四十一輪
コツコツとローファーが道路の上を歩く音が聞こえていた。休日という事もあって駅前の人通りはいつもより多くて、ボクは無意識に俯いてしまったことで前下がりに滑り落ちてくる自分の髪を指で掬うと耳に掛ける。ほんの少し熱を持った頬に冷たい指が柔く触れた。
泥の固まりを引きずっているみたいだった。先程までの星花での騒ぎが夢のようにぽっかりと穴が空いたような気持ちになって、そんなところは何も成長してないだなんて自分に呆れてしまう。
(……紫園のわけない。紫園がボクに声を掛けてくるなんて、そんなことあり得ない)
鈍く痛む心臓と罪悪感から逃れるように思わずぎゅっと唇を噛めば、表面の薄い皮が切れて鉄の味が広がってゆく。そんな自分の行動が、まるで被害者ぶるようで狡く思えた。
薄い紫色のスカートだって、アキと言う名前だってどこにでもある。名前を呼ばれることも、知らない人が間違えることも。それに勝手な理由をつけて、勝手に傷ついているのはボクのほうだ。
これが勝手な被害妄想にしかすぎないことを、ボクはちゃんと解っている。彼女がボクのことなんて覚えていないであろうことも、勝手な罪悪感でボクがボクの首を絞めているだけだということも。それでもそんな些細なことに過敏に反応してしまうのは、ボク自身が彼女に────川蝉さんに惹かれていることに、どこか後ろめたい気持ちを持っているからなんじゃないだろうか。
────アキ
聞こえるはずのない聞こえた声を、頭の中から締め出すように片耳を塞ぐ。耳輪に爪が食い込んで、耳介は少しずつ熱を持って行く。そんなことが、どうしようもなく馬鹿馬鹿しい。
ボクの背中に紫園がいたらと思うと、怖くて振り向くことができない。彼女を傷つけた浅ましい自分を思い出したくはない。……そんな自分を自覚してしまえば、胃の底から強烈な不快感が襲ってくる。気に入らない形を無邪気に作り替えた幼い頃のように少しずつ自分が変わっているのが解るのに、それを望んでいたはずなのに。なのに、この言い知れようのない気持ちは何なんだ。不安で、怖くて、痛くて、申し訳なくて、なのにどうしてこんなに逃げ出したいと思うんだろう。何がこんなに怖いのだろう。好きなら、愛情を持っているのなら、変わりたいと心の底から願っていたのなら、こんなに彼女を怖いと思わないはずなのに。
(紫園じゃない。紫園がここにいるはずがない。紫園はもういない。紫園はもうどこにもいない────だって、ボクを捨てたのは紫園なんだから)
────アキ
不意に後ろから聞こえた彼女の声に、小さく肩が震えるのが解った。後ろにいないことなんて解っていて、これが被害妄想であることも解っている。わかっているのに自責の念は消えなくて、そんなことがどうしようもなく苦しい。
彼女の声が、鼓膜に、脳に貼りついて消えない。罪悪感が喉を絞めてゆく感触が消えない。彼女がいなくなった時の喪失感が消えていく。彼女がいない思い出が増えていく。川蝉さんに対する思いが増えていく────じゃあ彼女が恐怖の対象になってしまったのは、いつから?
ぐ、と胃のあたりに湧きあがる自分自身に対する不快感に、酷く吐き気がする。どうにかしなければいけないのに、どうにもならない。そんなことが、酷くどうしようもないだなんて思う。
────アキはあたしのことが大好きでしょう?
────あたし、アキが世界で一番好きよ
────アキはあたしのものでしょう?
(……違う。違うんだよ、紫園。君がボクのものにならなかったように、誰も誰かのものにはなれない。君だけじゃない世界をボクはもう知ってしまった。知ってしまったボクはもう知らなかったボクにはなれない)
白い絵の具に一滴でも他の色が混ざればそれがもう白とは呼べないように、星花女子学園に通うボクは彼女しか知らなかった中学生のボクに戻れることは無い。彼女を────川蝉さんを知りたいと思う前のボクにはもう戻れないように、紫園を好きだったボクにも戻れない。それがどうしようもなく申し訳なくて、安心して、そしてどうしようもなく、苦しい。
(……ボクは臆病で嘘つきだ。本当のことはいつも隠してばかりで、その癖気付いて貰いたいように弱った表情なんかして。これじゃ、嫌われたり疎まれても当たり前だ)
自嘲気味に心の中で呟いた言葉は、酷く重さを持って心の奥に沈んでいく。唇を噛めば、表面の薄皮が切れて口内に鉄の味を滲ませた。
誰もが誰かを傷つけているからと言って、それが人を傷つけて言い免罪符にはならないし、ボクが彼女を傷つけていたことは変わらない。彼女に傷つけられたことは、彼女を傷つけて言い免罪符にはならない。
頭の中で、もう一人のボクが「自惚れるな」と囁く。人を傷つけた自分が幸せになることなんて出来ないんだよと言う声が、ボクの思考を雁字搦めにしている。
川蝉さんのことがもっと知りたい。もっと彼女に笑っていて欲しい。彼女の好きなものを知りたい。彼女の趣味を知りたい。……だけど同じくらい、彼女に自分を開示することが怖くて仕方がない。自分の醜さや浅ましさを、彼女に知られたくはない。偽物だって良いから、彼女の目に映るボクだけは、臆病で優しい"橘紫園も手が届かない塩瀬晶"であって欲しい。人を傷つけるような浅ましいボクではなくて、何も後ろめたいことのない真っ当な人間として彼女を好きになっていたかった。……本当はそう言う人間こそ、彼女と友人になるべきだったのに。
知りたいけれど知られたくはないなんて感情が、狡いことなんて解っている。ずっとこのままの関係でなんていられないことくらい、ちゃんと理解している。────だけど、
────友だち、ですから
昼休みに川蝉さんに言われた言葉を反芻して、ボクは小さくため息をついてしまう。あれが少なくとも互いに生まれた小さな信頼感から出た言葉だと言うのは、ちゃんと理解していた。理解していて、けれどそれに傷つく自分が浅ましくて。でも、じゃあどんな言葉を望んでいたのかと言われると、それはそれでわからない────そう考えて、わからないことばかりだなんて、小さく自分に苦笑した。
心臓がきゅっと痛んで、思わず左胸の辺りを抑える。シャツにシワがよって、それがまるで今のままならない現実を表しているように思えた。
「ただいまー……」
玄関のドアを開ければ、リビングはしんと静まり返っていた。今日は休日だから買い物にでも行ったのだろうと思って、思わずほっと息を吐く。今の状態で平静を装って家族に接するのは、出来ないような気がしたから。
ボクは玄関の鍵を施錠すると、そのまま洗い物を洗濯かごに放り込んでから、荷物をもって自室へと向かう。自室のドアを閉めると、そのままぼふりとベッドへ倒れ込むように横になった。
(……疲れた)
横になると、途端に瞼が重くなってくる。次第に下がっていく瞼に「制服、着替えなきゃ」なんて思いながらも、落ちてくる瞼には抗えなくて。ボクは小さく息を吐くと、そのまま微睡みの中へ落ちていく。川蝉さんと話したときのような、妙な優しい気持ちが酷く心地よかった。
────夕暮れの図書室で、ボクは誰かと話をしている。来年度からバーコード化されるからと、図書委員になった生徒はぶつぶつと文句をいいながら本の背表紙にバーコードを貼っていた。
その日はたまたま、紫園が体調を崩して委員会に出席できなかった日だった。委員会で配られたプリントを彼女に届ける用事があったから、早く帰りたかったのを覚えている。
────でも、返却していない人がすぐにわかるのは良いことだよね
目の前の彼はそんなことを言いながら、バーコードが貼られた本をチェックしていく。そうかもしれないね、と答えた自分の声はどこか現実味がなかった。
窓の外では、青い若葉が柔らかく風に揺れていた。遠くからはサッカー部の声が聞こえていて、彼女はまた一人で寝ているんだろうなとぼんやりと考える。早く終わらないかなと言う自分の考えに、結局ボクも自分勝手なのは変わらないかと苦笑した。
何故だかこの日は、早く彼女に会いたくて堪らなかったことを覚えている。特別な何かがあった訳ではないけれど、学校を休んだ彼女にクラスで起きたつまらない話や、先生のくだらないギャグの話をしてあげかった。彼女が元気になったときに、話題についていけなくて孤立することがないように。
そんなボクの思いを裏切るように委員会の仕事は終わらなくて、ボクはつい愚痴を共有するように前に座る彼に「早く帰りたいね」と言ってしまったのだ。
────返却も楽になるかな
ボクがそう言えば、"彼"はずれた眼鏡をあげると本に視線を落としたまま「なるよ」と短く答えた。「覚えるまで大変だろうけどね」と続けた"彼"の言葉に思わず「えー」と不満をあげれば、"彼"はくつくつと猫のように喉を鳴らして笑った。
────塩瀬は何で図書委員になったの?
────友達がなろうって言ってたから
────友達? 誰?
意外そうな声でそう尋ねた彼に「何で言わなきゃいけないんだ」と白けた目で見れば、"彼"は「興味本位だよ」と言って首を竦める。そう言えば昔から、"彼"はどこか食えない人間だった。
ボクはしばらく考えてから、ぽつりと「……紫園」と呟くように口に出す。途端に熱を持った頬を誤魔化すように俯けば、前からいぶかしげな声で「────シオン?」と言う声が聞こえて。驚いているような声に顔を上げれば、"彼"は僅かに目を見開いていた。
────シオンって、
────え? た、橘 紫園だけど。図書委員の
今度はボクが訝しげにそう言えば、"彼"は少ししてからはっと意識を引き戻して。「たちばな……橘、ね」とまるで自分に言い聞かせるように繰り返すと、取り繕うようににこりと笑った。
────ごめん、橘、今日休んでたよね。心配だね
"彼"はそう言うと「手が足りてるみたいだし、僕たちは本を片付けようか」とバーコードのついた本を持つ。同じようにボクが本を持って着いてくるのを横目に見ながら、書棚へと歩いていった。
────僕にもいるんだ、シオンって名前の知り合い。だから、ちょっとさっきはびっくりして。橘の話なんだから、そんなわけないのにな
"彼"はそう言いながら、書棚に本をしまっていく。ボクも『い-65』と書かれた本を同じように書棚に戻しながら「そうなんだ」と返す。埃の匂いと古い本の匂いが混じった図書室に、本の背表紙どうしが微かに擦れる音が聞こえた。
ボクたちはそのまま、暫く無言で書棚整理をしていて。すると突然、「あ」と小さな声が聞こえた。
────ねぇ見て、塩瀬。花言葉辞典だって
こんなの借りる子いるのかなと呟いた彼に、ボクは素っ気なく「さぁ」と答える。そんなボクの言葉なんてお構いなしに、"彼"はペラペラと本のページをめくりながら、「花言葉って結構あるんだね」とのんびりと答える。
────僕の名前に似てる花の花言葉は"迷信""裏切り""恨み""敵意"……ろくな意味がないね
まぁ、僕にはぴったりなのかもしれないけど、と"彼"は苦笑すると、次のページをペラペラとめくる。そしてぴたりと動きを止めると、小さく笑った。
────ねぇ、塩瀬。君と僕に馴染み深い花言葉があったよ
"彼"はそう言うと、本のページをこちらに見せてくる。ボクは本を戻しながら横目でそちらを眺めれば、本のページには"シオン"と書かれていた。
────"シオン"の花言葉は、"あなたを忘れない"だって。……僕の花言葉と、いい勝負だと思わない?
────なんで? 優しくていい言葉だと思うけど
"彼"の言葉はまるで紫園を馬鹿にするようにも聞こえて、それが少し不愉快だったことを覚えている。だから、わざと反論するように彼の言葉に異を唱えれば、彼は面白そうにくつくつと喉を鳴らして笑った。
────だって、これって"呪い"だろ。恨みでもなきゃ、こんな言葉は言わないよ
忘れるから人は生きていけるし、忘れられるから人は変われるのに、それすらも許されないなんて呪いでしかないよと彼は笑う。不愉快だと思いながら書棚の整理を続ければ、不意に「────ねぇ、塩瀬」と名前を呼ばれる。
────僕はきっと、君を忘れないと思うよ
顔も録に思い出せやしないのに、夕暮れの図書室とその言葉だけが、やけに耳に残っていた。




