九輪
齋藤さんが教室へと戻ってきたのは、昼休みが終了する十分前だった。俯きがちに教室へ入り、けれど どこかすっきりしたような表情でボクの前の席に着く。
「晶ちゃん、抜けちゃってごめんね。由里ちゃんから、先に行ったって聞いて」
申し訳なさげに微かに下げられた眉に、高野さんの「自分のことなら自分でなんとかしなよ」と言う言葉を頭の中で反芻する。ひりついた心が、ゆっくりと言葉を吐き出してゆく様子をどこか他人事のように見つめていた。
「ううん、先に行ってごめん。……あの、川蝉さんのこと、これからは自分で何とかするから」
そう言えば齋藤さんは、戸惑ったように視線を左右にさ迷わせて「どうして? なにかあった? ……由里ちゃんに何か言われた?」と心配そうに言う。ボクは慌てて「そうじゃなくて」と言葉を続けながら、「その、軽はずみだったなって思って。君にも色々とやることがあるんだし、ボクのためだけに時間を使ってもらうのは申し訳ないなって、前から考えていたんだ」と言えば、彼女はどこかショックを受けたような表情で「そんなこと……」と言う。ボクは慌てて「それに、川蝉さんのことを抜きにしても、君と仲良くなりたかったから。今度は君のことも、もっと教えて欲しいなって思って」と続ければ、彼女は少し腑に落ちなそうな表情をして、こわごわと頷いた。
「……うん、わかった」「ごめんね」
謝罪の言葉を口にすれば、齋藤さんは再び頷く。「ごめん」と再び告げれば、「うん」と答えてからゆっくりと微笑んだ。
「……こういう時はね、本当は「ごめんね」じゃないんだよ。本当は、こういう時は────」
教えて貰った言葉を、再び口にして。そうすれば、齋藤さんは再びころころと笑ってから頷いた。
「ね、晶ちゃん。最近ね、私、考えるんだ。……もしかしたらお友達って言うのは、気が付いたときにはもう、傍に居る人のことなのかもしれない、って」
その言葉に、小さく息を呑んで。少しだけ大人びたように見える目の前の彼女が、まるで知らない女の子のように見えた。
「……そうだね」
本当にそうなのかもしれないなんて思うのは、あまりに単純すぎて。けれど、もしかしたら人間関係の始まりと言うものは本当に単純な切っ掛けで始まるものなのかもしれない。
「…………莉菜ちゃん」
ゆっくりと、目の前の彼女の名前を舌先に乗せて。心の奥に染み込ませるように、その名前を呼んだ。瞬間、彼女が驚いたように目を見開いて、「うん」とゆっくり微笑む。丸い弧を描く頬に、ほのかな薄桃色が色づいて、その時になって初めて彼女や齋藤さんなんて記号化されない関係性に名前が付いたような気がした。
人に本心を見せるのは怖い。傷付けないように、そしてきっと傷付かないように、当たり障りのない言葉ばかりを言っている。でも、もしかしたら、「××」と言う関係は本当は言葉ひとつで簡単に基盤を作っていくことができる言葉なのかもしれない。
「莉菜ちゃん、ボクと」
小さく息を吐いてから、バクバクと騒がしく鳴り出す心臓を宥めるように深呼吸して。微かに震える情けない手を、ぎゅっと握った。
「……ボクと、友達でいて」
絞り出すように出した声は情けなく掠れて、手は緊張で酷く冷たかった。指先がじわりと冷えてゆく。情けなく震えるその手を、ただ見つめていた。
────莉菜のこと、とらないでね
頭の中で、彼女の声が反響する。コチコチと壁掛け時計が鳴らす音が、やけに大きく聴こえて、長針が動く度にびくりと肩を震わせた。
晶ちゃん、と言う消え入りそうな声が聴こえたのは、それからおよそ十分後で。その声に顔をあげると同時に、俯いていたことに気がついた。
彼女は、にっこりと笑ってボクの手を握る。冷えきった手に、彼女の熱が伝わった。
「……そんなの、当たり前だよ。友達ってね、気付いたらもうなってるんだよ」
そう言って、彼女が手を握って。伝わった熱が、ゆっくりと心の縁を溶かすようになぞってゆく。その事が、ただ嬉しかった。
時刻は授業時間開始三分前で。「話してくれてありがとう」と言って微笑む彼女に、「こちらこそ」と返す。じゃあ、と言って彼女がくるりと向きを変える様子を見送ってから、震える手で手元の教科書をパラパラとめくる。まるで心臓のふちをなでられるように、やけにくすぐったかった。