七輪
────子供の頃から、思い出に浸りすぎる傾向があった。何度も繰り返し、優しくて温かな思い出に浸るのだ。
周囲の人間は、最初はボクの思い出に合わせてくれていたけれど。未来を好まないボクに呆れ、だんだんと離れていってしまった。
それを受け入れてくれたのは家族以外には「彼女」だけだったから。だからきっと、惹かれていくのは必然とも言えた。
暖かくて優しくて、緩やかに流れる思い出を食む。それは一種の逃避行動に似ていた。
────だからきっと、「彼女」に嫌われてしまったことも、今では当然だなんて思ってしまったりもする。
「────塩瀬 晶さん、いらっしゃいますか?」
彼女────一年三組の白石さん────からメールを貰った日の昼休み。柔らかな声で、教室の出入り口から自分を呼ぶ声に思わず顔をあげた。
ボクはその時、ちょうどまたコンビニエンスストアの同じメーカーのカップサラダを食べようと口に運んでいたところで。同時にそれは、入学以来机を向い合わせで食事をしている「彼女」に食事内容を心配される時間でもあった。
間抜けなことに、フォークにレタスと千切りの人参を刺して口に運ぼうとしていた瞬間だったから、驚いてぽかりと口を開けたまま彼女の方を見てしまう。
彼女はと言うと、ボクを視界に捉えると どこか急いだような表情でこちらへやって来て、その柔らかな声で問い掛けた。
「────二日後の放課後、何か予定はありますか?」
ボクは思わず、その勢いに驚いて左右に首を振る。すると彼女は、少しだけほっとしたような表情で「良かった」と微笑んだ。
「その日は、どうしても空けておいて欲しいんです」
彼女がやけに真剣な顔でそう言ったから。ボクは勢いに気圧されながら、こくこくと首を上下に動かす。
その様子に安心したのか、彼女はふっと肩の力を抜いて微笑んで。「では、私は二年生の方と約束がありますので」と足早に去って行こうとする彼女を、手に持っていたプラスチック製の白いフォークを置いてから「あの、」と呼び止める。すると、彼女は少しだけ不思議そうな表情をしてこちらを振り返った。
「はい、どうしましたか?」「あの────」
かたりと席を立って、ゆっくりと白石さんのほうへと歩いてゆく。ボクは小さく呼吸を吐き出してから、言葉をゆっくりと紡いでゆく。────ああ、このパターンは前も見た覚えがあるなという微かな既視感を思いながら。
「あの────それで、予定の内容と待ち合わせ場所を教えて頂いても良いですか?」
彼女は一瞬 呆けたような表情をしてから、すぐに「あらあら!」と口癖になっているのであろうその言葉を告げた。
「あらあら、ごめんなさいね」
────私ってば一体何をしに来たのかしら、なんて自分自身に呆れたように白石さんがそう呟いて。その言葉にどのように返せば彼女を傷つけないのかがわからずに、「はは」と曖昧に笑って小さく下を向いた。
彼女の予定は、至極簡単な内容だった。────とは言え、彼女は言葉自体に誤解が無いように多くの注釈をつけて話していたから、きっと本来の話したかったことの二倍ほど長くなってしまったのかもしれないけれど。それでも、誤解の無いように話す彼女の言葉自体には非常に好感が持てたし、その言葉自体に慣れてしまえば沢山の注釈も苦には感じなかった。
話の内容をまとめれば、白石さんはどうやら「彼女」と話す約束を取り付けてきてくれたようだった。二日後の放課後の予定を聞いたのは、彼女が部活動の合間を縫うことが出来る時間が最も早くてその日の放課後であった為だ。その後になると、恐らく花の植え替えの時期や新たに育てる野菜の植え付け時期に差し掛かるため、出来ればなるべくその日にして欲しいのではないかとのことだった。
「待ち合わせ場所は────そうですね、園芸部の活動場所はどうでしょうとのことでした」
多分、塩瀬さんもよく知っているでしょうし、と少しだけ笑いを含んだ柔らかな声に、何となく気恥ずかしくて「はは」と笑って返した。
多分────彼女は「あの日」のことを言っているんだろう。あの日、校内で迷ってしまった日のことを。
何だか一方的で申し訳ないのですが、と目を伏せる彼女に慌てて「とんでもないです」と返す。約束を取り付けてきてくれただけでも有り難いのに、それ以上を望むのはあまりにも多くを望みすぎだろう。
「とんでもないです。ありがとうございます」
────本当に、沢山。
そう伝えると、白石さんは一瞬だけ呆けたような表情をしてから、目を伏せて小さく笑った。「いえ」と言う柔らかな声が、鼓膜の奥深くで静かに反響する。
「私は、本当に────」
本当に────何も出来ていませんから。
何処か自嘲気味に呟かれた言葉に思わず眉をひそめると、白石さんは はっとした表情をしてから、慌てて取り繕うように にこりと柔らかく微笑んだ。
「────愛想がなくてごめんなさい。では、失礼しますね?」
そう言って微笑んでから、慌てた様子で足早に去ってゆく彼女をぼんやりと見送る。噎せ返るような薔薇の香りが、彼女の去った場所に微かに残っていた。
────私は、本当に何も出来ていませんから
その言葉を頭の中で反芻してから、小さくため息を吐いて机へと向かうためにくるりと踵を返す。開いてゆく距離に少しだけ違和感を感じながら、また無意識に首もとに触れる。
「────っ、痛」
無意識にまた首を掻いてしまっていたのか、指先に微かに赤い血の色が付着していた。滲んでゆく痛みが喉から全身に回っていくように、痛くて熱い。
絆創膏なんて持ってたかな、と思ってポケットの中をごそごそと漁っている中、「あああ晶ちゃん!」と驚いたようにボクを呼ぶ声に、思わずびくりと肩を震わせた。
「うおっ。…………ああ、ごめんね。話ちゃんと聞けてなくて────」「そんなの良いから!首!血が出てる!」
慌てた様子でボクに「絆創膏持ってる?」と尋ねる声に、「ああ、今────」と指先にかさりと触れた絆創膏の紙の感触に、それを引き抜こうとすると────
「────これ」
目の前に差し出された絆創膏に、驚いて顔をあげる。すると、茶色のウェーブがかった髪が視界に映って、思わずひくりと喉が引きつる。
嗚呼、駄目だ。こんなの失礼だって、頭の中では解っているのに。なのに、なのに、なのに────
────ねえ、アキ。あたしは貴女のこと、大嫌いよ。綺麗で純粋で、誰にでも優しくて、誰にでも良い顔をして
長い髪が風に靡く。薄い桜色の唇が、ゆっくりと弧を描いた。嗚呼、そう言えば彼女はいつも────
いつも────首に触れていたっけ。
がたり、と座っていた椅子が動いて。バランスを崩したボクは、ずるりとその場に尻餅を着きそうになる。
あっ、と、自分の体勢を戻そうと動いたときにはもう遅くて。間抜けなことにそのまま転んでしまいそうになった。
そうに、と言うのは実際には転んでいないからこそ出てくる言葉で。転ばなかったその理由は────
「あっぶな、ちょ、大丈夫?」
理由は────咄嗟に目の前の「彼女」が腕を掴んで支えてくれたからで。ボクは何とも間抜けな体勢で、「ごめんなさい」と謝る。
「────っ、ごめんなさい。ご迷惑をお掛けして────」「いや、迷惑って言うか────」
単純に驚いただけだから、と小さく溢された言葉に少しだけ肩の力を抜いて。それでも、迷惑をかけたことに代わりはないのにと微かに唇を噛んだ。
「いや、でも────」「ああもう、面倒臭いなぁ。良いって言ってるだろ?」
彼女はため息を吐くと、ボクが体勢を立て直しやすいように支えてくれて。そのお陰で何とか体勢を立て直すと、「ほら」と絆創膏を渡してくれる。
「君、首掻くの癖だったりする?跡が残るし、出来るならやめた方が良いよ」
────女の子だろ?と言う声に、「ありがとうございます」と返せば、「いや」と言葉を返される。
「君の前に座っている可愛い女の子の声が聞こえてきたからさ。ちょっと気になって」
────まぁ、こっちも急に声をかけて悪かったよ、なんて言って、彼女はひらひらと手を振って去っていって。
彼女が去ってゆくのと同時に、頭の中でクラスメイトの名前が浮かび上がって。嗚呼、多分、彼女は────
「────あの子、神山さんだよね?綺麗だなぁ」
にこにこと呟く彼女に、「そうだね」と返して。持参していた消毒液をティッシュに付けて消毒してから、頂いた絆創膏の包装をぺりりと剥がして首に貼る。
────嗚呼、もう。厭になるな
申し訳無くて、息苦しくて。そんな自分に、酷く嫌気が差して。
半分以上残ったカップサラダをどうしても食べる気になれなくて、少しだけ食べてちょうど半分にしてから、蓋を閉じてコンビニの袋へ仕舞った。
────晶は絶対に変われないなんて。聞き慣れたその声が、また首を圧迫したような気がした。