素数を教えてくれたのはあの母さんなんだ
長い時を知らせたあとの鳩時計のように、藤十郎の母は自分でも懐中時計の蓋を閉じ、さっさと奥に引っ込んだ。
・・・・・・素数のことを教えてくれたのは、さっきのあの母さんなんだ。
はじめは、ママって呼ばせていたけど、時局が時局だからね。お父さんが仕事場と同じ方法でひと月徹底させたら、もうママは出なくなった。母さんは早かったよ、ものの1時間、もともと呼び名にこだわる人じゃなかったから。
懐中時計の中の母さん、女義太夫の母さん・・・・・
もう閉じちゃったから見えないけど、糊と江戸小紋でカッチカチになってた裃の奥の羽二重の懐が膨らんでいたのに気づいていたかなぁ・・・・無理だよね、だってあんなに小っちゃい処からはみ出して来ないんだもの。あの中にね、懐中時計がたくさん詰まっていたの、せんせいがもってる数より多いよ。ずーと隠して見せてくれないから正確なところは分からないけど、100は下らないんじゃないかな。
母さん、ぼくを生む前から、父さんと会う前から、外地に渡る前から、ずっと懐にかかえて温めていたみたい。死んでからはじめて気づいたって顔している・・・・・母さん、素数のことは教えてくれたけど、たましいのことは教えてくれたけど、あんなにたくさん抱えているのも、それを見せないように隠しているもの自分では気づいていない、・・・・可哀想なひと。
・・・・ぼく、いつも、母さんから「可哀想な子」って呼ばれていたんだ。呼び名が母さんに変わる前のママって呼んでた小っちゃい頃に、繰り返し、ぼくの顏をじーと見つめて、自分の持ち物みたいにぼくの左掌を、こうしてぼくの顔の真ん前に突き出し、「お前は短命だよ。ほらっ、こんなにも生命線が短く生まれついているんだから」と、ひとさし指をあてがい、爪の先でほじほじ何度もその短い線を往復する。それが、夜、ぼくの寝室にいきなりやってきて、ぼくを寝かしつけるための母さんの儀式だった。
・・・・でもね、勘違いしないでほしいんだ。母さんは、けっして意地悪でそんなことを洗脳してたわけじゃないってことを。「しっかりしていかなきゃダメだよ。しっかり、早く、大人になって、大人にならなかれば味わえない、生まれて、生きている今に、すっくと立ってる自分を、早く見つけて覚えていかなきゃ。ぼやぼやしてたら、すぐにお迎えが来ちまうんだから」
それが毎晩だったらぼくも変になってしまったんだろうけど、・・・・お父さんは帰ってくるよりたまにやって来る人だったし、昼間はやかましいほど出入りするお客やお手伝いの人たちは各々の用事がすめばさっさといなくなってしまう、・・・・・一週間に1度か2度、いつも夜はいない母さんが一緒にいてくれるんだから、そっちの方が嬉しくて、嬉しくて。
ものごころつく前から、背中に刺さっているささくれを一緒になって、一本一本とっていく。
それが、せんせい。
母さんと、せんせいと、素数と、たましい。
離れないように輪になって手を繋ぎ、こうして離れずにやってきた。
縫いかけの編みもの携えるように、母さんは模造紙の束を抱えてやって来る。儀式が終わるとさっさとかからなきゃと、手元の明かりをつけて、子供用の執務机に腰掛ける。筆算用に小さく切った模造紙しばらく割り算をしたあと、数字の並んだ束のひとつに✖印を付けていく。それを延々繰り返す。
いまより少し幼かったぼくが、初めてその格好に出くわして、「何してるの、ママ」って聞いたら、「写経みたいなもの」って応えた。そのときは、意味も分からずシャキョウって音だけ記憶に刻み付けていた。それがエラトステネスの篩だとあとで知っても、時局のせいであちらこちら数が増えるようなったお寺の声明と重なり、素数は声明と焼香を纏って本堂の奥に鎮座している。80年経ったいまでも、それは変わらない。
母さんが、わたしを追い抜きいまだに若いのと、同じさ。
せんせいが口にする「母さん」は、小さな子どもが、その呼び名だけにいま世界すべてが存在する声だった。母なるひとも、たましいでその声に応えている。世間でいう母性とは異質であっても、この親子は生きてる間も肉体が滅んだあとも、お互いの正面を向いていた。産んだ母は、己れの生に向かい合っていたときと同様に頭でっかちな母なるものなぞにはならずに、肩ひじ張らないまま生まれた子の運命に真っ正面に顏を向けていた。
いつ死んでしまうかもしれないことを、怯たり、背けたりするのではなく、正しく受け入れて、生を全うする。
ー うち・・・・すぐにうちを売り飛ばす、あの札束の数で向きが変わる風見鶏みたいな親たちよりかは、幾分まともかも・・・・素数と同じにうちの魂は割れていかんから、ひとつの存在いうモンをうちは、ちゃーんと、持ち合わせていたもの。
かみさまは、数学に身を置くひとたちのためばかりのもの、でない。
頑固な素数のかたちは、生まれてから世間と自分だけのこの女には神様のような揺るがない存在だった。