四十輪:オトギリソウ/乙木 晶
階段下で待っていると、とんとんと肩を叩かれて。そちらに視線を向ければ、先程まで一緒にいた彼女────橘さんが、長い髪を鬱陶しそうに耳に掛けながら戻ってきていた。
「何か面白いものでもあった? 橘さん」
読んでいた文庫本から目を離さずにそう問えば、彼女は「別に」と小さく呟く。珍しくいつもより楽しげな様子に視線だけを上げて「デート、そんなに面白かった?」と笑いを含めて尋ねれば、彼女は「馬鹿なこと言わないで」と吐き捨てるように呟く。
「デートじゃなくて偵察」「あぁ、そう? それは残念」
くすくすと軽く笑いながらそう言えば、橘さんは酷く嫌そうな顔で僕を見て。その顔を塩瀬にも見せれば良かったのにと思いながら、読んでいた文庫本をパタリと閉じて、探るように「で?」と聞き返す。
「で? 塩瀬は元気だった?」「……見てたの」
嘘に気づかれたせいか、それとももともと僕自身に関心が無かったからか、彼女は少しばつが悪そうに目を伏せて。その様子にやっぱり会ってたのかと思いながら、「いや?」と返す。
「君が興味を持つのは、いつも彼女のことだけだから」「……余計なお世話ね」
橘さんは苛立ったようにそう呟くと、小さくため息をついて。それから、いつもより少しだけ柔らかく笑った。
「……腹が立つくらい元気だったわ、あの子。幸せそうな顔で寝てたけど……ふふ、でもあたしが名前を呼んだら勢いよく起き上がって」
そう言うところは変わらないのよと、橘さんはまるで昔を懐かしむように目を伏せる。慈愛にも似たその表情にどうしてか苛立ってしまった。
全部終わってしまえばいいのにと願う自分と、もっと長く時間を掛けて塩瀬を傷つけてやりたいと願う自分がいる。悪意と言うにはあまりにも歪んでいて、けれど明確な殺意と言うには優しすぎるそんな感情を、近頃の僕は少しだけ持て余していた。
そうと呟いた自分の声が酷く冷たく聞こえた。一瞬だけそんな自分の声に驚いたものの、橘さんの前では別に要らないかなんて思い直して文庫本を閉じれば、橘さんは一瞬だけ意外そうな顔をしてその薄く形の良い唇を動かすも、思い直したように何も言わずに口を噤む。そんな聡い所は、あまり紫音さんには似ていなかった。
「じゃあ、君も楽しい一日になったようだし帰ろうか。……橘さん、送っていくよ」
彼女とともに駅構内の階段を降りながらそう言えば、橘さんは少しだけ考えるように目を伏せてから「……そう、どうも」と小さく呟く。それに小さく苦笑して、彼女の歩幅に合わせながら「良いよ」と続ける。
「だってボクは、塩瀬晶の身代わりなんだから」
僕も君を利用しているんだから君も僕を最大限に利用すればいいよと続ければ、彼女は少しだけ微妙な表情をして。それから何か言いたげに口を動かすも、諦めたように小さく溜め息をつくと「そうね」と呟いた。
彼女の自宅の方向へ向かって行く間、彼女は酷く口数が少なかった。愛想が悪く口数が少ないのはいつものことだけれど、今日はやけにそれが顕著で。けれど「具合でも悪いの」と尋ねれば「別に」と素っ気なく返される。それ以上何かを聞く気にもならなくて、僕は「そう」とだけ返すとまた彼女から視線を逸らした。
夕方を告げる鐘の音と子供の声が乗った放送がどこか遠くから聞こえていた。もうそんな時間かと思いながら横目で橘さんを見れば、彼女は相変わらず無口なまま表情を強張らせながら何かを考えるように俯いて。何か声を掛けようかと口を開いたものの、別に今は紫音さんじゃないかと思い直して口を噤む。僕だってアキではないのだから、そんな相手に気遣われたって不愉快だろう。そう思いながら、橘さんの自宅がある住宅街の中を歩いていた────時だった。
「……ねぇ、乙木君」「……どうかした、橘さん?」
不意に、酷く静かな彼女の声が聞こえた。少し掠れたその声に返事をすれば、彼女は俯いたまま酷く小さな声で呟いた。
「────あたし達、なにも間違ってないわよね」
投げかけられたその言葉に一瞬だけ息が止まってしまったのは、彼女がそんなことを言い出すとは思わなかったからで。内心酷く戸惑っている自分の気持ちを彼女に悟られないように抑えながら「どうかした?」と彼女に笑いかける。
「どうかした? 橘さん」「……別に、気になったから聞いただけよ」
横目で橘さんを見ながらそう問いかければ、彼女から返ってきたのは予想通り面倒臭そうな言葉で。やっぱり何かあったんだなと思いながら小さく溜め息を吐けば、彼女は一瞬だけぴくりと肩を動かした。
「君はどう思う? 橘さん」
足を止めて彼女の目を真っ直ぐ見てそう問いかければ、彼女はぴくりと肩を微かに跳ねさせて黙り込む。肝心なところで黙ってしまうのは、紫音によく似ていた。
五月の終わりの風が、柔らかく僕と彼女の髪をそっと乱す。それに小さく息を吐きながら、「橘さん」と宥めるように小さく呟いた。
「何も間違ってないよ、橘さん。少なくとも僕のなかでは」
彼女を宥めるように出来るだけ優しくそう言えば、彼女は一瞬だけぴくりと肩を震わせてから、「そうよね」と安心したように短く息を吐いた。
「……そう、よね」「そうだよ、失くしものを探すのと同じことだ。自分のものが、ちょっとした不注意でなくなってしまって、それが見つかったから取り戻そうとしているだけ」
ね、何も間違ってないだろ? と彼女に対して出来るだけ柔らかく話しかければ、彼女は「そう、そうよね」と自分に言い聞かせるように小さく呟くと、長くて深い溜息を吐いて。それから安心したようにそっと笑った。
「……ごめんなさい」「ううん、君の気持ちはよく解るよ。同じだからね」
意識的にそう微笑めば、橘さんは「そう」とほっとしたように微笑んで。「送ってくれてありがとう」と、彼女にしては珍しく柔らかく笑った。
「良いんだよ。じゃあまた明日、橘さん。明日は学校だからね」「解ってるわよ。……また明日、乙木君」
安心したように笑う橘さんに意識的に笑いかけると、彼女に小さく手を振って自宅方面とは反対側へ歩いて行く。ある程度彼女の自宅から離れてから、先程からずっと点滅していた携帯電話を見れば、そこには『紫音さん』と言う名前が表示されて。優越感と背徳感と愛情が混ざったような酷く不思議な感情を抱えながら通話ボタンを押せば、そこには予想通りぐすぐすと鼻を鳴らす『紫音さん』の声があった。
「もしもし、紫音さん?」『────晶くん』
ぐすぐすと言う鼻をすする音に混じって、『紫音さん』の甘えるような声が聞こえる。それに表しようのない優越感を感じながら「電話に出られなくてごめんね。どうかした?」と言えば、『紫音さん』は『晶くん、今お家?』なんて呑気なことを尋ねてくる。
「僕? ごめん、今ちょっと出かけてて」『そう、なの。ごめんね、邪魔して』
ぐすぐすと相変わらず鼻を啜りながら言う彼女の声に、内心「悪いなんて微塵も思ってないくせに」と悪態をつきながら「良いんだ、紫音さんと話せて嬉しいから」と言えば、彼女は酷く嬉し気に『本当? 嬉しい』なんて呟く。酷く呑気なその態度に僅かな苛立ちさえ感じながら「どうかしたの?」と尋ねれば、彼女は一瞬だけ迷ったように言葉を濁してから、囁くように魔法の言葉を口にする。
『────晶くん、ちょっとお話聞いてくれる?』
甘えて媚を売るようなその声に、優越感と苛立ちと焦燥感が混じったどす黒い感情が顔を覗かせる。それでも、この女は────紫音さんは、僕が断れないことを見越しているのだから本当に質が悪い。
僕は小さく息を吐くと「良いよ」と出来るだけ優しく囁くように答える。「ごめん、今ちょっと出かけてるから、家に帰ったらまた掛け直す」と言えば、彼女は酷く安心したように「待ってる」と答えた。
『ありがとう、晶くん。晶くんがいてよかった』
安心した子供のような声で彼女はいつもそう言って笑う。僕がどんな思いで話を聞いているのかなんて露知らずにただ純粋に僕の善性を信じて、そうしていつも無邪気に僕を傷つけるのだ。
酷い女に捕まったなと思う。浮気性の恋人を健気に待つ女なんて、この人はそんな可愛らしい人じゃない。だけどそれが解っているのに逃れられないのは、きっとあの人が僕を傷つけた分だけ僕に優しくて弱い人だからだ。
僕は紫音さんからの電話を切ると、自宅方面へ向かって走る。スニーカーの底がアスファルトと擦れて、ジャリッという音を立てた。
「────うん、うん。それは辛かったね」『ん……でもね、陽には私がいないと駄目だし、私にも陽がいないと駄目なの。陽もよく「お前は俺がいないと駄目だ」って言うし、私もそう思うの』
紫音さんはいつも、既に自分の中で答えが出ている話を僕にする。答えが欲しいと言うよりは、ただ誰かに話を聞いて、肯定して欲しいんだろう。それも同性ではなく異性に。
だから彼女はこうして、自分に自信が無くなった時に僕に電話を掛けてくる。自分の自尊心を満たすために、優越感を感じるために。
「そうだね。陽のことを理解しているのは紫音さんしかいないよ。だって紫音さんは、陽の浮気相手の何倍も陽と一緒にいるもんね」『そうでしょ? ……晶くんは良い子ね。いつも私のことをわかってくれる』
どろりと粘つくような甘い声に、自分の小さな優越感が満たされてゆくのを感じる。純粋すぎるほどの幼い考え方と、いつもこうして話の合間に僕を褒めてくれる彼女が好きだった。
「そんなことないよ、僕は紫音さんに褒めてもらえるような良い人じゃない」『そんなことないよ。晶くんはいつも優しくていい子だよ』
心の奥のずっと満たされない部分が彼女の言葉で静かに満たされてゆくのを感じた。浮気性の彼氏で満たされない心を、その弟と身代わりのように話すことで満たすような酷い女。それなのに逃げられないのは、きっと僕も彼女に求められることに救われているからだ。
僕は電話口で徐々に明るさを取り戻してゆく紫音さんに小さく笑いながら「ありがとう」と返せば、彼女は『私こそだよ』と言って。それから、『晶くん』と柔らかく名前を呼んだ。
『────優しい晶くんが好きよ』
予想していなかった言葉に、自分の喉がこくりと鳴った音が聞こえた。それを誤魔化すように小さく咳払いをすると「ありがとう、……僕も好きだよ」と返して。承認欲求が満たされたからか、それとも一方的に話してすっきりしたからか、紫音さんは『じゃあ、また今度ね』と言って電話を切る。それを名残惜しいと思う自分が、酷く惨めに感じた。
────紫音さんが電話を切ると、僕は暫くの間 機械的な通話音をぼんやりと聞いていて。思わず呟いた自分の言葉に、つい苦笑してしまった。
「────酷い女だな、あの人」
僕は深々と溜息を吐くと僅かに俯く。カーペットの微かな汚れが、やけに目についた。
彼女と話すときはいつだってそうだ。利用するだけ利用して、自分が満たされれば去ってゆく。だけどその自分勝手で奔放な性格は僕が一生かかっても手に入れられないものだという事も、頭のどこかで理解していた。それゆえに強烈なくらい彼女を好きになってしまうのだという事も。
僕は通話アプリを閉じるとそのまま携帯のSNSのアプリケーションを起動して。そこに映る『Aki』と言う文字と、彼女とやり取りしたメッセージの履歴をスクロールして小さく笑って人差し指でコンと弾いた。
「……君は良いよな、塩瀬。なにも努力しなくても、生きているだけで人に好かれるんだから」
優等生じゃなくても、優しくていい子にならなくても、赤の他人になりきらなくても。ありのままで人に肯定し好いて貰える。嫌になるくらいに人に好かれた、紫園の王子様。橘さんは塩瀬が戻ってくることを夢見ているみたいだけど、その可能性は低いだろうな。環境が変わればたいていの人は好意を持つ対象が近くにいる人に変わるだろうから。
────ボク、何か君に嫌われるようなことをしたのかな
不意に、あの時の塩瀬の言葉を思い出して。せりあがるような強烈な怒りに身を任せるようにして携帯を投げれば、黒い携帯電話は部屋の白い壁紙にぶつかって嫌な音を立てるとそのまま床に落ちる。後で携帯を拾う自分の姿を情けないと思いながらも、まるで化け物のように自分の中に燻ぶり続ける強烈な怒りと不快感に、息も出来ずに膝を抱えて俯いた。
(……違う。君は僕が君を嫌いそうなことなんて何一つしていない。君はいつだって正しくあろうとしていたし、誰にだって親切だった。君は覚えていないだろうけど、僕に親切にしてくれたことだってある)
喉が少しずつ真綿で締め付けられてゆくような、酷く不快な感覚が喉を絞めつけた。宥めるように何度か深呼吸を繰り返してから、つい小さく舌打ちをする。
(だから君がどうしようもなく憎いんだよ、塩瀬。僕の欲しいものを何でも持っているのに、君が嫌になるくらいに人に好かれるような人間だから。君を見ると自分が酷く醜い人間になったみたいで、酷く腹が立って惨めになるんだ。……自分が恵まれていないことを、君に見せつけられているみたいだから)
純粋で、無神経で、なのに人に好かれる君が憎くて仕方がない。君が当たり前に持っているものを、こっちがどれほど血の滲むような思いと努力でやっと手に入れているなんて、きっと君は知らないんだろう。僕や橘さんみたいに周りの人間に恵まれなかった人が、それを失うことがどれほど怖いことなのかも。
これは単なる逆恨みに過ぎないと頭の中で冷静な僕が呟く。そんなことは解っていると膝に額を押し付けた。
恵まれた家庭環境ではないことを、生まれてから他人に『自分』として愛されなかったことを運と片付けてしまえばそれまでなんだろう。だけど僕はずっと、他人に愛されることを、家族に恵まれることを諦めきれないでいる。中学時代からずっと、塩瀬のように人に愛されることをどうしても夢見てしまう。彼女のように授業参観に母親や父親が来たり、運動会に忙しい両親に変わって兄が来るような、そんな普通の家庭に強烈に憧れてしまうのだ。
それでも、ずっとうまく呼吸が出来なかった僕が、君を恨んで傷つけることでやっと人並みに呼吸が出来るようになった。スタートは同じ人間だったはずなのにって、君だけが愛されているなんて狡いって、不公平だって君を恨むことで僕は確かに救われている。
だから、僕はもっと君を傷つけていたいんだ、塩瀬。安全圏から君を傷つけて、君を恨んで羨んでいたい。もっと、もっと、もっと、もっと、どうしようもなく歯止めが効かなくなるくらいに。
────あたし達、なにも間違ってないわよね
不意に橘さんの不安げな声を思い出して思わず苦笑する。何でこんな時に思い出すのが紫音さんじゃなくて君なんだろうと思いながら、細くて重い溜息を吐いた。
「────間違ってないって思いこまなきゃもうまともじゃいられないんだよ、橘さん」
視界の先で黒い携帯電話の画面が光る。そこに映し出された『橘 紫園』と言う名前をぼんやりとした視界で捉えると、情けなく携帯電話を拾うためにベッドから降りて応答ボタンを押す。
「……はい、どうしたの? 橘さん」
出来るだけいつもと同じ態度と声色を装ってから、努めて明るく返答をする。こんなところは君に────橘さんにだけは見られたくないだなんて。そんなつまらないことを、どうしてか考えてしまった。




