼…いや鬼の形相をしたチャンジの姿があった。
「―――ひっ…」
この世のものとは思われぬ面相に、小さく声が洩れてしまう。隣を見れば、姉妹が揃って声もなくガクガクと体を震わせている。
「…お前ら、話す順番がおかしいだろ…。上げて落としてたら全く意味がねえし――それに…っ、バランスもおかしいだろがっ。褒め言葉よか短所のが圧倒的に多いってのはどういう了見だ――!!」
ちなみに大きな雷が落ちた後は一件落着、めでたしめでたし――とはならなかった。
「あ、ちゃんと出来るかどうかは俺が判断する。今日一日、俺もそばで見といてやるから安心しろよ?」
などとチャンジがしれっと言い放ったからである。
(一日中そばにいる??)
危うく半泣きになりそうになったが、(べそをかいたら熱い一発)というあの呪いのような言葉がよみがえり、はっと我に返る。
最初にその言葉があったからこそ、その後一度も泣くことなく言われた通りにしっかり取り組むことが出来た。
それはフェイバリットにとって、不幸中――唯一の幸いと言えた。
読んでいただき、ありがとうございます。
次話は一週間後、更新予定です。
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




