利発で早熟な子がそうであるように
すべてがそうとはいえないが、たいがいの利発で早熟な子どもは早く大人になる事情や経緯を抱えている。
食うや食わずの現実を見るよりほかなかったわたしら貧乏人の子どもとは違い、藤十郎は藤十郎で高い御殿天井の格子から跋扈する魑魅魍魎の|を見つめながら自身で己れを育んでいかねばならない経緯を抱えていた。
あの時代、あの土地で、幸せをずっと甘受して育ってきた子どもなど誰一人いなかったのだ。
お月様を見て朧がいくつにも混ざっていると見えるのは、乱視のひとの目の中ばかりとは限らない。
夜具を飛び出した赤ん坊が猫と一緒に西に沈むまん丸のお月様を眺めていることがあったら、きっとそれは月が朧に混ざり半熟卵のどろりした深淵をみせているときだ。しかし猫と違って赤ん坊の時間が過ぎると、あんなにも見つめていた深淵は見えてこなくなって、その存在する消えてなくなる。そうしてヒトは成長していく・・・・・
誰にも母親が自分だけのものでないと分からなければいけないときは、必ず、やってくるのだ。それさえない母のない子と母なるものの存在が失わていた子どもには、最初からそれが待ち受けていただけのことだ。
一度だけだが、藤十郎の母親を見たことがあった。
いつもの登下校の車の助手席に乗り、見られていることを意識しないようまっすぐに前方だけを見ている横顔。百貨店の売り物でない飾り物のヨーロッパ貴婦人を型取った白磁の人形のように滑らかで煌びやかな顔だった。よその母親でさえ母なるものに女を感じさせるものがあるなど想像だにしていない子どもの目にもそのように映った。
自分だけを見ていてくれるたった一人の守り神と思っていたものが、それ以上のものではないただの血の繋がりのある親でありひとであることに気づかされるときがある。そうした家族や社会の箱の中に、ものごころつかぬ子どもは選択の意味など分からなぬうちに放りこまれる。
それでも、なかには、それを手から離さずに持ち続ける子どもがいる。
藤十郎がそうだった。
あの日から、わたしにもそれが分かるようになったが、藤十郎に合わねば、そんなものの存在など一生分からずに生きていったことだろう。
ほかの社会と交わる時分には背後に見えている朧で邪魔な生霊たちを、藤十郎は最後まで見つめていた。
むしろ、それが、それだけの一生だった。
そんな生霊たちに己れの柔らかなものを傷つけられぬよう、現の中でも記憶として定着する知恵でそれらを回避しながらの一生だった。
たとえ夜明けに見た夢が二度と味わいたくないほどに冷たい氷に浸かるものであっても、再び思い出してその冷たさを定着させ記憶に残していかなければならない。
それだけが有象無象に漂う生霊たちの正しい数え方と、知っていたから。
藤十郎は毎朝をそうした日常を潜り抜けていく。
一番に幸せなこどもの顔。
大切に大切に育てられたひとり息子お坊ちゃまの顔。
収容所の狭い部屋で暮らした1週間がなければ、わたしは藤十郎にそうした絵面しか描けなかったろう。
雨の帰り道、隣を藤十郎を乗せた車が過ぎる。あー、お車が迎えに来た。今日は雨だから、いいよなぁ、あいつ。同じ社会でも別の階段を使って自分の動線を上り下りする子。その程度の関心とやっかみだ。
藤十郎はそうした間の目を一番正確にみている子どもだった。少なくとも、今日と明日しか眼中にないいまの自分と周りだけが全てであったわたしたちとは違う遠い先々を見ていた。
だから、子どもを守っていくれるはずの家族、学校、お国、軍隊、そうした今日も明日もあるはずのものが、死んだり瓦解したり逃げたりで居なくなってしまっても、わたしなどと違って、今日から繋がる明日として受け入れることができた。
収容所に入ってからの日常も昨日から繋がる現実として受け入れていた。
ひもじいことも、自由に動けない束縛された日常も、そしてなにより昨日まで明日からも当たり前のようにいるはずの身内がひとりとしていなくなった現実も、いずれやってくる先からみれば、そのあともちゃんと繋がっていく現実として受け入れていた。
喘息持ちの病弱な身体で生まれついたことが、人生や社会を私なんかよりもずっと幼い時から俯瞰できる目を育ててきたのだろうか。それとも、近目のせいにして他人の顔の一番やわらかな部分をそぎ落とすような冷たい目をむける偉いお役人の父親や、煌びやかの似合う母親が大きく関わっていたのだろうか。
修練によらなければ、育まれてはこないだろう。早く大人の目を持とうとする成熟への飢餓感がなければ、育まれないだろう。
しかし、そうした藤十郎のふつふつしたものが何処で何で沸き立っていたかは、この齢のいまに至っても想像よりほか知り得ようはない。
ただひとつ、藤十郎は、今の自分の姿がそんなに変わるまでは生きてはいけない、大人にはなれない、それだけは確かなことだと、淡々と、説いて聞かせ言い諭した。
それは今思いついた慰めなどでなく、むかしからものごころついたときから自分の中にある、確実な未来なのだと、ほかはどのように変わっていっても、このことだけは確かなことなのだと、多くの言葉を費やしし、淡々と、説いて聞かせ言い諭した。
「死んでいくベッドがこの収容所の部屋の中だなんてところまでは予測できなかったけど、幼い時分から見えているぼくが死んでいくベッドは、いつも不釣り合いなほど大きなものだったんだ。
そのとき、
赤ちゃんのぼくは、籐に囲まれたあんなベビーベッドなんかじゃなく、小さいが大人と同じつくりのシングルベッド。小学生のぼくは、男女ふたりの大人が十分の縦ばかりでなく横幅も大きなベッドに寝かされている。
ダブルベッドよりも大きなキングサイズベッドのときもある。大きなロシア人が寝ている布団を二枚横に敷いた大きな真四角したベッドを想像すればいい。
そこに、なで肩であたまの寸法と同じ胴体のぼくが仰向けで天井を見ている姿を、想像してみるといい。
何に見える、だろう。
今年の夏休みの課題に昆虫採集と勇んで標本箱を用意したのに、捕まえてピンに留めたのは一匹だけ。それも地味な色とかたちのゾウムシだけ。少し間延びした顔がゾウに似ている意外なーんにも特徴のない、数と種類だけは地球上であんなにいるのにそのひとつひとつに関心をもたれ区分するのはその筋の専門家だけ。ただゾウムシと四角い片にカタカナで名前を記され、ピン留めの間にそれを挟まれている。
そんなスカスカの標本箱、間尺の合わない標本箱
いままで考えた中で、そのときベッドに寝かされているぼくを説明するのに一番近いと思うんだ」
藤十郎のいる標本箱は、わたしら子どもがすぐに口にする「いずれ兵隊さんになってお国のために戦死する」の漠然とした先のことではない、誰ひとり入いる余地のないパーソナルな領域だった。
戦争やお国でこんな天地がひっくり返る状況になったことと、幼い子どものまま命がつきてしまうことはまたっく別のことだった。
こうした理屈の導きはあとになったことでも、藤十郎の核心は、そのときのわたしの中にきちんと仕舞われた。
素数の完全な孤独と同じく、超然とした神々しい温度の見えない眩しい光で輝いていた。
「さぁー授業を続けようよ、せんせい。ぼくらには余り残された時間がないんだ」
藤十郎は、何故かわたしをせんせいと呼んだ。ほんとうはお母さんと呼びたかったのかもしれない。でも、それは出来ぬことだからせんせいと呼んだのかもしてない。
そして、ぼくではなく、いつもぼくらと呼んだ。
せんせいもぼくらも、同じことを示しているようだった。
わたしは1週間ひたすら藤十郎から素数を伝授された。ギリシャからいまに至るそうしたひとたちの叡智の繋がりを受け取れたのは、魂の一体を先に綴ってもらったおかげだったのだと、思う。
それがなければ、国民学校の5年生だのに算数といったら九九の暗証までのわたしの中に、天才と呼ばれる人たちの叡智が入いるなど出来なかったはずだ。ユークリッドの原論からリーマン予想までの真意を腹の中に納めることは出来なかったはずだ。