粉砂糖いっぱいの唇に
「あなたは算数がお嫌いでしたね」
ひととおりの挨拶を済ませお茶を済ませ、何かほどきやすいものはと選びながら本筋へ繋げようと思っていた矢先だった。聞くのは私の稼業のはずなのに、占い師のようなズバッとした結論を吐き出され、出鼻をくじかれる。
「いや、なに、何か構えたものがあるわけじゃないのですよ。安心してください。・・・・・その顔は子どもの頃から算数が苦手のひとの顔ですよ、ね。こうして初対面でも、それとわかる方の顔をみつけると、ついついそれを生のまま口にしていまうのが私の悪い癖でして。どうも子どもじみていてすみません。どうか、お気を悪くなさらないでください」
と、言い終わる前に、お茶と一緒に出してくれた籠盛りの駄菓子の甘い方の包みをはがし始めている。駄菓子より先にひとを食って味わってる。それでも、若い聞屋のかく冷や汗を弄んで楽しもうとする功をなした老人特有の薄くていやらしい唇は感じられない。
「ここのあん玉はうまいんですよ。切らさないようにと頼んでわざわざ青森から取り寄せてるんです。甘いのが苦手でなかったら、ひとつあなたもお上がんなさい」
いただきますと、せんせいと一緒に包みをはがして口に放り込んだ。溶かした白砂糖の滑らかさのあとに小麦粉と一緒に練ったアンコの食感が嚙み味よくのどに落ちた。
「せんせいは、甘党でもいらっしゃいますか」
本筋までの迂回には相手のペースに乗るしかないと、あん玉を嚙みながら行儀のわるい居ずまいのわるい流れを素直に嚙みしめ尋ねる。
それでも、居心地の悪さは感じない。このまま黙って、この八十を過ぎた老人とお茶と一緒に黙ってここの駄菓子をみんな食いあげられそうな気分だった。
高校時代の授業をさぼって入り浸っていた美術準備室を思い出す。
そこの家主の教師がいてもいなくても、「この齢になってもおふくろ、食べきれないほど送ってくるんだぜ」と、わたしの分まで見越したように実家の会津から切らす時期を見計らって送られてくる駄菓子の山を食べてた高校時代を。
「わたしが、数学者連中のあいだで蟒蛇って呼ばれてるの、聞いているでしょう」
「えー、存じております。ほかにも、洗面器、穴ザル、一斗楢」
「さすがに記者の方はぬかりがない。しっかり調べておいでだ・・・・・でもねぇ、穴ザルは底のぬけたザルっていうのがそもそもなんだよなぁ。・・・・・・だって、ザルに穴はつきものでしょう、穴があるからザルなんだ。穴がなければ、調理用具ならボウルだし、左官道具ならトロぶねでしょう。最近は、ものの質を考えず伝播するための耳当たりのいい造語づくりにに汗をかく輩ばかりが増えて、困ったものです」
また、刺しにきたのかと顔を覗く。
「あなた方のことですよ」と「あなた方のことじゃありませんよ」のどちらの口かと身構える。
張り付くような、抜けるような妙な間が入る。
わたしが2つ目、せんせいが3つ目を口にしていた顔のまま、ふたりしてはじめて笑った。両方とも口の周りについた砂糖が零れて、上着に掛かる。お互いのやっちまった感の姿が可笑しくて、せんせいはパンパンと床にはたきながら、次の包みに取り掛かる。わたしは、あとで掃除する奥様のことを考えて、出してもらったおしぼりで丁寧に白砂糖を拭き取る。
「酒も飲みますが、甘いものも大好きです。きっと口が綺麗でないのは、口に入るものはなんでも入れずにすまなかったあのような時代に子ども時分をすごしていきたのが一番なんでしょうね」
「わたしは海外も含めて両親とも単身赴任が長いような家に生まれましたので、ジジババに甘やかされて育てられた反動なんです、甘いもの口にするとき行儀が悪くなるのは」
わたしは不用意に生のものをちらつかせてしまた。高校の美術準備室が一瞬ちらついたせいだ。せんせいは砂糖のついた唇のままわたしの顔をたったいま初めて見つけたものを見るように食い入ってきた。
「あんた、ほんとうに、よく似ている・・・・・そっくりだ。そっくりだよ、あんた」
ソファに戻り、何度も反芻していた言葉が漏れてきた。わたしに聞かせるでなく、もっと遠くの、もっと彼方の、誰かに聞かせるようなひとりごとだった。
わたしは聞いていいのか、あとになってこのことを見なかったことにすればいいのか、わからないふりを続けるよりほかなかった。
それでも、せんせいの一言一句はICレコーダーを文字起こししたようにすべて脳裏に焼き付いていた。