三十九輪
応援席で川蝉さんたちと別れた後に午後の競技のために自分の席に座ってカメラをいじっていれば、ふと隣に影が出来た。莉菜ちゃんかなと顔をあげれば、そこに立っていたのは予想通り穏やかな表情で「ただいま」と笑う莉菜ちゃんと、対照的に酷く不機嫌そうな表情をした高野さんだった。高野さんからは以前かなり嫌われてしまっていたことを思い出して、酷く気まずい気持ちで「お帰り」と言えば、高野さんは不機嫌そうな顔をしてから「莉菜、あたし行くわ。帰りにまた迎えに来るから」なんて言ってさっさと行ってしまう。その後ろ姿を見送りながら「どうしたものかな」と内心ため息をつけば、莉菜ちゃんは「ごめんね」と言って苦笑する。
「ごめんね、由里ちゃんに後で言っておくね?」「はは、何で莉菜ちゃんが謝るの?」
高野さんなりに色々あるのかもしれないし、ボクは気にしてないから大丈夫だよと返せば、莉菜ちゃんは少しだけほっとしたような、それでいて少しだけ残念そうな表情で笑う。それに曖昧に笑い返せば、莉菜ちゃんはボクの隣に腰を下ろして、あのあどけない笑みで柔らかく尋ねる。
「……ね、晶ちゃん。お昼、どうだった?」「どうって……あぁ、楽しかったよ。また皆で一緒に食べようって、声かけて貰えて」
社交辞令かもしれないけどねと苦笑すれば、莉菜ちゃんは「そ」と短く答えて。いつもよりもほんの少し冷たく聞こえるその言葉に一瞬だけぎくりとすれば、莉菜ちゃん自身も少しだけ自分の言葉に驚いたように軽く口元を抑えると、「そ……んなことは、無いんじゃないかな」と言って柔らかく微笑む。妙な緊張感を打ち消すように「そ、そっか」と返せば、彼女は「ん」と短く答えた。
ほんの少し気まずい沈黙が漂うボクたちとは対照的に、応援席には徐々にクラスメイトが集まって騒がしさを取り戻していた。空席が埋まり始めた頃、「点呼とるぞ」と言ってボクたちのクラスの担当教員が、心なしか面倒そうな表情で名簿を片手に点呼を取り始めて。全員が集まっていることを確認すると、再び面倒そうに名簿を片手に持ったまま教職員テントへ戻ってゆく。
『────それではただいまより、午後の部を開始します。……の競技は……』
全学年が無事に点呼を終えたことを確認したのか、生徒会から午後の部の競技開始が伝えられる。ノイズ混じりのその音声にカメラバックからカメラを取り出せば、莉菜ちゃんは「撮る?」とこちらを見て。それを見て「うん」と返せば、彼女は「そっか」と言って柔らかく微笑んだ。
「ね、晶ちゃんってどんな写真撮るの?」「どんな……普通の写真だよ。出来るだけ多く枚数を撮ってって言われてるから、目についたものはどんどん撮るようにしてるんだ」
そう言って莉菜ちゃんに画面を見せれば、莉菜ちゃんは何枚か写真を見て「私にはあんまりよくわからないけど、すごいね」なんて言ってくれて。その穏やかな表情にほっと肩の力を抜くように「ありがとう」と返せば、彼女は「ううん」と返すと、先程よりも表情を幾分か和らげて微笑んだ。
「でも、晶ちゃんが川蝉さんたちと、もうそんなに仲良くなってるなんて知らなかったな」
教えてくれれば良かったのにと言う言葉に「ごめん」と言えば、彼女は「ううん?」と言って、視線をグラウンドの方へ向ける。その視線につられるように視線を向ければ、グラウンドには三組に所属する国民的アイドルの美滝さんや柳橋さんたちが立っていて。美滝さんはボクの姿を見つけると、ぶんぶんと大きく手を振ってくれて。それが嬉しくて小さく手を振れば、他の応援席から「ゆりりーん!」と言う声が上がっていた。
「晶ちゃん、ゆりりんとも仲良しなの?」「ボクが仲良しなんておこがましいよ。向こう……美滝さんが、いつもボクを見かけると声を掛けてくれるんだ」
少し照れくさくて小さく笑えば、莉菜ちゃんは「そう」と言って美滝さんの方を見る。ボクもつられてそちらを見れば、美滝さんの他にも白石さん、猫山さん、川蝉さんとよく美滝さんと一緒に見かける面々が集まっていて、それを不思議に思っていれば莉菜ちゃんは「同じクラスの仲が良いを誘って同じ競技に出たんじゃないかな。仲が良い子と出た方が楽しいもんね」と言って小さく笑う。そんなものかと思いながら「そうなんだ」と言えば、放送席から「二人三脚に出る方は、生徒会から足を結んで固定するためのハチマキを受け取ってくださーい」と声が聞こえていた。
競技開始の笛の音とともにパンと言う乾いた音が聞こえて慌ててシャッターを切る。目の前を物凄い勢いで駆け抜けてゆく彼女たちに和やかな気持ちと学校行事特有のどこか興奮と高揚感が混ざったような不思議な感覚で声援を飛ばしていれば、やがて美滝さんと猫山さんのコンビがスタートラインに立ってパンと言う乾いた音とともに駆け抜けてゆく。
「ゆりりーん!」「猫ちゃーん!」
星花の校内でも目立つ部類に入る猫山さんと美滝さんは三組でも人気者のようで、美滝さんは亜麻色の髪を靡かせ、猫山さんは茶色の猫耳を揺らしながら、あっという間に他の参加者を突き放してゴールテープを切る。
「猫ちゃん、すごい! 私達一番じゃない?」「おー、本当だね~!」
楽しげに会話をしながら颯爽と駆け抜けてゆく二人の姿を映してシャッターを切って。二人が一着でゴールしたのを確認してから写真を確認すれば、二人ともこちらの方が笑顔になってしまうような楽し気な表情をしていて、そのことが少し微笑ましくて、つい笑ってしまった。
パシャパシャと何枚か写真を撮影していれば、次の走者がスタートラインに立って。そこにボクたちのクラスの子が並んでいるのを確認すると、今度は美滝さんたちから彼女たちにレンズを向ける。カメラを運動モードに切り替えれば、ちょうど良いタイミングで笛の音が鳴って彼女たちが一斉に走り出す。出来ることなら手動で撮りたいのだけれど、撮る対象が多くて時間がないときは自動で撮影してくれるモードが有難かった。次々に駆け出してゆく様子をカメラに収めながら、他の生徒に倣って「頑張れ」と声を掛けていると
「ね、晶ちゃん」「ん?」
同じように隣で声援を飛ばしていた莉菜ちゃんが、ほんの少し上ずった、微かに甘い声でボクの名前を呼んで。ボクはシャッターを切る手を止めると、「どうしたの?」なんて莉菜ちゃんの方へ向かって視線を向ける。
「……晶ちゃんはお昼、楽しかったって言ってたよね」「え、あ、うん。普段はなかなか川蝉さんたちとも話せないし、ゆっくり話が出来て嬉しかったけど」
さっきも同じようなことを言ったのにどうしたのかと首を傾げていれば、莉菜ちゃんは上ずったほんの少し甘い声で「そう」と小さく呟いて。ボクはそれに首を傾げながらも、触れて欲しくない部分もあるだろうと深く突っ込んで聞くことはせずに、そのまま次の走者へレンズを向けてファインダーを覗く。ちょうど良い位置に収まった川蝉さんたちの姿に、「良い位置だな」なんて嬉しく思いながら何枚かシャッターを切っていれば、やがてパンと言う乾いた音とともに二人が走り出して。快調な滑り出しに比例する様にシャッターを切れば、声援に紛れるようにして莉菜ちゃんの小さな声が届いた。
「────それって、私よりも?」
歓声と声援が起こるなか彼女の言葉がやけにクリアに聞こえてしまったのは、それがいつもの彼女の言葉には似ても似つかないほど、毒を含んだ言葉のように聞こえてしまったからで。ほんの少し棘があるように聞こえた言葉に、まさか彼女が言ったのかとつい耳を疑ってしまって思わずファインダーから視線を外して彼女を振り返れば、彼女はまるで何もなかったかのように「どうしたの?」と言って柔く微笑む。
「どうしたの? 晶ちゃん。……写真撮らないの?」「……え、あ、うん」
莉菜ちゃんに言われるまま、彼女から視線を外して再びファインダーを覗き込む。機械的なシャッター音が鳴って、目の前の瞬間が切り取られる。その様子を見ながら「莉菜ちゃん」と声を掛ければ、彼女は「どうしたの?」と優しい声で聞き返す。
「ボクは確かに川蝉さんのことがすっ、好きだけど────でも、莉菜ちゃんや他の誰かよりも好きだとか、そんな風に比べたことは無いよ。莉菜ちゃんといて楽しいことがたくさんあるし、普段のお昼だって君と食べられて本当に楽しいし……うまく言えないけど、その、嬉しいんだ」
裏返った自分の声を恥ずかしく思い彼女の方を見れないままそう言えば、莉菜ちゃんは小さな吐息とともに「ん」と言葉を吐き出して、「ありがとう」と言葉を続ける。それは酷く穏やかな優しい言葉で、ボクは内心、そう返されたことにほっとしていて。「こちらこそ」なんて返してから、今度は本当に目の前の被写体に意識を向けた。だから────
「……それは比べたことが無いんじゃなくて、選べなかっただけなんじゃないかな」
溜め息交じりで小さくそう呟いた莉菜ちゃんの言葉は、届かなかった。
全ての競技が終了すると、生徒会による体育祭の結果発表が行われた。『第70回 星花女子学園体育祭』と書かれたトロフィーを受け取ったのは、今年の高等部三年生で。ボクは部活動ではあまり高等部三年生との関わりがない上に学園内の噂にも疎いためどのような人がいるのかはあまり詳しくないのだけれど、隣で拍手をしている莉菜ちゃんがこそりと「高等部の三年生って、すごい人が多いよね。今トロフィーを渡してる生徒会長さんは高等部からずーっと菊花寮なんだって」なんて教えてくれる。
星花女子学園に通学する人の中には、様々な事情から学生寮で生活している人も多数存在している。成績優秀者や一芸に秀でた人が多く所属する菊花寮と二人一部屋で生活をする一般的な寮である桜花寮に分かれていて、部屋以外にも菊花寮はそれぞれの個室にユニットバスがついてるなど一部待遇に差はあるが、基本的にはどちらの寮もあまり大きな差はないらしい────とは、桜花寮に住んでいる知り合いからの話なのだけれど。
「そうなんだ。菊花寮は成績を落とせないそうだから、かなり大変なんだろうね」
ボクは拍手をしながらそう返せば、莉菜ちゃんは「ね」と短く返答する。トロフィーの授与からそのまま閉会式へ移ると、中等部と高等部の学年主任の先生が本日の体育祭についての意見を述べていて。それをぼんやりと聞いていると、不意に柔い風が吹いてグラウンドの砂を僅かに巻き上げて消えてゆく。砂ぼこりに小さく咳込めば急に疲労感が襲ってきて、内心「早く帰りたいな」なんて思いながら、伸び始めた髪を耳に掛けた。
「晶ちゃん、もう帰り?」「うん、今日はもう」
体育祭が終わったあとの教室は、行事が終わったあと特有の開放感に包まれていた。ホームルームが長いクラス担任が、手早く所連絡を終えてくれたこともあるのだろう。もっとも彼はそこまで熱心な方ではないから、単に自分が早く帰宅したかっただけかもしれないけれど。
一応写真部にも連絡をしておくかと思いメッセージアプリを起動すれば、写真部部長からの『今日は集まりは無しです、次回は────』と言う文章が全体へ向けて送られていて。それに『解りました』と返すと、携帯を閉じてジャージからワイシャツの袖に腕を通す。もう二ヶ月ほどは着ているはずなのに、未だにどこか着慣れない自分につい苦笑してしまった。
学校指定の灰色のネクタイを結び終えると、制服がずれたり皴になっていないことを確認しているボクを見て、「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」と莉菜ちゃんが小さく苦笑する。
「本当? どこも曲がってたりしないかな」「ん、大丈夫」「良かった。ありがとう」
莉菜ちゃんの言葉に小さく笑ってそう返せば、莉菜ちゃんは一瞬だけ少し強張ったような表情をして。それから、ふっと目を伏せると、小さく吐き出すように「……あのね」と小さく呟く。
「晶ちゃんの優しいところ、私はすごく好きだよ。……でも」
莉菜ちゃんは何処か迷ったような表情をしながら、その薄く形の良い唇を動かして。それから少しだけ自嘲気味に微笑むと、「……でもね」と続ける。
「でもね、晶ちゃん。皆に『いい人』でいることが、人を傷つけることもあるんだよ」「……どういうこと?」
訝しげにそう問えば、莉菜ちゃんは「解らないかなぁ」とでも言いたげな少し困ったような顔をして。子どもに言い聞かせるような優しい声で、「……内緒」と小さく呟いた。
莉菜ちゃんと別れて玄関で靴を履き替えると、正門を出てそのまま駅の方へ向かって歩いて行く。アスファルトにローファーの踵が当たって、コツリと小さな音を立てた。
夏が始まるとき特有の、青臭い葉の香りがやけに印象に残っていた。大きく息を吸い込めば肺の奥深くがちりりと引き攣るような感覚がして、どうしてか酷く痛い。正門を出る直前に横目で園芸部の花壇を見れば、今日はお休みなのか川蝉さんの姿はなかった。
(……当たり前か、そんなの)
今日は体育祭だったからほとんどの部活が活動を休みにしているだろうし、園芸部だって休みで当たり前だ。それでも頭のどこかで会えるだなんて思っていた自分自身につい苦笑してしまうと同時に、心のどこかでほっとしていた自分もいた。自分が彼女に対して抱いている感情に明確な名前がついてしまったことに、どこか照れ臭い気持ちを持つ自分もいたからだ。
正門を出て学園前駅の改札をくぐると、ちょうど良いタイミングで滑り込んできた電車に乗る。プシュッと言う音とともにドアが閉まると、ゆっくりと電車が動いてゆく。心地よいその揺れに身を任せながら空席に座ると、やけに人が多い車内に「そう言えば今日は日曜日だっけ」なんて頭の片隅で考える。この分ではこの先も人が増えるだろうな、なんてげんなりした気持ちと、空席に座れた安堵が入り交じったため息を吐いて。そのまま心地よい微かな揺れに身を任せていると、次第に瞼が下がってゆくのを感じていた。
────とんとんと誰かに肩を軽く叩かれる。ワイシャツ越しに触れている指先は少し冷たくて、それが誰かに似ているような気がした。
ゆっくり起こした頭と薄く開いた視界に、薄い紫色のスカートが映る。昔、今と同じような時期に彼女が気に入ってよく着ていたスカート。「似合ってるよ」と伝えれば、彼女は酷く照れ臭そうな顔で「ありがとう」って笑っていたっけ。
寝ぼけた頭でぼんやりと視線をあげれば、逆光でよくは見えないはずなのに、どうしてか目の前の人が笑ったような気がして。いつの間に寝てしまったんだろうと思いながら、ゆっくりと頭を起こした────時だった。
「────アキ」
くすくすと言う軽やかな笑い声に混じって聞き覚えのある声が聞こえて、思わず息を止める。決してそこにいるはずはないのに、もう二度と呼ばれることなんてないはずなのに。
寝ぼけた思考が途端にクリアになって、ボクは勢いよく頭をあげる。突然動きだしたボクに驚いたのか、休日出勤であろうスーツを着た会社員らしき女性がびくりと肩を跳ねさせて。彼女に曖昧に笑って頭を下げてから視線を動かして周囲を見ても、彼女の姿は見当たらない。そんなことは当たり前かなんて小さく溜め息を吐いた。
やがて電車の車内アナウンスが次にボクの最寄り駅に到着することを告げる。その声にのろのろと座席から立ち上がると、ドアの前に立って鞄を肩に掛ける。見慣れた風景にほっと息を吐いて、柔く揺れる髪を耳に掛けた。
どうしようもなく、彼女に────川蝉さんに会いたいと思った。そんな自分の考えに、馬鹿みたいだなんて自嘲する。ボクと彼女の間には友人関係しかないのに。それを貰えただけでも、十分すぎるほど幸せなのに。
(……本当、馬鹿みたいだ)
そんなことを思いながら小さく溜め息を吐いたと同時に、入り口のドアがプシュッと言う空気音とともに開いて。差し込むような柔い夕焼けに目を眇めてから、ゆっくりと最寄り駅のホームに降りる。アスファルトが靴底で小さな音を立てたのと同時に駅のベルが鳴ると、ドアが閉まってゆっくりと電車が走り去ってゆく。その様子を見送ってから、ボクはのろのろと階段を降りてゆく。
壁に木目のようなデザインが施された切符売り場を横目に改札にICカードを通すと、見慣れた街の風景が広がっていた。公衆電話ボックスの横を通り過ぎると、次にタクシー乗り場の真横を通り過ぎるようにして自宅の方面へと向かう。舗装された道の上で、ローファーが小さく音を立てた。
────アキ
先程聞こえた、彼女の────紫園の声を反芻して。彼女の声を頭から締め出すように、伸び始めた自分の髪にそっと触れる。
あの頃とは違う髪型で、あの頃約束した高校とは違う制服で、あの頃の君が知らなかった人を好きになったボクを今の君が見たらどう思うかななんて。そんなつまらないことを考えてしまう自分が、酷く情けなかった。




