三十四輪
『次は、××駅。××駅。お降りのお客様は足元にご注意して────』
電車のアナウンスが聞こえてふと顔をあげれば、いつの間にか自分の最寄り駅まで到着していた。どうやらいつの間にか少しうたた寝してしまったようで、慌てて電車から降りるとそのすぐ後に背後でプシュッと言う音とともに電車のドアが閉まるのが解る。乗り過ごさなくて良かったと思うと同時に、先程まで自分が考えていたことを思い出して、つい少しだけ自己嫌悪してしまう。
(……友達を望んでいたのか、なんて馬鹿みたいだ。望んでるに決まってるじゃないか、その為に白石さんも莉菜ちゃんも協力してくれたんだから。第一そんなことを考えるなんて皆に対して失礼だ)
自分の考えていたことに自己嫌悪しながらついいつもの癖で俯けば、視界には四月よりも少し薄汚れたローファーが写って。茶色のローファーは柔い夕日を受けながら、静かにその存在を主張していた。
まだ早い時間帯だからだろうか、最寄りの駅構内を利用する人はまばらで。取引先に出向く様子の会社員の男性や自分と同じように制服を着た高校生らしき集団とすれ違いながら、ふと彼を────乙木君を思い出して。どこか居心地の悪い様子で辺りを見渡せば、案の定そこに乙木君らしき人が居ることは無くて。そのことに不謹慎ながらも安心してほっと息を吐く。
五月の柔い葉の香りが微かに残っていた。星花の中間テストは五月末に行われているから、もうすぐ五月は終わってしまう。ぼんやりと思いながら改札にICカードを通して。ピッと言う少し高い機械音を聞きながら、自宅方面に向かって歩いて行こうとした時だ。
「ん……?」
不意に携帯の受信ランプが光っているのを見て駅構内の壁際まで寄ってから確認をすれば、そこには白石さんからのメッセージが書かれていて。[体育祭の日、もし予定が無ければ私たちと一緒にお弁当を食べませんか]と言うメッセージを見て、少しだけ驚いてしまう。
初めて川蝉さんたちに出会ってから一カ月ほど経っていた。それは恐らく一方的な感情にしか過ぎないのだろうけれど、少しずつ仲良くなっているような気はしていた。川蝉さんはまだ少しだけボクと話すときは震えていることもあるけれど、それでも最近は以前と比べて柔らかな表情をしてくれることも増えていて。少しずつ距離が縮まっているような感覚に、ボク自身少し浮かれてしまっていた。
ボクは無意識に熱を持つ耳を隠すように右手で触れると、左手で白石さんへのメッセージを打ち込んでゆく。[誘ってくれてありがとう。ボクで良ければ一緒に食べたいな]と言う文章が何だか少しだけ照れ隠しのようにも見えて、それが少しだけ恥ずかしかった。
星花女子学園に在籍する生徒はその大半が穏やかな気質の生徒が多く、多少は協調性に欠けると言われる生徒は存在するものの、彼女たちも含めて積極的に他者とトラブルを起こすことを好む生徒は少ない。それは各々の個性や価値観を大切にしているからなのだと知ったのは、学校に慣れ始めてきた最近のことだった。
ボクは白石さんにメッセージを送り終えると、そのままおもむろにSNSのアプリを起動する。そこに映る[Fiaba]とのメッセージのやりとりを眺めながら、自分が送ったシオンの花言葉を反芻した。
(────あなたを忘れない)
心の中でそう呟いた自分の声がやけに冷たく聞こえて、思わず振り払うように頭を微かに左右に振る。伸び始めた髪が視界の端で揺れるのがわかった。
[Fiaba]はボクにその花言葉を聞いてどう思ったのか、なんて尋ねたけれど────そんなことを聞かれたって困ってしまうと言うのが本心だった。[Fiaba]の彼女が嫌いな花がシオンの花だったとしても、それが彼女と────橘 紫園と同一人物であると言う確証は無いのだから。そして何よりも紫園や乙木君、そして[Fiaba]のことについて、今はあまり考えたくはないと言う気持ちがあったことは否定できない。
ボクは携帯の画面を落とすと、制服のポケットに携帯電話を突っ込んで自宅方面に向かって歩いて行く。柔い葉の香りが鼻腔を擽って、何も変わらないその香りがどうしてか酷く安心した。
玄関の鍵を開けようと、鞄からキーケースを取り出して鍵穴に鍵を差し込んで回せば、ガチャリと言う音とともに玄関の鍵が開いて。自宅に帰ってきたことにどこか安堵した気持ちになりながら、そのまま何となく習慣で郵便ポストの蓋を開けて中を確かめれば、朝取り忘れた新聞や広告チラシがそのまま入っていて。今朝は皆忙しくて取り忘れたのか、なんて思いながらそれを引き抜くと、小脇に抱えて玄関の扉を開けて部屋のなかに入る。
鍵を掛けてローファーを脱ぎながら横着をしてリビングに入ると、ソファーの足元に荷物を置きソファーに腰かけて中身を確認する。最初に新聞を取った人が自分宛のものが来ていないかを確認するのは、ボクたち家族の日常だった。
「これは兄さんの、これは父さんの、残りは────あとはチラシか」
仕分けを終えると、それぞれのボックスのなかにその人宛のものを、なにも記載されていないところにチラシをいれて、荷物を持ったまま着替えをするために自室へ向かう。荷物を学習机の上に置いてから、着替えるために星花指定の灰色のネクタイをしゅるりとほどいた時だった。
「ん?」
不意に、携帯が低いバイブレーションを鳴らした。画面を確認すれば、そこに表示された名前は川蝉さんのもので。僅かに熱を持つ耳を隠すように右手で触れながら、何か用事でもあるのかと思い応答ボタンを押して「はい……?」と答えれば、電話口からは酷く動揺した声で『ご、ごめんなさい』と柔い声が答えた。
『ご、ごめんなさい。その、白石さんにメッセージを送ろうとしていたら、間違えてかけてしまって────その、ご迷惑をおかけしてしまって、ごめんなさい』
電話口から聞こえる酷く申し訳なさそうな彼女の声に、「ううん、話せて嬉しいよ。気にしないで」と返せば、彼女は僅かにほっとしたような感情をその声に滲ませて、『ご、ごめんなさい、ありがとうございます』と呟く。四月に出会った時から変わらない、彼女の穏やかな話し方が好きだった。……それが友人としての感情なのか、それとも全く異なるものなのかは解らないのだけれど。
ボクはネクタイを外したまま学習椅子に腰掛けて、「こちらこそ、掛けてくれてありがとう」と言えば、彼女は僅かに困惑したような、それでいてどこか申し訳なさそうな声色で『ごめんなさい、テスト後で疲れているのに』と言って。それに対して「良いよ、気にしないで」と返しながらぼんやりと窓の外を見れば、夕日が柔く差し込んで室内を橙色に染め上げていた。
「……っと、でも、あまり話しても迷惑だね。急いでたんでしょ?」『あ、いえ……その、体育祭の後に美滝さんが中心で、打ち上げも兼ねて三組でお茶会をしようって話になって。し、白石さん、お菓子を作るって張り切っていたので、その、何かお手伝いが出来ればいいなって────その、ご、ごめんなさい』
電話口でそう言う川蝉さんに、「そうだったんだね、教えてくれてありがとう。……その、なら早めに送った方が良いね。ごめん、すぐ切るから」と返せば、川蝉さんは酷く申し訳なさそうに『ごめんなさい』と言って。「間違いは誰にでもあることだから気にしないで。じゃあ、また────」と電話を切ろうとした時だった。
『────っ、あ、あの、塩瀬さん』「ん?」
薄い携帯越しに、柔らかな彼女の声が聞こえて。通話終了を示すボタンに伸ばしていた指を引っ込めて、「どうかした?」と尋ねれば、彼女はほんの少し申し訳なさそうな声で『……その、前に言っていた、シオンの花言葉の話なんですが』と続ける。
「え、あぁ、うん。あの時はごめんね、折角教えてくれたのに」『い、いえ、それは……。その、あの時────』
電話越しの彼女の声は、少しだけ柔らかくて、そして優しい声だった。電話の声は本物の声じゃないんだっけ、なんて頭の片隅でぼんやりと考えながら「うん」と返せば、彼女は暫く押し黙ってしまって。それを不思議に思いながら「川蝉さん?」と尋ねれば、彼女は驚いたように『……あ、いえ。……ごめんなさい、やっぱり何でもないです』と返して。それに「そっか」と返せば、彼女は『ごめんなさい』と呟いた。
「いいよ、そんなに謝らないで。とても助かったから。……ね、川蝉さん」
出来るだけ柔らかく聞こえるようにそう尋ねれば、電話口からは戸惑ったように『はい』と言う声が聞こえて。その柔らかな声に背中を押されるように、そっと呟いた。
「……その、またこうして、時々君に話しかけても良いかな」
ぎこちなくそう言えば、川蝉さんはくすりと微笑んで。『……その、もちろん』と言う声にほっと息を吐きながら、「ありがとう」と言えば、『……こちらこそ』と言って彼女は微笑んで。心の裏を撫でられるようなその声が、どうしようもなくくすぐったかった。
川蝉さんとの電話を終えると、通話終了のボタンを押して画面を伏せる。心臓は痛いくらいに早鐘を打って、酷く苦しかった。
机に伏せたまま手の甲で自分の頬に触れれば、そこは酷く熱くて、そのことがより一層心臓の鼓動を早めてゆく。さっき声を聞いたばかりなのにもう声が聞きたいだなんて、子供のようなことを考える自分自身に、酷く呆れてしまった。
「────緊っ張、した……」
大きなため息とともに吐き出した自分の言葉は、呆れるほどに情けなくて。こんなところ、絶対に彼女には────川蝉さんには見せたくないだなんて、そんなつまらないことを考えてしまった。
友達でいたい。ずっとこのまま、変わらずに穏やかな関係を築いていたい。変化することが彼女を傷つけてしまう可能性があるのなら、もとの関係に戻れなくなる可能性が僅かにでもあるのなら、ずっとこのまま、少しだけぎこちない友人でいたい。
それでも心の何処かで、それに引っかかる自分がいるのも事実だった。それならばどんな、と問われれば、なにも答えられないのが事実なのだけれど。
ボクは机に伏せた顔を上げると、携帯の画面に残る通話履歴を眺めて。微かに緩みそうになる頬を何とか抑えると、何度も深呼吸を繰り返して、バクバクと鳴る心臓を宥めようと試みる。とは言え一度鳴り出した心臓の音はそう簡単に静まるようなものではなくて、ボクは暫く悪戦苦闘したのちに「もういいや」と諦める。
(────もういいや、今は。……あと少しだけ、このままで)
ボクはそんなことを考えながら、騒がしくも心地よい心臓の鼓動に耳を澄ませながら、電車のなかで考えいた彼女との関係について、改めて考えてしまう。
傍にいられるだけで嬉しくて、笑ってくれれば満たされて。彼女の目で見た世界はどんなものなのか、彼女の好きなものや嫌いなものは何か、もっと彼女のことを知りたいだなんて感じてしまう。そんな気持ちは初めてで、そしてどうしようもなく戸惑ってしまう。
「……明日もかかってこないかな、電話」
ボクは指先で先程の通話時間をなぞりながら、無意識にそんなことを呟いて。そんな自分自身の行動に酷くいたたまれなくなって、携帯を伏せるとそのまま中断していた着替えを続ける。
体育祭が終わると、五月も終わる。そうしてやがて、彼女が────紫園がいなくなった夏が来る。せめてあの時と同じように、誰かを傷つけることだけはしたくないだなんて、そんなことを考えていた。
これは、友人から電話が掛かってきたからだ、なんて。そんなことを無意識に考えて、「だからこれは恋じゃない」なんて頭のなかで呟く。ボクなんて恋をする価値もないと言い聞かせながら、ボクは次第に膨らんでゆく熱を、酷くもて余していた。




