糸繰りおばさん
あたしの家にやってくる男たちを、あたしはもうお客と呼んだり思ったりしなくなった。だんなさんは相手の男を連れてくるけど、この家に泊まったりくつろいだりはしない。そのことの間中、家の中にいても外にいても、そのことやそのことの時間に関わることを持ち合わせていないように消えている。
だから、ここはあたしの家。店ではないから客でなくて相手の頭に男をのせる。
その男たちの扱いは様々だったけど、それが終わって引き上げるときの男たちの顔は一様に同じ顔になっている。
一度も味わったことのない甘美な世界からあがったばかりの満足した顔ではない。何かとてつもないものに出くわしたときの呆けた顔でもない。そんな、それが終わったあとに男たちが事前に用意しているありきたりの似通った顔なんかじゃない。
皆んな、無表情のおばさん顔になっている。
何を着ても脱いでも海軍の白い詰襟が見えている四角いマッチョも、
影の入った丸眼鏡を置き忘れたような特務機関のやさ男も、
垂直姿勢のままぶったおれ、その重くて丸っこい全体重を前歯2本で支え切った出っ歯の商人も、
紡績工場の決まった奥の椅子に座り四半世紀
お蚕様を茹でたあとの糸繰りを続けてきた
そればかりを見つめてきた
生娘のまま乾いて固いおばさんになった女の顔に、どの男も変身する。
それは、ほんの一瞬の変身なのだけど。その顔を看取ることが、だんなさんのいった、あたしがあげる一粒なのだ。
その顔を見つけているのはあたしだけ。
あたしとの一連の作法が終わったあと、相手の男の顔に糸繰りおばさんをあたしは見つける。
でも、それは一瞬のこと。
男たちはあらかじめだんなさんが言い含めたように、ほしいものをあたしがあげた、受け取ったと思い、元のありきたりの顔に戻っている。
そうした安心した安堵した柔らかな悦びが木漏れ日のように沁みだしている。まさか、ほんの一瞬の糸繰りおばさんの変身をあたしが指し示しているとは、思っていない。
だんなさんは一粒のことは言ったが、まさか伝えた一粒をあたしが糸繰りおばさんで受け止めているまでは知らない。そのことをもしも伝えたら、どんなに婉曲なコソコソばなしで耳移ししても、多分、がっかりする。
そして、きっと、土下座し、涙し、彼らには言わないでくれと懇願するに違いない。
「もう、うすうすは察してるだろうが、あれほど縁もゆかりもないちぐはぐな男たちだが、この家に連れてくる男は、皆んな満州国にとっての有意な者たちなのだ」
きっと、そんな、半分は本音、半分ははぐらかしの説明をするに違いない。でも、有意ってなに。有意な者って、有意でない者と区別されるどんな特別に律したものがその男の中に立っているの。
でも、ひとり、糸繰りおばさんの出てこない男がいた。
ひととおり一連の作法が終わっても、男の顔は糸繰りおばさんに変身しない。横になってる身体を少し立ち上げ向きを変えて見据えてみても、どこにも出てこなかった。
なにかおかしなものでも顔についてるかの問い詰めを身構えたとき、男は「そんなにジロジロしても、何も出て来やしないよ」と仰向けの顔のまま、その惚れ惚れするようないい男ぶりした顔を指差し、諭すように云うもんだから、すっかりあたしの中を見透かされた怖じ気が出てしまい、あたし、金襴緞子の布団に潜り込んでしまった。
夜来香になる前を入れても、こんなの初めてだった。だから、なにもできない、布団の柔らかな闇の中から出てゆけない。
そのままに任せていたら、錆びたいい声がお布団の中に入ってくる。義太夫節だ。
あたしも女を商いにする前のこども時分はそれようのベベ着せられて、義太夫の真似事させられてたから、聞き覚えのある節だった。
でも、義太夫節が、こんないい具合に沁みてくるのは、はじめて。いつも、ふんわりまっすぐなものを、年寄り趣味の無理にねじり絞った骨ばった掌としか感じていなかったから。
錆びているのに、ぜんぜん、無理な衒いが纏わりつかず入ってくる。
99999989が、やってきた。降りてきた。
あまーいコンデンスミルクに粒が弾けるときの王冠みたいな角が七つきれいに輝いている。
「オレっ、もう持っているから。それっ、お前にあげるよ。あげてばっかりじゃ、何をあげているのか忘れちまうだろう・・・・ひとつくらいはかたちにして手元に置いといたほうがいい」
そう言って、男は帰る。だんなさんは、そんないきさつがキングベッドであったことはど露ほども感じないまま、その男を県瀬中の都に送るために一緒に家から出ていった。
きっと、だんなさんたちの見込み違いだ。あの男は、有意な者なんかじゃない。おめがねちがいの有意ではない男だったといずれ乗せてる車から放り出されるはずだ。
だんなさんたちは、そのことに近づいても、魂の数までは見えないのだから。
でも99999989は見えなくても、近づいてくればきっと乗せているときの居心地の悪さくらいには気づくだろう。