四十三輪
「んー!午前終わった~!」「疲れたね」
期末考査も近いからしょうがないけどと力なく笑えば、前の席の莉菜ちゃんは「でもまだ六月になったばっかりだよー」と言って、へたりと机に突っ伏す。ボクはそんな彼女を見ながら、つい笑ってしまった。
「ま、いいや! ごはん食べよ、ごはん! ……今日は三組で食べないの?」「うん、三組は体育祭の打ち上げをクラスでするんだって」
体育祭の後、川蝉さんから三組は今日の昼休みに、クラスみんなで体育祭の打ち上げをするのだと聞いていた。一緒にいた白石さんにも誘って貰ったけれど、ボクみたいな部外者がいても、邪魔になるだけだろう。
ボクは鞄からお弁当の包みとペットボトルのお茶を出して机に置きながら「君こそ一緒に食べないの?」と言外に高野さんのことを聞けば、彼女は「委員会なんだって」と言いながら、机をくっ付ける。言葉とは裏腹に、彼女はいつもよりも機嫌が良さそうに鼻歌を歌っている。
彼女の友達の高野さんとは、四月にあの話をして以降は関わることもなかった。「莉菜のこと、とらないでね」と言う言葉を思い出しながら、そっかとだけ返したボクの手元を見て、莉菜ちゃんから「あれ?」と言う言葉が飛んで来る。
「晶ちゃん、おにぎり?」「あ、うん」
体育祭の後から、ボクは少しずつ食事量が増えていた。増えていたと言ってもサラダにおにぎりが1つ加わった程度だけど、それでもボクにとっては大きな変化だ。
最近はお腹がすくんだとボクが照れくささを誤魔化すように髪に触れれば、彼女は一瞬だけぽかんとした顔をして「お腹はいつでも空くよ」と言うと、ふふと小さく笑い声を漏らした。
「……でも、そっか。お腹空くんだね、晶ちゃん」「うん」
ボクが頷くと、彼女は「そっか」と何度も頷く。ボクよりも満足そうなその顔が、今朝それを伝えたときの兄の表情とよく似ていた。
それからはお互いに、とりとめのない話をしていた。莉菜ちゃんは何度も「こうやって話すの、久しぶり」と言っていて、ボクもその度に頷いていたような気がする。そもそも川蝉さんと話せるようになったのだって、もとを正せば彼女のお陰なのだ。自分のことばかりになってしまうのはよくなかったと、ボクは内心で反省した。
「で、晶ちゃんは川蝉さんとどこまでいったの?」「ぐっ!」
それまで話していた内容とは脈絡のないあけすけな言葉に、ボクは危うく咀嚼していたおにぎりを詰まらせそうになる。慌てた莉菜ちゃんに勧められるがままお茶を飲んでおにぎりの欠片を流し込むと、咳き込みながら「なに?」と聞き返せば、彼女は「川蝉さん!」ともう一度言うと、あたりをうかがってから、そっと声を潜めた。
「だって、体育祭の日に急接近したんでしょ? もう付き合ったのかなって」「な、」
ボクはだんだんと熱を持っていく耳を隠すように触れると、「そんなんじゃないよ」と訂正する。
「大体 体育祭の日に、その、……す、好きだって思ったんだから、進展なんてしないよ」「してないの?」「するわけない。か、からかわないでよ……」
ボクがそう言っておにぎりのごみをまとめていると、「からかってないよ。……でも、そっかぁ」とぽつりと聞こえる。声のした方を見ると、彼女は満足そうに頷いていた。
「どうしたの?」「ううん、こっちの話」
そう言って微笑んだ彼女に首をかしげていると、彼女は柔らかく笑って、それ以上は何も言わずにペットボトルに口をつけた。
「晶ちゃん、もう帰る?」
ホームルームが終わった後に荷物をまとめていると、彼女はひょっこりと顔を覗かせる。それに「うん、今日は写真部はないから」と頷けば、彼女は「じゃあ、途中まで一緒に帰ろ」と屈託なく笑う。
「うん……でも、高野さんは?」「いいの。今は晶ちゃんと一緒に帰りたい」
ボクの言葉に、莉菜ちゃんはにこりと笑う。喧嘩したわけじゃなさそうだと内心ほっとしながら「そう、じゃあ一緒に帰ろう」と言い荷物をまとめると、ボクは鞄を肩にかけて彼女と一緒に教室を出た。
西日が射し込む窓の外では、運動部のかけ声やランニングをしている姿が見える。ボクが横目でぼんやりとそれを眺めながら歩いていると、莉菜ちゃんは「ねぇ」とボクを呼ぶ。「ん?」と窓からそちらに視線を向ければ、莉菜ちゃんは「晶ちゃんは、川蝉さんが好きなんだよね」と言う。そうだねと言えば、彼女は少し笑った。
「……私ね、晶ちゃんが川蝉さんと仲良くなりたいって言ったとき、本当に、そうなればいいなって思ったよ。二人とももっと友達が増えればいいなって、仲良くできたらなって」「うん、覚えてるよ。優しい人なんだって思ったから」「優しい人……優しい人、か」
彼女はボクの言葉を繰り返すと、曖昧に微笑んで下駄箱からローファーをとり出して靴を履く。ボクも慌てて靴を履き替えると、ボクの少し先を歩く莉菜ちゃんの後ろを追いかけるように後をついていく。六月特有の少し湿度を持った空気が、ボクの腕にじとりと絡みついた。
グラウンドでは、金属バッドにボールが当たる小気味よい音や、陸上部のホイッスルが聞こえている。ボクはその音を聞きながら、黙ってしまった莉菜ちゃんの方を気まずい気持ちでちらりと見る。ボクの少し先を歩く莉菜ちゃんの後ろ姿からは、その表情はわからない。生暖かい風が吹いて、ボクと彼女の髪を柔く揺らした。
遠くの空では、灰色の雲が広がり始めていた。夜には雨が降るのかもしれないとボクが思っていると、彼女は「……でも」と話し始めた。
「……でも最近ね、色んなことがわからなくなっちゃった」
ぽつりと呟いた声が、やけにはっきりと聞こえた。「わからない?」と聞き返せば、彼女はボクの言葉に返事をするわけでもなく、ぽつぽつと言葉を続ける。
「昔は晶ちゃんの言う通り、もっと優しかったはずなんだ。相手のことを考えることができたし、好きな人の恋愛も応援できた。誰かに嫌な気持ちを持ったり不幸になれって思ったりするような、そんな怖いことを思ったことなかった。……もっとずっと、良い人のはずだった」「……良い人だよ、ずっと」
彼女の言葉にそう伝えれば、彼女は足を止める。そして、ボクの方をふり返って困ったように笑って首を左右に振った。
「ううん、違うの。……晶ちゃんは優しいからそう言ってくれるけど」
そう言った彼女の表情はいつもと同じ優しい笑顔なのにどうしてか悲しそうで、だけどその理由がわからないボクにはどうすることもできない。
彼女はそんなボクを見て困ったように笑うと、伝えるのを迷うように目線を左右にさ迷わせてからそっと目を伏せた。
「……好きな人がいるの。最初は一目ぼれだったけど、一緒にいるうちにだんだん、優しいところとか意外と抜けてるところとか繊細なところとか知っていって……そう言うところ、私だけが知ってるって思ってたの。私が最初に見つけんだって、だからずっと、壊れないように大切にしてたの。……ゆっくり私のことを知って貰おうって思ってた。でも、気づいたらもう、遅かった」
西日がボクの背中をじわじわと侵食して、ボクはじとりと嫌な汗をかく。暑いだけじゃない、得体の知れない感情から来る汗だった。
目の前の莉菜ちゃんはいつもの彼女ではなく、まるで知らない人みたいだった。表情は優しいいつもの彼女なのに、彼女が何を考えているのかわからない。そっと彼女の名前を呼べば、彼女は「うん」と言って優しく笑う。ボクはこの顔を知っているはずなのに、どうして知らない子のような感覚があるんだろう。
「……とられたくないの。大切にしたいのに、大好きなのに、誰にもとられたくない。私のこの気持ちに気付いて欲しいのに、同じくらい気付いてほしくない。あの子のこと、誰にも知られたくないの。誰にも好きになって欲しくない。誰のところにも行って欲しくない。……だって、私が一番最初に見つけたのに」
彼女はそう言って言葉を区切ると、小さく息を吐いてボクを見る。柔らかい優しい声が「晶ちゃん」とボクの名前を呼んで、いつもと違う彼女に圧倒されていたボクはその声にはっとする。
「前に、私が晶ちゃんに聞いて欲しいことがあるって言ったこと、覚えてる?」「……え、あ、うん」
ボクは以前 彼女に言われたことを思い出してこわごわと頷けば、彼女は柔らかく笑って「よかった」と呟く。それが覚えていたことなのか、ボクがいつの間にか下がっていた目線を彼女と合わせたことなのか、それともどれも違うのかはわからない。
ボクたちの間には、静かな沈黙が漂っていた。莉菜ちゃんは柔らかく笑うと、なにかを言いたげに表情を僅かに歪ませる。何度か深呼吸をしてから、やがて諦めたように少し笑った。
「……やっぱり、今日はやめておこうかな。でもいつか必ず話すから、聞いてね」
少し笑ってそう言った彼女にこわごわと頷くと、彼女は少し微笑んだあとに「あれ?」と小さく声をあげる。つられるようにその視線の先を見ると、目線の先にはボクの知らない女の子と笑う、川蝉さんの姿が見えた。園芸部の活動だろうか、手にはまった軍手には少し土がついている。
「川蝉さんの友達かな。……晶ちゃんも知ってる?」「……いや、ボクは」
知らないという自分の声が、やけに遠くから聞こえるような気がした。そもそも知り合ったのは最近で、彼女からも白石さんや猫山さんたちのような共通の友達の話以外の交友関係を聞いたことはない。だから、ボクが知らない彼女の姿だって当然あることも、理解している。……理解している、はずだ。
だけど、あんな風に笑う彼女をボクは知らない。そんなことは当たり前なのに、どうしようもなく嫌だと思ってしまう。
(……ボクといるときは、もっと、)
彼女はもっと、緊張した顔をしていた。いつも少し怯えて、かすかに笑う度に目を伏せていた。彼女が笑ってくれたのだって本当に最近で、だからなるべく傷つけないようにしなくちゃって、ゆっくり信頼して欲しいって思っていた。
でも、それは、ボク以外にもそうだって思っていたからだ。彼女の中にはまだ特別な人間なんていないと、だからまだ大丈夫だと……彼女はきっと誰も好きにならないと、ボクは傲慢にも思っていたんだ。
見たくないのに、知りたくないのに、どうしてか目がそらせない。胸の奥が焼けつくような感覚がして、息苦しかった。
「……ちゃん、晶ちゃん?」
莉菜ちゃんが控えめにボクの名前を呼ぶ声に、はっと意識を引き戻す。ごめんと言えば、彼女はどこか複雑そうな顔をして首を振った。
「じゃあ、晶ちゃん。また明日ね」「うん、また明日。気をつけてね」
ボクは晶ちゃんもと言って電車に莉菜ちゃんが乗り込むのを見届けると、そっと手をおろす。ボクの最寄駅につく方向の電車はまだ少し後だった。
時間帯もあってか人がまばらになったホームのベンチに腰かけると、思い出すのは先ほどの川蝉さんの姿だった。
(ボクの知らない子だった。……あんな風に、笑うんだな)
あのどこか少し怯えたような、けれどもいつも穏やかな柔らかい表情でそれでも優しく笑っていた顔を思い出して、息苦しさで吐き気がしそうだった。
わかっていたはずだ。ボクが彼女を好きなように、彼女にだって好意を持った人だっている。その人の、……好きな人の前でしか見せない表情だってあるだろう。
(……もし川蝉さんに好きだって言ったら、)
彼女は優しいから、きっとあの少し困ったような顔をして俯いてしまうかもしれない。……ボクのことを、怖いと思ってしまうかもしれない。もう、二度と笑ってくれないかもしれない。
(……言えないよ)
傷ついたことも、同じくらい誰かを傷つけたことも、そんな人間が彼女を好きだと言うことを誰にも、……彼女にも、知られたくない。
本当のボクは、もっとずっと弱くて狡いから、そんなボクを彼女に知られて、軽蔑されたり、嫌われたくない。
ずっとこのまま、いい友達でいようって思ってた。彼女にとって怖くない人になれたらって、安心できる人になれたらって思っていた。君が笑ってくれることを知りたいなんて大きなことを言っていたのに、中身は濁って下心ばかりに見えてくる。
(ボクは、どうしたらいいんだろう)
六月特有の少し生ぬるい風が、ボクの髪を少し乱す。そこにはあるはずもないのに僅かに花の香りがした気がして、ボクはなぜだか酷く泣いてしまいたくなった。




