四十二輪
────ら。……きら
「晶!」「え」
不意に自分を呼ぶ声に慌てて飛び起きれば、声の主は部屋の外にいる兄だった。「寝てたのか?」と言う声に慌てて傍に置いてあった携帯を見れば、時刻はもう夕飯の時間だった。
「母さんが夕飯だから降りて来いって」「……あ、うん。ありがとう」
そう言うと、兄は「おー」と言って一階へと降りていく足音が聞こえる。ボクは半分ほど寝ぼけた頭を無理矢理起こすと、小さく欠伸をしてから「うわ」と思わず声を漏らした。
「────スカート、ぐしゃぐしゃじゃん……」
小さくため息を吐くと、急いで制服を脱いでスウェットに着替えてからハンガーに制服を掛ける。皴をパンパンと伸ばしながら、ボクは再度欠伸を漏らした。
何だか酷く懐かしい夢を見ていた気がした。どんな内容なのかはもう覚えていないけれど、きっとそれほど気分が悪くないと言うことはその程度の内容だったのだろう。そんなことを考えて、ボクはもう一度小さく欠伸を漏らした。
「体育祭はどうだった?」
夕飯時、コロッケをつついていたボクに母親がそう問いかけて。それに「すごかったよ、やっぱり中学の時より人が多いんだね」と返せば、隣にいた兄が「どんな感想だよ」と小さく笑った。
「写真部の活動もあったんだろ?」「そう、学校の広報誌とかで使うんだって。でも、プロのカメラマンとかもいたよ」「今は公立の学校だっているだろ」
兄はそう言うと、コロッケを一切れ口に運ぶ。その様子を見ていた父が、にこにこと笑いながら「楽しかったか?」と言った。
どこかこちらを心配するような声色に「……うん、楽しかったよ」と返せば、父は少し安堵したような表情で「そうか」と言って、コロッケを一切れ口に運んだ。心配されているんだな、と感じた途端どうしてか酷く気恥ずかしくなって、ボクも誤魔化すようにコロッケを口に運んだ。
────ボクの家族は、ボクに優しい。父も、母も、兄も、不器用なりにボクを家族として尊重して、大切に思ってくれている。ずっと昔、紫園にそんなことを言われたことをふと思い出す。紫園はそう言うと『だからあたしはアキを見てると安心するの』と笑っていた。それがどうしてなのかは、きっとこの先も解ることは無いんだろうけど。
夕食時につけていたテレビからは、今日の夜のニュースが流れている。それをぼんやりと見つめながら、ボクは今日の彼女の────川蝉さんの言葉を反芻してしまう。
────友だち、ですから
彼女のあの言葉には、嘘偽りなんて何一つ無くて。いつものボクだったらそれが堪らなく嬉しいはずなのに、自分の気持ちに名前がついてしまった今、それを素直に喜ぶことができない自分が堪らなく嫌だった。
(……"友達"になりたかったはずじゃないか、ボクは。……なのに、)
なのに、ボクはいったい、何を勝手に期待していたのだろう────それ以外の言葉なんて、今のボクと彼女の関係に付くことなんてあり得ないのに。
あまりにも身勝手な感情に、ボクは目を伏せて自嘲する。友達になりたかったはずで、彼女と話したかったはずで────念願叶った今、何も望むことはないはずなのに。それなのに、どうしてボクはこんなにも苦しくなってしまうのだろう?
(……でも、こんなことが彼女にバレてしまったら、きっともうこの関係は終わってしまう)
最近、彼女がやっとボクに向けてくれるようになったあの柔らかな笑顔を思い出しながら「それは嫌だなぁ」なんて小さく呟く。やっと友達になれたのに、やっと少し変われそうな気がしたのに、それなのにまたボクの身勝手さで全てを失ってしまうなんて嫌だと、頭の中で我が儘なボクが呟いた。
(川蝉さん、ボクは────ボクの身勝手さを、狡さを、君に知られるのが堪らなく怖いよ)
ボクは自分の後ろめたさを隠すように、コロッケを口に運ぶ。さくりという小気味良い音とは反するように、味がしないコロッケと罪悪感を咀嚼して飲み込んだ。
夕食を終えて自室へ戻ると、ボクはぼんやりと携帯を眺める。SNSで何か呟く気にも作品を作る気にもならなくて、ボクはぼんやりとメッセージの履歴を眺めていた。
(こんな時に"恋人"のような関係なら、きっと気軽に電話できるんだろうけど)
そんなことを考える自分に無意識に頬を熱くしながら、ぼんやりと履歴を眺めて。くだらないことでも何か送る用事が見つからないかとか、でもそんなに頻繁に送ったら迷惑かなとか、そんなことばかり考えてしまって。結局少し悩んでから、ボクは『今日は一緒に写真撮ってくれてありがとう』なんて無難な文面を送ることが精一杯だった。
『よかったら後で写真送ってもいいかな。あと、もしよかったら、』
ボクともまた一緒にお喋りして欲しいとまで打って、そこまでは図々しいかと文面を消そうとした────時だった。
「晶! 風呂!」「うわっ!」
突然ノックされた自分の部屋のドアと兄の声に驚いて飛び上がれば、その弾みで送信ボタンを押してしまって。ボクは間抜けなことに、二重に「うわ────ッ!」と叫んでしまった。
扉の向こうでは、兄が「晶!」と自分の名前を呼んでいて。それに「すぐ入る!」とだけ返して再度取り消しボタンを押そうとメッセージ画面を見れば、そこには既読を示すマークがついてしまっていて。焦る気持ちを落ち着けるように『ごめんいまのじょうだんだから』とまで打っていれば、川蝉さんからは予想外のメッセージが届いた。
『写真、ありがとうございます。とても嬉しいです。あと、』
彼女の送った文面を読んだボクは、まるで自分の頬が火が付いたように熱くなっていくのが解った。
『わたしも、塩瀬さんとお話したいです。また園芸部で、待ってますね』
彼女を表すような柔らかな文面に、心臓が小さく音を立てたのが解った。身体全体が心になってしまったみたいに、どうしようもなく嬉しくて苦しい。彼女の言葉一つでこんなに自分が見ている世界が変わってしまったみたいに、彼女の存在ひとつにどうしようもなく一喜一憂している。そんなことが、たまらなく苦しくて嬉しい。
指先で触れた自分の脈が、どうしようもなく早かった。ボクはそれを誤魔化すようにくしゃりと髪に触れると、着替えを持って風呂場へと向かう。
そんな風に言って貰えるのなら友達でもいいかなんて。そんな現金な自分にほとほと呆れてしまいながら、ボクは彼女に対して生まれた小さな恋愛感情が次第に膨らみ始めているのを感じていた。
────ああ、どうか。いまはまだ、"よい友だち"のままでいたいよ。
胸の奥深くで小さく咲いた花が枯れないように、今はまだ君にこんなボクはどうか隠したままでいさせて欲しい。こんな気持ちを君に知られたら、きっとボクたちの関係も変わってしまうかもしれないから。
ボクは芽吹いた気持ちに土をかぶせる様に小さくため息を吐くと、『うん、おやすみ』と返して携帯の電源を落として風呂場へと向かう。熱い頬が少しでも誤魔化せればいい、なんて思いながら。
────体育祭が終わると、学園に流れていたお祭りムードは一気にまるで夢の中のように消えてしまって。その代わり、学園には夏休み前に行われる期末考査への雰囲気が流れていた。
ボクは今日から六月かとぼんやりと思いながら、七月中旬に行われる期末考査へ向けて少しずつ頭を切り替えていく。とは言え、彼女────川蝉さんのことを考えてしまう日も、あるにはあったのだけれど。
「今日から六月かぁ~、あんまり実感わかないねぇ」「そうだね、体育祭があったって言ってもついこの間のことだから。まだちょっと、お祭り気分は抜けないかな」
そんなことを莉菜ちゃんに言えば、彼女はへらりと笑うと「だよねぇ、私もそうだよ」なんて言って照れ臭そうに頬を掻く。その様子はいつもの彼女で、ボクは体育祭で見た時の雰囲気が彼女に残っていないことに心の中でそっと安堵した。
お祭り気分が抜けきらないのは他の生徒も同じようで、学園にはまだ少し浮足立ったような雰囲気が残っていた。体育祭で活躍を修めた生徒が校舎裏で告白されているのを何度か見かけるくらいには皆浮足立っていて、かく言うボクもその中の一人だった。昨日、川蝉さんとメッセージをしてからと言うもの彼女のことをふとした瞬間に考えてしまうくらいには、ボクは浮足立っていて。けれど、それを誰かに悟られないように必死に隠していた。彼女から貰ったメッセージを、つい反芻してしまうくらいには。
────また園芸部で、待ってますね
彼女のそんな言葉がどうしようもなく嬉しかったのは、少なくとも園芸部が彼女────川蝉さんにとって、大切な場であることを彼女と関わった二ヶ月間の中で、僅かながらに理解していたからで。そんな大切な場所で、自分を待っていてくれると言ってくれたことが酷く嬉しかった。
窓の外には六月の夏の澄み切った青空が広がっていて、園芸部が丹精込めて育てていた色とりどりの花が夏の始まりの風に揺れて咲いている。彼女が一生懸命水やりをしていた花だ、なんて思いながら、今度聞いてみようかななんて考える。川蝉さんは花言葉にも詳しいから、何かあの花にも意味があるのかもしれない。そんなことを考えていれば、ふと以前彼女に聞いたシオンの花言葉を思い出してしまう。
(……シオンの花言葉は"あなたを忘れない"だって、言ってたな)
それを伝えれば"彼"は────"乙木 晶"は、ボクがそれを聞いてどう思ったかを尋ねていたけれど。それにうまく言葉を返せなかったのは、彼に対するどこか反抗的な気持ちだけが理由では無かった。
(……怖いんだ、ボクは。このままシオンの花言葉について深く考えていたら、何か良くないことが起こりそうな気がして)
だから、知らないふりをして逃げたのだ。シオンの花言葉も、彼のことも────どうして、彼がボクを嫌っているのかも。深く向き合えば、きっと自分が傷つく結果が訪れるのだと本能的に解っていたから。
(……ずるいよな、ボクは)
小さく吐いた溜め息は予想以上に大きかったようで。前の席に座っていた莉菜ちゃんには「どうしたの?」なんて心配をかけてしまって。それに「何でもないよ」と返すことが、今は精一杯だった。
紫園のことを蔑ろにするつもりはなかった。ボクが彼女を傷つけたことは忘れないでいないといけないと思っていたし、だからこそ、もう恋なんてしないつもりだった。けれど、川蝉さんに出会って彼女のことを少しずつ知るたびに、その優しさや穏やかさに少しずつ惹かれていく自分がいるのも事実だった。それが自分の気持ちを慰める優しさを求めた末の"恋"なのだとしても、彼女を知りたいと言う気持ちにも、彼女ともっと一緒に時間を過ごしたいと言う思いにも何一つ嘘はなかった。それでも時々彼女が純粋な友人に対する好意を向けてくれる度に、そんな彼女に恋愛感情として好意を持つ自分が酷く浅ましい生き物のように思えて、そんなことが少し苦しいこともまた、変えようがない事実だった。
"早く会いたい"なんて、そんなことを思ってしまう自分が、まるで違う生き物になってしまったような錯覚さえ覚えてしまう。彼女に対して良い友人でいたいのに、彼女に信頼される人間でいたいのに、彼女に対する一方的な恋愛感情が『友人になりたいボク』の首を絞めていく。そんなことが、少し苦しかった。
────あたし、アキが大嫌いよ
ふと最後に紫園に言われた言葉を思い出して、小さくため息をつく。同じ言葉を彼女に言われたら、今度こそ自分は立ち直れないような気がしていた。
(……川蝉さん、ボクは、君が好きだよ)
窓の外では、青い若葉が風に揺れている。ほんの少し高くなった気温が、少しずつ季節が変化していくことを告げていた。
(────ごめんね)
────今年も、夏が来る。




