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君に捧げる花の名は、  作者: ???
トリトマ
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三十一輪

 ────アキは男の人になったら駄目よと言ったのは、紫園だった。「男の人はあたしよりも大きくて、力が強くて────そして、時々とても乱暴になって、女の人に怒鳴るのよ」と言った紫園に、「()()は女の人なんだから、男の人にはなれないよ」なんて笑えば、紫園は酷くほっとしたように微笑んで「そうね」と笑って目を伏せる。長い睫毛が彼女の白い頬を柔く縁取って丸い影を落としていた。

 誰もいないがらんどうの家は酷く寒々しくて、ボクが来ないときは紫園はたった一人でこの寒さに耐えているんじゃないか────なんて、そんなことを考えてしまう。考えたところで、どうしてあげることも出来ないと言うのに。


「────アキ」「ん?……どうしたの、紫園」


 彼女の柔い声に微かに笑って聞き返せば、紫園は小さく笑って「何でもないわ」と呟いて。「あたしはアキのことが大好きよ」と言って、甘えるようにボクの肩に頭を預けて目を閉じる。

 やがてソファーに座ったまま、ボクの肩に頭を預けて眠る紫園の長く柔らかな髪を指で鋤きながら、小さく溜め息を吐いて。縋るように繋がれた手を見てから、思わず微笑んでしまう。────ボクを真っ先に頼ってくれるのが嬉しい、なんて。そんなこと考えたってどうしようもないのになぁなんて考えて。小さな罪悪感から逃れるように、彼女から目を逸らしてぼんやりと窓の外を眺めていた。


「────紫園」


 柔い髪を反対側の手で鋤きながら彼女の名前を呟いても、気持ちが良さそうに眠る彼女から返事が返ってくることは無くて。ボクは小さく微笑んでから彼女の頭を自分の肩に浅くのせ直して。ボクよりも高いその体温が、柔く自分に浸み込んでくるのを感じながら、やがて瞼を閉じる。

 好きだなんてそんなこと、言えるはずもないよなぁなんて思いながら、どうか今はまだこのままでいて欲しいだなんて、身勝手なことを願ってしまう。

 微かに震える指先を気付かれないようにと願いながら、彼女の髪に優しく触れて髪を鋤く。


「────ボクが()()()になった方が君は今よりずっと楽に息が出来たのかもしれないよ、紫園」


 無意識に呟いた言葉に、「そんなことはあり得ないか」と自嘲して。吐き出した言葉にのせられた罪悪感を誤魔化すようにため息を吐いて、紫園の頭に自分の頭を預けると、そのまま静かに目を閉じた。



 中間テスト当日の朝、いつもより少し早めに家を出ようと顔を洗っていれば、私服を着た兄と洗面所で鉢合わせして。「おはよう」と声を掛ければ、兄も「おはよう」と返して、洗面所のスペースを半分空ける。


「ありがと」「おー」


 兄に礼を言ってから、洗面所で顔を洗って歯を磨いていれば、兄もボクと全く同じ手順で身支度をしていて。それが何となく面白くてふっと笑えば、兄は照れ臭そうに「なにニヤニヤしてんだよ」と言って、微かに笑った。


「晶、今日テストだっけ」「ああ、うん。中間テスト。部活はお休みだから、早めに帰ってくると思うけど」


 何か買ってくるものでもある?と言えば、兄は「いや」と言って。「俺は今日ゼミで遅くなるから夕飯はいらない」と言う兄に、「母さんたちに言った?」と言えば、兄は歯を磨きながら「言った」と短く返す。


「わかった。ボクそろそろ行くね」「おー、気を付けてな」


 二階にある自分の部屋に荷物を取りに行くために洗面所を出れば、兄は歯を磨いたままひらひらと手を振っていた。


「行ってきます」


 挨拶をしてから家を出て、アスファルトに舗装された道路を歩く。今日のテストで出る範囲を頭の中で暗唱しながら、改札にICカードを通して。何となく()────乙木君の姿が無いか辺りを見回してから、こんなに朝が早ければいるはずないかなんて思い直す。


 ────そんなに警戒しなくても、僕ももうテスト期間だから暫く君の前には現れることは無いよ


 あの後、宣言通り乙木君がボクの前に現れることは無くて。もちろん、約束通りボクの本名や住所がインターネット上に上がることも無かった。よく考えれば彼の言う通り、確かにそんなことをしても何一つメリットなんてないのだけれど。

 人がまばらな駅のホームで電車を待ちながら、何となく携帯の画面を確認して。買ったばかりの頃から何も変えていないロック画面をぼんやりと眺めてから、ディスプレイの電源を落として、小さくため息を吐く。やがて電車がホームへと滑り込んでくると、プシュと言う間抜けな音と共にドアが開いて、人がまばらな座席に座ると、今日行われる教科の教科書を開いて、髪を右耳に掛けて教科書に目を落とす。

 あれからずっと乙木君に会うことはなかったから、結局のところ乙木君があれほどシオンの花言葉にこだわる理由は解らずじまいのままだ。ボクもその意味を伝えてはいないのだから、結局同罪なのかもしれないけれど。

 小さくため息を吐いてから、ふと鞄のチャックを締め忘れていたことに気がついて。慌てて締めようと鈍く光る銀色のチャックに触れると、かさりとした紙のような感触がした。


「あ」


 小さく声を漏らしてからその感触の正体を手に取ると、微かに耳が熱くなるような気がして。洗濯したハンカチと、兄が出掛ける際に一緒に行った大きなデパートで買った、花の刺繍がされたハンカチが入った紙袋を、潰れないようにそっとリュックの中に入れた。

 ハンカチは園芸部の水やりの最中に、暴走したホースによって間抜けなことに水を被ってしまったボクに、川蝉さんが貸してくれたもので。洗濯した彼女のハンカチと、返却が遅くなったことに対するお詫びの意味も込めて新しいハンカチを購入した。淡い若草色のタオルハンカチに、薄紫色のエゾギクが刺繍されたタオルハンカチ。普段はいかない可愛らしい店内で、二時間ほど悩んだ末に買ったものだった。

 正体不明の高揚と不安から逃れるようにチャックを締めると、教科書の内容に没頭して。そのうちにすっかり、乙木君の話も忘れてしまっていた。



「ああー!疲れた!」「はは、ほんとだね。緊張してたからかな」


 放課後、テストを終えてぐぐっと伸びをした莉菜ちゃんに苦笑すれば、彼女は「あー!でも結果は見たくないなぁ!」と呟いて机に突っ伏して。「お疲れ様」と声をかければ、「晶ちゃんもねぇ」と呟いてへらりと笑った。


「でも晶ちゃん、頭良いからほとんど解けたでしょ?」「そんなことないよ、ケアレスミスとかあるかも。頭は日色の方がずっと良いし」


 教科書を鞄にしまいながらそう言えば、莉菜ちゃんは「ヒーローちゃん、ほんとになんでも出来るんだねぇ」なんて呟いて。それからふと教室の出入り口に目を向けると、「あ、優里ちゃんだ」と呟いて、慌てたように鞄を持つと「じゃあ晶ちゃん、また明日ね!お疲れ様!」と言って手を振って。それに手を振り返してから、鞄をもって教室を出て、リノリウムの廊下を歩く。

 テストが終わったからか、すれ違う生徒たちの顔は酷く晴れやかで。その解放感に少しだけ浮き足立つような気持ちで三組を覗けばちょうど帰り支度をしていた川蝉さんと視線が合って、彼女は少しだけ慌てたようにこちらへ向かってくると、「あ、あの、白石さんなら、たった今帰りました」と、少しだけ怯えたように目を伏せる。


「へ、あ、ちが、あの、君に用事があって」「わ、私に……ですか?」


 川蝉さんはそう言うと、少しだけ困ったように笑って。「なんでしょう?」と言う彼女に、ハンカチの入った紙袋を渡す。


「……その、前にハンカチを貸してくれただろ。ごめん、すっかり遅くなって」「……え、あ、そんな、わざわざ」


 良かったのにと言う彼女に、「そんな訳にはいかないよ」と苦笑して。「ありがとう、凄く助かったんだ」と言えば、彼女は酷く照れ臭そうに微笑んだ。


「……あ、ありがとうございます」「いえいえ、こちらこそありがとう」


 それじゃ、また明日ねとその場を立ち去ろうとすれば、きゅっと制服の裾を弱い力で引かれて。不思議に思って振り返れば、川蝉さんは少しだけ怯えた表情で「大丈夫、ですか?」と尋ねる。


「へ?」「……っ、あ、あの、前に塩瀬さん、少し様子が、」


 変だった、とは言いにくいのか、困ったように言葉を探す川蝉さんに、「ボク、そんなにわかりやすい?」と苦笑すれば、川蝉さんはふるふると頭を振って。「……その、わ、私のせいで何か不快な思いをさせたんじゃないかって」と言う言葉に、シオンの花言葉を彼女に尋ねた時のことを思い出す。


「え、あ、違うよ。……ごめん、あまり良い態度じゃ無かったね」「……っ、い、いえ。何も無ければそれで良いんです」


 ほっとしたように微笑んだ川蝉さんは、「……その、これ、ありがとうございます」と言って紙袋に触れて。「あ、いえいえ。こちらこそありがとう」と返せば、川蝉さんはほっとしたように、ふっと微笑んだ。

色素の薄い睫毛が、彼女の頬に柔い影を落としていた。笑ったときの面影は、どこか紫園に似ているような、けれど似ていないような気がした。

 ざわざわとする廊下にはっと意識を引き戻して、「じっ、じゃあボクはこれで!」と言うとくるりと踵を返すと、川蝉さんも戸惑ったような表情で、「あ、は、はい。ま、また明日。……その、ありがとうございます」と微笑んだ。

 テスト後だからか、部活を行っているところとそうでないところはちょうど半々くらいで。玄関で靴を履き替えると、ソフトボール部の掛け声が聞こえてきて。その元気な声にふっと息を吐いてから、靴を履き替えて昇降口を出る。何だか酷く息苦しくて深呼吸をすれば、青い葉の香りが柔く鼻腔に広がった。

 水色にほんの少し橙色と薄桃色を溶かしたような、何とも形容しがたい空の色が広がっていた。その色をぼんやりと見つめながら伸び始めた自分の髪を耳に掛けようと手を伸ばすと、手のひらが微かに自分の頬に触れる。



「────あっつ」



 思わず呟いた言葉は、帰宅する生徒で混み始めた正門の騒ぎの中に吸い込まれて消えていって。ボクは髪を耳に掛けると、右手にもった鞄を持ち直してから昇降口を出て、学園前駅までの道を歩く。恐らくクラスが違うのだろうか、見かけない高等部の生徒数人のグループが、明るく笑いながらボクを追い越していった。

ローファーがアスファルトの上で擦れて小さな音を立てて、その音にはっと意識を引き戻す。

 ────その時のボクは、未だその時に抱いた自分の感情に気付けずにいて。もうすぐ夏が来るな、なんて、ぼんやりと考えていた。心の中で静かに生まれてゆく熱の名前を、ボクは本当はもう知っていたと言うのに。



 ────あたしの事が「恋愛対象として好き」なのに、いつまでもあたしに隠すところが大嫌い



 今にして思えば、ボクは結局のところ、あの子の言葉から何一つ学んではいなくて。だからきっと、これは皆に自分の気持ちを隠し続けた罰だ。どうしようもないほどの熱を、本当の自分自身を隠し続けてきたことに対する。────そして、()()に対して感じていた気持ちの名前を、見て見ぬふりしたことに対する、罰のようなもので。……だから、今となってはこうなってしまったことも、全て自業自得だなんて思うのだ。


────()()()()ことよりも()()()()ことの方がずっと罪が重いことを、ボクはもうすでに知っていたはずだったのに。


不意に、携帯のバイブレーションが鳴った。端によって画面の電源を入れれば、通知欄に表示されたのは[Fiaba]の名前で。何だろうと思いながらも、後で返信すれば良いかと思いながら、携帯の画面をスリープモードにすると再び駅に向かって歩き始める。

────お伽噺の登場人物は、気づかない間に物語が始まってゆく。物語が始まってしまったら最後、登場人物はどれ程頑張っても物語の途中から抜け出すことはできない。


例えそれが、終わりに向かっていたとしても。


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