10 けもの道
「モミジイチゴを採りに行きたい」
6月の山は野苺の宝庫だ。
野苺にはいくつか種類があるが、中でも一番味がいいのがモミジイチゴだと言われる。
それもあるが、イレインにとってモミジイチゴは特別だった。なぜなら――リヴィエラの好物だから。
モミジイチゴを食べる時、よく見ていると、ほんの少しだけリヴィエラの眼差しが緩むことにイレインはある時気づいた。
そんな些細な違いに気づけるのは、きっと長い間一緒に暮らしているからだろう。イレインはほんのちょっぴりそれを誇らしく思っている。
そしてリヴィエラの喜ぶ顔が見たくて、イレインにはモミジイチゴが毎年採れる自分だけの狩場があった。
きっと今年もたくさん実っているだろう。
枝垂れる低木に生る、橙色の実。粒々の実はつややかで、みずみずしい。
大きめの実をいくつか採って頬張ると、口いっぱいに広がるほのかな甘み――。
脳裡で思い描くと、口中に唾が湧いて出るようだ。
リヴィエラに食べさせたい。
うっすらと笑顔すら浮かべて思いに耽っていたイレインは、そこでランドの存在を思い出し、彼を見上げると。
思った通り、渋面を作るランドの姿があった。
「…リヴィエラ様に食べてもらいたいの…」
ランドの強い視線に声が尻すぼみになってしまう。それでも最後まで言い切った自分を褒めてやりたいとイレインは思う。
リヴィエラの名前を聞くと、ランドがなんとも言えない顔をした。
イレインに甘いランドのことだ。きっと彼女の気持ちが嫌というくらいに分かるのだろう。
ランドは空を見上げると苦々しく言った。
「今から探し始めると、日が暮れちまう」
珍しく乱暴な口ぶりになる。最近は大人ぶって丁寧に話すようになっていたので、なんだか昔のランドに久しぶりに会ったような気分になる。
「大丈夫。モミジイチゴが生る場所は分かってる。それにそこまで近道になるけもの道も知っているから」
なんとか首を縦に振らせたい。イレインは畳みかけるようにまくし立てた。
それに嘘は言っていない。イレインはけもの道をたどることが得意だ。
足元ばかりをじっと見ていたからか――それとも体が小さいからか、どちらなのかは分からないが。
その場所にたどり着く一番早いけもの道、それもイレインだけの秘密の通路だ。
ランドは呆れたものか感心したものか、複雑な顔をしてまだ迷っている――もうひと押し。
「お願い。ランドがいるなら大丈夫でしょう?」
不慣れだが、ついに奥の手を出した。精一杯、なけなしの愛想を振り絞り、イレインはランドににじり寄って懇願する。この関門を突破できないと、今日はこれで打ち切られてしまう。
「……。……。…… 分かった。行ってすぐ戻るぞ」
「―――うん」
イレインは気づかなかったが、満面の笑顔を浮かべていた。これでモミジイチゴを採りに行ける。
その喜びのあまり、ランドが驚いたように息を呑んだことにも気づかなかった。
沈黙するランドが気になって顔を覗き込むと。
「いいから早く連れてけよ」とぶっきらぼうに言うランドに追い立てられた。
「ここ?」
「うん」
二人は森のはずれまで行き、藪の下側にわずかに空いた隙間を前に立っていた。
ここが、そのけもの道の入り口だ。
藪の中にトンネルのような道が続いている。その道を正しくたどっていくと、山の中腹にある少し森が浅くなったところに出られる。
「行くか――礼をするぞ」
山に入る時は「これから山へ入らせていただきます」と心の中で言って一礼。そして戻ったら山のほうを向いて「無事下山できました。ありがとうございます」と一礼する。
山はそこに住まう生けるもの全てに豊かな恵みをもたらしてくれる。
反面、圧倒的な力で、時に命を奪うことさえ厭わぬ。
慈悲深く美しい、そして厳しくも恐ろしい山の神に敬意を払うのだ。
二人は並んで深く頭を下げる。
そして姿勢を低くすると、藪にひっそりと隠れるように続くけもの道に潜り込んだ。
いつからだろうか。
たくさんのけもの道を見ているうちに、小さな道でも見つけられるようになった。
けもの道には、自分専用に使う道と、大勢の動物たちが皆で使う道がある。
谷底に降りる道、餌場に続く道、巣穴へ帰る道など、森にはけもの道がそれこそ至る所にある。
イレインはランドを誘導しながら慎重に進む。
道は森の奥深くまで続いていた。手足をついて這って歩かなければ進めないほど小さく狭い道だ。
「よくも、まあ…こんな道」
「見つけたものだな」と小さく呟きながら、ランドが苦労しながら狭苦しい藪の中に体をくぐらせる。
「うん、昔見つけて使った…――」
そこで思考が止まる。…… いつ、ここに入った?
なんだか急に記憶が曖昧になる。
リヴィエラと一緒に何度も山に入っている。だが、その時にわざわざこの道を通るとは思えない。それならばいつ?
最近ではない。それならさすがに覚えている。それに、こんなに小さなけもの道――使ったとしたらごく幼い頃かもしれない。
…… 一人で山の中に入る? しかも小さな子どもが一人で?
それは、あり得ない。リヴィエラがそんなことを許すはずもない。
物思いに耽るイレインに、背後からランドが声をかける。
「どうした?」
「え?――ううん、行こう。しっかりついてきてね」
言うとイレインは駆けだす勢いで足を速めた。道はいつの間にか立ち上がって歩けるほどに広くなっていた。大きな動物たちも使う道に入ったようだ。
「待て―――危ないから」
「だって、急がなくちゃ」
――― 急がなくちゃ…早く
脳裡に声が浮かぶ。それは紛れのなく自分の――幼い頃の自分のもので。
急に立ち止まったイレインに、驚いてランドがその背中に呼びかけた。
「小鳥」
”小鳥”。それは山中でのイレインの呼び名である。
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次の11話と12話は3日間隔で更新します。
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