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君に捧げる花の名は、  作者: ???
トリトマ
36/50

三十二輪

 ICカードを改札に通すと、ピッと言う電子音が鳴って小さく息を吐く。定期テスト後の少し早い時間帯にはまだ人通りもまばらで、あたりを見回しても特に乙木君に似た人物は見当たらなかった。ここは星花女子学園前駅なんだから当たり前かなんて自分自身に苦笑してから、すっかり熱が冷めた頬にそっと触れた。

 普段だったら、あんな風に誰かに何かを返そうなんて思わなくて。返すとしても、今日のような子供のような妙な高揚感なんて感じなかったはずなのに。それなのにどうしてか、彼女には何かを返したいだなんて子供のようなことを感じてしまった。

 青臭い葉の香りに混じってほんの少しだけ夏の香りがしたような気がした。その香りにふと顔を上げて、そう言えばもうすぐ夏が来るななんて考えていた。

 ホームの反対側には恐らく中等部なのだろうか、最近やっと馴染んできたような気がする星花の制服を着た生徒たち数名が酷く楽しそうにはしゃいでいて。太陽が海に反射するような、酷く眩しいその笑顔につられるようにふっと笑って、結局また目を伏せた。

 少し汚れた黄色い点字ブロックをぼんやりと見つめながら、そう言えば最近はあまり紫園の夢を見なくなったな────なんて考えて。他者に目を向けることが出来てきた自分自身の成長を実感すると同時に、彼女をあんなに傷つけておいて自分だけが幸せで満たされていることに対する罪悪感を改めて実感してしまう。

 目を伏せた先に見えたブレザーについている金色のボタンが、光に照らされてきらりと反射した。そのすぐ近くにある胸についた星花女子学園の校章が、もうあの頃とは周囲の環境も、そしてボク自身も変わってしまったことを感じさせた。

 やがて電車の到着を告げる鐘の音が鳴って顔を上げれば、電光掲示板にボクの自宅方面の電車の到着を告げるアナウンスが橙色の文字で書かれていた。それにほっと息を吐いてから、伸び始めた髪を耳に掛けて小さく息を吐く。滑り込むように到着した電車が、ふわりとボクのスカートを柔く乱して停車する。プシュッと言う気の抜けた炭酸のような音とともにドアが開くと、人がまばらな車内のドアには澄んだ水色のドアが広がっていた。

 朱色の座席に腰を下ろすと、反対側の窓をぼんやりと眺める。太陽の光が柔く差し込んで、次第に輪郭が蕩けてゆくような妙な感覚がして。何気なく下を見ると、淡い紫色の可愛らしい花が電車が通り過ぎるたびに左右に揺れていて。その華奢な花が何となく川蝉さんに似ているな、なんてふっと微笑む。


 ────()()()()()()()()()()()()()()()


 不意に、乙木君の言葉を思い出して。思わず顔を上げても、当然のように乙木君はそこにはいなかった。そんなことは当たり前なのに、何だかほっとしてしまって。そして、そんな自分自身に酷く嫌気が差した。

 彼が────乙木晶が、どうしてあそこまでシオンの花言葉に拘るのか、ボクにはどうしても解らないままで。だけど、あのシオンの花言葉への執着は少し異常だなんて考えてしまう。その裏に何度か乙木君を通して想像してしまう人物を無理矢理のように頭から締め出しながら「……シオンの花言葉、か」と無意識に小さく頭の中で呟く。川蝉さんから教えて貰ったその言葉は、もうここにはいないはずの()()の姿を透けて想像してしまうのには十分すぎるほどで。伸び始めてしまった髪を隠すように左手でぎゅっと掴むと、無意識に苦しくなる罪悪感から逃れるように目を伏せた。

 星花女子学園に通い始めてから、一カ月近くが経った。高野さんの態度のような小さなトラブルはあるけれど、それを補って余りあるほど今の環境はボクにとって酷く満ち足りたもので。それがあまりにも幸せだから────いや、()()()()()()()()()()()、比例するようにふと一人になると紫園への罪悪感が首もとを柔く締め上げるのがわかった。


 ────あたしのこんな汚いところも大好きだって、そう言ってくれたの


 あの時最後に見た紫園の顔は、いつもきちんとしている彼女にしては珍しく涙でぐしゃぐしゃになっていて。そんな彼女の姿を見たのは初めてだったから、驚いて咄嗟に彼女に言葉を伝えることが出来なくて。一度だけ与えられたチャンスをみすみす逃した代償のように彼女と疎遠になってからは、ボクも彼女も互いに他の友人や受験勉強に没頭することで、お互いの欠けた穴を埋めるように生活していた。……少なくとも、ボクは。


 ────()()()()()()()()()()()()()()()


 停車駅で数分待ちながら、反対側のホームに電車が滑り込んでくる様子を見ていれば、ぼんやりと彼のその言葉を思い出して。つい小さく溜め息を吐きながら、「……なんで今更」と呟く。吐き出した自分の言葉が酷く恨めしく聞こえて、そのことにボクが一番驚いてしまった。

 ボクを置いていって、ボクを捨てて、そうして顔も知らない()()()と恋人になったのは()()の方なのに。それなのにどうして今更ボクをあの夏に引き戻そうとするんだ、なんてどこか不貞腐れた気持ちで顔を伏せる。伏せた先には、あの頃とは違う綺麗に磨かれたローファーが居心地悪そうに映っていて、それを見て結局また溜息を吐いた。

 ボクの溜息をかき消すように人が少ないまばらな車内に騒がしい声とともに駆け込んできた高校生が、気に入る定位置に横並びで座る。知らない近隣の高校の校章を見ながら、そう言えばこの時期は定期テストの日程も被っているんだろうな、なんて考える。確か乙木君もそんなことを言っていたっけ────なんて思いながら、プシュッと言う音とともに閉まった鈍い銀色に光るドアを見つめていた。

 川蝉さんに聞いたシオンの花の花言葉を頭の中で反芻しながら、小さくシオンの────幼馴染の、橘 紫園の名前を呼んだ。何度呼んだってもう隣にはいないその熱の名前を、無意味に繰り返し呼ぶ。起こしたことは変えられないのに、まるで贖罪のように彼女の名前を呼ぶ自分自身に嫌気が差した。

 こんな時にどうしようもなく思い出すのは、川蝉さんのことだった。彼女とたまに話す時間は優しくて穏やかで、一緒に居るとまだお互いに少しぎこちないのに、どうしてかとてもほっとする。彼女がゆっくりと懸命に紡ぐ誠実な言葉を聞く時間が、今は何となく好ましかった。

 言えないことが増えてゆくボクのことを、彼女はいつだって踏み込まずに許してくれる。その癖友人になって数週間しか経っていないボクなんかにも白石さんたちと変わらずに優しく接してくれるのだから、何だかむず痒くて仕方がない。子供の頃から紫園以外の人とあまり付き合ってこなかった自分にとって、それはとても嬉しいことと同時に戸惑うものでもあった。……その戸惑いが、どうして起こっているのかは解らないけれど。

 初めて会った時には震えていた華奢な身体が最近ではあまり怯えていないことに、ボク自身どうしてかとてもほっとして。そしてそれと同時に、どうしてかもっと彼女のことを知りたいだなんて思ってしまう。彼女の視界に一番に映るのがボクであればいいのになんて、そんなつまらないことを考える自分自身に呆れてしまった。

 沢山居る星花の生徒の中で、どうしてあんなに強烈に知りたいと思ったのが彼女だったんだろう。今まであまり、周りの人に関心を持つことも、持たれることも少なかったはずなのに。あんなに身勝手に、なりふり構わず知りたいと感じたのがクラスも違う彼女だったなんて何とも奇妙な話だと、自分自身に苦笑して。けれど、少しだけ視界が広がったそんな穏やかな今が少しだけ楽しいんだなんて感じてしまう。

 やがて電車がボクの最寄り駅に着くと、改札にICカードを通して。そのまま帰宅しようと、自宅方面に向かって歩いた時だった。

 不意に、誰かがボクの肩を叩いた。気心の知れた友人に対するような軽い叩き方だ。まさかと思い振り返ると、そこには────


「……え、」


 そこには、ボクの予想した人物は誰も立っていなかった。駅構内のまばらな人の中にはスーツを着た会社員、()とは違う高校の制服を着て面倒臭そうに歩きスマホをしている高校生、年配の夫婦だけで。気のせいかと思いながらも、何だか薄気味が悪くて、荷物を肩に下げて自宅へ向かう道を小走りに歩いた。ここにはいないはずの()()()が見ているような、そんな居心地の悪さを感じていた。



「────ただいま」


 玄関のドアの鍵を開けて冷たいドアノブを引くと、誰もいない部屋に帰宅の挨拶をする。そのまま急いでドアを閉めて鍵を掛けると、制服のままその場にずるずると座り込む。

 ────限界だと思った。乙木君のことも、[Aster]のことも、[Fiaba]のことも────なにより許せないのは、未だに()()()から抜け出せない自分自身だ。

 髪の長さも、制服も、あの頃とは何もかも変わってしまった。当然だ、だって()()()()()()()()()()()()()()()

 皆に優しく正しい人間であれば、もう二度と誰も傷つけないと思った。誰も傷つけず、誰も好きにならず、土の中で眠る蝉のように、地上に出ることもなく高校三年間を終えることを望んでいた。それが唯一、紫園に対する贖罪だと思っていた。……それでも、そんなのはきっと意味がなかった。それは結局、向き合う事から逃げているだけだったのだ。

 それでも向き合ったせいで大切なものは壊れてしまって。その傷を思い出すたびに自分自身を酷く傷つけてしまいたくなるのだから、逃げて何が悪いんだなんて思ってしまう。誰だって自分が一番可愛いじゃないか、なんて。そんなことを思いながらつい口をついて出た言葉に、ボクが一番驚いてしまった。



「────ボクを捨てたのは、君の癖に」



 どろりとした熱を持った言葉は、一度口をついてしまえば留まることを知らずに溢れてゆく。ボクを捨てたのは君の癖に、ボクの気持ちに気付いていて、それでも「おめでとう」と言わせたのは君の癖に。

 ボクはその場に座り込んだまま震える指で携帯の画面を操作して、[Aster]のSNSを見る。目立たないけれど柔らかくて綺麗な花を咲かせるシオンの花。それを暫く見てから、勢いに任せて携帯を投げようとして────そんなのは結局、子供の腹いせでしかないなんて思い直して、携帯の画面を落とすと靴を脱いで自室へと向かう。

 何だか酷く疲れていた。鞄をカーペットの上に置くと、制服のままベッドへ倒れ込むようにして身体を沈ませる。そうしてから、ふと、[Fiaba]から連絡が来ていたことを思いだして。浅く呼吸を繰り返してのろのろと[Fiaba]のSNS画面を見ると、そこに書かれていたのは『こんばんは』なんて言う気が抜けてしまいそうなほど普通の言葉で。ボクはメッセージ画面を眺めると、『こんばんは』と返して、ゆっくりと言葉を続ける。



『────シオンの花言葉がわかったよ。Fiaba』



 ゆっくりとその言葉を画面に打ち出すと、そのまま送信ボタンを押して。ボクと[Fiaba]のメッセージ画面には、ボクが打ったその言葉が最新の状態として映し出されていた。

 [Fiaba]はまだ見ていないのか、返事は来なくて。そのまま検索画面に戻ると[Aster]の名前を確認する。学術名から取られたのであろうその名前は、調べてみると思った通りシオンの花を指していた。

 ボクは画面を落とすと、きつく瞼を閉じる。あの少し怯えたようにボクの名前を呼ぶ()()の声に、微かに緩んだ表情に、どうしようもなく会いたいと思った。その感情が指し示す名前は、未だに解らないままだと言うのに。

 ────あの時、あたしを好きなアキが好きだと、そう言ったのは紫園だった。けれど、自分のためにどうしようもなくボロボロになる姿が好きなんだと言った紫園の言葉に、喜びを感じていたのも事実だった。紫園だけがボクの気持ちを肯定してくれる、紫園だけが、ボクがこのままであることを解ってくれる────そんな感情に、ボクが縛られていたことも事実だった。ボク達はきっと、互いが互いの理想の人物であることを望んでいた。この人だけは自分を裏切らないと、この人だけは自分を肯定してくれると、そう思う事で満たされていたのだ。……少なくとも、ボクは。

 本当はボクはあの時────紫園がボクから離れていってしまうときに、本当は心のどこかでほっとしていたんじゃないのだろうか。……捨てたのが自分じゃなければ心おきなく彼女を思うことが出来ると、そう感じていたんじゃないだろうか。捨てられた側よりも捨てた側の方がずっと責任が重いのだからと、本当はずっと、そう思っていたんじゃないだろうか。

 ボクは再び顔を枕に埋めると、浅く呼吸を繰り返して。苦しいときに何かに頼るように、彼女の────川蝉さんの声が聞きたいだなんて、どうしようもないことを考えてしまった。

 それでもボク達の関係は、友人と呼ぶにはあまりにも浅く、恋人とは程遠い────赤の他人から少し進展したような、そんな関係だ。……そう言えば、シオンの花言葉を聞いた時にも、あまり良い態度をとっていなかったな、なんてぼんやりと思い出す。思えばいつだって、彼女には恥ずかしい所を見せてばかりだ。



「────もっと君のことが知りたいなんて、そんなこと、言えるわけないよなぁ」



 腕を引かれた時の微かな衝撃を反芻しながら、自室の中で小さく零して。何とも情けない自分の言葉に、一人で苦笑してしまった。

 そのまま携帯電話を弄んでいると、[Fiaba]からの通知がついて。内容を伝えようと思いながら画面を開くと、そこにはまるで予想外の言葉が書かれていた。



『────()()()()



 返ってきたのはその一文だけで、教えて欲しいとも、もう知ってるよとも言われないことに疑問を持ちながら、『花言葉、もう知ってたの?』と返せば、[Fiaba]からは『いいや』と返ってくる。


『知らなかったよ、()()()。そうじゃなくて、君が花言葉を知ってくれたことが嬉しいんだ』


 [Fiaba]の言葉に疑問を持ちながら[どういう事?]と尋ねても、彼からはそれについての返事が来ることは無くて。その代わりに、『Aki』と向こうから言葉が返ってくる。



『誰も傷つけたくないから停滞することと、周りの人間を巻き込んで傷つけて、無理矢理にでもそこから変わること────本当に正しいことって言うのは、どちらのことを指すんだろうね』



 ボクはその言葉に、うまく言葉を返すことが出来なくて。当たり障りのない会話を二つ、三つほど[Fiaba]としてから、『またね』と言う言葉で会話を終える。微睡んでゆく自分の視界の中で何とかアラームをセットしてベッドの中へ潜りながら、不貞腐れた子供のように呟いた。



「────そんなの、ボクだって知りたいよ」



 湿った言葉はベッドの中に沈んで消えてゆく。無理矢理目を閉じると、微睡みの中へと自分が落ちてゆくのが解った。



 ────川蝉さん(かのじょ)だったら上手く返せていたのかな、なんて。そんなことを考えてしまう自分が、何だか酷く恥ずかしかった。



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