三十五輪
────アキ
夢の中で、紫園が優しくボクの名前を呼ぶ。癖のようにボクの頬をその細くしなやかな指でそっと撫でて、薄く形の良い唇が「大好きよ」と言葉を紡ぐ。それは星花女子学園に入学する前から何度も夢に見た、紫園の姿だった。
────君はボクが好きな訳じゃないでしょ
ため息交じりに呟いたその言葉は酷く皮肉気で、冷たくて。そんな話し方も出来たのかと、ボク自身が驚いてしまう。伸び始めた髪が、ボクが俯いたことに比例してさらりと頬を撫でた。
紫園はボクのその言葉に何かを返すことは無かった。ただあの時と同じように綺麗に微笑んだまま、ボクを眺めている。それは友人に対する眼差しと言うよりは、どこか聞き分けのない子供を慈しむような、それでいて自分の方が優位だと確信しているような、そんな笑みだった。
ボクは彼女の姿を見て、いい加減にしてくれよと呟く。もうボクは星花女子学園に通って、あの頃とは違う環境にいるんだと、もう君に手を引かれていたボクのままじゃないんだと口を開こうとして、それでも結局、彼女を前にすればそんな言葉すら言えなくなってしまって。思春期特有の子供っぽい反抗期の時の口調のような、どこか甘えた声で「ボクはもう、君がいなくても大丈夫なんだ」と呟く。君が居なくたって他に大切なものが沢山出来たんだと、そんなことを言ってしまう自分に酷く嫌気が差した。
紫園は微笑んだまま、何も言わなかった。薄く形の良い唇が弧を描いて、そのままボクを見つめている。その表情は酷く歪んで、それでもその歪みがどうしようもなく愛おしいとさえ思う。それでも、それが綺麗な恋愛感情のままなのかと問われれば、ボクは結局何も解らなくなってしまって。その度にボクは、自分のこのどうにもならない恋愛感情が、単なる妄執なのではないかと思ってしまう。本当はもう既に紫園はボクのことなんて忘れてしまっていて、ボクだけが彼女の幻を考えているんじゃないかなんて。そんなことを思ってしまえば、酷く虚しいとさえ感じてしまう。
────アキ
いつの間にか俯いてしまったボクの頬に、紫園の細くしなやかな指が触れて。それに引き上げられるように顔をあげれば、紫園はボクを見てその笑みを深める。薄く形の良い唇がきゅっと弧を描いて、ボクの耳元で囁く。
────あなた、自分だけが幸せになろうとしてるでしょ
選ばれなくて可哀想ね、と彼女は酷く楽しそうに呟いて。ボクはその言葉に、自分の呼吸がひゅっと掠れた音を立てたのが解った。酷く呼吸が苦しくなって、ボクはそっと口元を抑える。そうでもしないと、吐き出してしまいそうだったから。
「……ボ、ボクは────」
────耳元で知らない洋楽が鳴っていた。それに顔を顰めると、横着をして携帯電話を取ってアラームを止める。ところどころ跳ねた自分の髪を手櫛で整えながらベッドの上で半身を起こすと、深く短い溜息を吐く。少しだけ薄くなったパジャマはほんの少し汗ばんでいて、そのことが先ほど見た夢の気味悪さを表しているようだった。
「……夢」
まだほんの少し寝ぼけた頭でそんなことを呟くと、壁に掛かっているカレンダーに目を向ける。寝起き特有の少し霞んだ目に体育祭と赤字で書かれた文字が目に映って、浮かれているなと呆れてしまった。優しい人間でいたのに、誰かを傷つけたいわけじゃないのに、時折どうしようもなく誰かを傷つけて、どうしようもなく滅茶苦茶にしてしまいたいのは、一体どうしてなのだろう。
ボクは携帯電話を充電器から引き抜くと、そのまま星花女子学園の制服をハンガーから外して袖を通してゆく。少しずつ暑くなり出してきた季節に、「もう夏が近づいてきているのか」なんて考えてしまった。
体操着とタオルと体育祭のパンフレット、そして写真部の撮影用のカメラを鞄に入れると、小さく欠伸を零して電車の時間を確認しようと携帯電話の乗り換え案内のアプリケーションを立ち上げて。いつもよりほんの少し早いその時間に間に合うように準備をしながら、ふとメッセージアプリを立ち上げると、一番上に来ている川蝉さんのメッセージを見る。[10分]と示された通話時間にほんの少し頬が熱くなってゆくのを感じながら、そんな感情を締め出すように柔く頭を振る。伸び始めた髪が柔く視界の端で揺れるのが解って、それがどうしてか酷く寂しかった。
ICカードを改札に通すと、ピッと言う機械音が耳についた。星花女子学園に通い始めてからもう今日でちょうど二カ月だな、なんて考えて。この通学路ももう通い慣れてきたなと思いながら、星花女子学園前駅へ向かう電車が来るホームへと向かう。早朝の時間帯には人がまばらで、時々今日が体育祭なのか、他校のジャージ姿の学生と数名すれ違って、それが何となく愉快で口元を綻ばせた。
思えば星花に入学してから、笑う回数が増えたような気がする。紫園と離れたことで、無理矢理閉鎖的だった自分の世界が開かれたのかもしれないけれど。自分が知らなかっただけで、意外と愉快なことは多いのかもしれないな、なんて思って。それが少しだけ楽しくて、そして同じくらい怖かった。
ホームで電車を待っていると、ふとメッセージの受信を告げるランプが点滅していて。なんだろうと思いながらアプリを開けば、その送り主は猫山さんからだった。
[おはよー、晶ちゃん! 朝早くにごめんね。晶ちゃん、今日体育祭何に出場する?]
その文字に[おはよう、ボクは借り物競争だけど]と返すと、猫山さんからの既読を示すマークがついて。[あっ、そうなんだ! ありがとう]と返ってくる。
[ね、もし晶ちゃんが良かったら、三組でお昼一緒に食べない?]
猫山さんからの文面に[ありがとう、白石さんからも連絡貰ってて。もちろんだよ、ありがとう]と返すと、猫山さんからも[そうなんだ! こちらこそありがとね]と返って来て。それにふっと笑みを零しながら[誘ってくれてありがとう、今日はよろしくね]と返せば、猫山さんからは猫が大きく丸を作っているスタンプが送られてきて。それが何とも彼女らしくて、つい笑ってしまった。
猫山さんとのメッセージのやり取りを終えながら、ふと今朝見ていた夢を思い出して。それでも、あれは夢だと自分に言い聞かせながら、ぼんやりと窓の外を見る。青い若葉が陽の光に当たって柔く煌めいていた。
二組の分の青いハチマキをクラス担任から配られていると、「何だか緊張しちゃうねぇ」と隣に座った莉菜ちゃんがのんびりと笑う。
「私、こんなに人数が多い体育祭って初めてだからさ。中学校の時って、今よりもっと人数少なかったし」「あぁ、そうだよね。ボクもこんなに人数が多いのは経験したことないな」
そんなことを言いながらのんびりと話していると、莉菜ちゃんは「そうだよねぇ」と笑って。「晶ちゃんって運動得意なの?」と言う莉菜ちゃんに、「はは、あんまり得意じゃないかも。日色は昔から得意だったんだけど」と返せば、「ヒーローちゃん、足速いもんねぇ」と言って笑う。
「運動部の子よりも早いんじゃない?」「はは、そうかも。努力家なんだよ、日色は────っと、ありがとうございます」
クラス担任から青いハチマキを手渡されると、それを付けようと頭の後ろで縛って。ボクのその様子を見て、莉菜ちゃんが短く「あっ」と言う声をあげる。
「ん?」「ああああの、晶ちゃん! その、もし良かったら────」
酷く赤い顔をした莉菜ちゃんに、何処か具合でも悪いのかと思い「大丈夫?」と顔を覗き込めば、彼女は「ぜっ、全然大丈夫!」と裏返った声で言って。その勢いに驚いて何度か瞬きをすれば、彼女は少し恥ずかしそうに俯いてから、意を決したように顔をあげる。
「っ、あの! お昼、もし良かっ「ただいまより、開会式を始めます。グラウンドに集合してください」────」
微かなザッピングに混じって聞こえてきた集合の挨拶に顔をあげると、「あ、集合だって。行こ」と莉菜ちゃんに声を掛けて。すると莉菜ちゃんは、酷く脱力したような顔で「うん……」と答えていた。
「────あ、晶ちゃん。借り物競争、集合かかってるよ」「あ、本当だ。ありがとう、行ってくるね」
莉菜ちゃんの言葉にそれまで首から下げていたカメラを外して鞄にしまうと、応援席からグラウンドの方へ小走りで向かう。後ろから莉菜ちゃんの「頑張ってね!」と言う声が聞こえて、それにひらひらと手を振ってから会場係の案内で集合場所まで向かうと────
「あらあら、塩瀬さんじゃないですか」「白石さん?」
集合場所にいる白石さんの姿を見て何度か瞬きをすれば、彼女はにこにこと変わらずに穏やかに「そうですよ」と言って微笑む。
「今日は体育祭ですからね。髪が長いと、何かと邪魔になりますし」「はは、そっか。長くても似合っていたけど、まとめていても似合ってるね」
そう言えば白石さんは、「お上手ですねぇ」と言ってにこにこと笑う。シャンプーの香りなのか、ほのかに花のような香りが鼻腔を擽った。
「塩瀬さんも借り物競争だったんですね」「あぁ、うん。本当は障害物競争の予定だったんだけど、じゃんけんで負けちゃって」
そう言って苦笑すれば、白石さんはにこにこと「あら、奇遇ですね。私もじゃんけんで負けてしまったんですよ」と言って微笑む。「基本的に、あまり運が無い方なんですよねぇ」と言う彼女に何と返せば良いのか解らずに「はは」と言えば、彼女はにこにこと微笑んだまま「世間話程度なのであまり気にしないでくださいね?」と言って苦笑した。
「ボクも割と運が無い方なんだよね」「あら、そうなんですか。借り物競争って、コミュニケーション能力が求められるから、少し苦手なんですよねぇ」
白石さんはそう言うと、困ったように溜息を吐いて。それに意外だなと思いながら、「君はもっとコミュニケーション能力が高いと思ってた」と言えば、「人とお話しするのは好きですよ」と白石さんは微笑む。
「人に頼みごとをするのが苦手なんです、昔から」
白石さんはそう言うと、借り物競争の会場係が集合の旨を伝える。それに顔を向ければ、白石さんは「行きましょうか」と言ってぽんと背中を軽く叩いて。それに「うん」と答えれば、白石さんは柔く微笑んだ。
「────そうそう、塩瀬さん」「ん?」
借り物競争の場所へ小走りで向かいながら、白石さんは小声でボクに問いかけて。それに同じく小走りで答えれば、白石さんはほんの少しだけ悪戯っぽい表情をして呟く。
「お題、[好きなひと]とかだったら、どうしましょう?」「ぶ────っ!」
突拍子もない答えに思わず噴き出せば、「冗談ですよ」と白石さんは酷く楽しげに笑っていた。




