閑話 シオン③/橘 紫園
────紫園
お手洗いを済ませた後、洗面所で手を洗っていると、不意にアキが名前を読んだような気がして、思わず慌てて水道を止めてから後ろを振り返る。
けれど、そこに広がっていたのは人のいない廊下だけで。あたしは小さく息を吐くと、壁に掛かっているタオルで手を拭いてから、柔らかなタオル生地に顔を埋めるようにして息を吐いてから、洗面所を出て二階の自室へと向かう。茶色の階段を上って、廊下の突き当りにある自分の部屋の銀色の細いドアノブを引くと、アキは────乙木晶は、酷く難しい顔をして携帯電話の画面を眺めながら、画面に何かを打ち込んでいた。
「……何してるの?」
小さく声を掛ければ、彼は一瞬だけ驚いたような顔であたしを見て。そうしてから携帯電話の電源を落とすと、「お帰り。別に何もないよ」と言って、ティーカップに口を付けた。
何かを隠すような素振りに、一瞬だけ怪訝な顔をして。それでも、出来る限りお互いに踏み込まないように「そう」とだけ答えて、彼の向かい側に座る。あたしがティーカップに淹れたハーブティーは、ほとんど減っていなかった。
「さて、そろそろ勉強しようか。僕はまぁまぁだけど、君は出席日数が危ういからね」「仕方ないでしょ、起きられないの」
薬も飲んでるのにと言えば、アキはくすくすと笑い声をあげて。「君は賢いから大丈夫だよ」なんて無責任に続けられた言葉には、小さく微笑んで。「貴方ほどじゃないけど」と返せば、「生徒会役員が成績が悪くちゃ仕方ないからね」と笑った。
「今回の中間の範囲ってどこなの?」「数学は35ページ、英語は37ページ、国語は40ページ、歴史は38ページ、科学は36ページまでだよ」
淀みなくすらすらと語られる範囲に付箋をつけながら「ありがとう」と返せば、アキは「いいえ?」と微笑んでから眼鏡をかける。勉強や読書をするときはこちらの方が楽なんだと言っていたのは、付き合い始めてから少し経ったときだった。
数学の教科書とノートを開いて、白いページに数式の羅列を描いて余白を埋める。途中式を書きながら、そう言えばアキは数学が得意だったななんてぼんやりと思い出した。
昔から、彼女はどちらかと言えば頭の良い部類で。寝過ごして学校へ行けなかったときは、良く彼女にその日の勉強を教わったものだった。姿かたちは違っても、結局アキに勉強を教わるなんて、何処かおかしくてつい笑ってしまう。
アキは────いや、目の前の[乙木晶]は、そんなあたしの様子をどこか面白がるような表情で見て。「なに?」と尋ねられた言葉には、「なんでもないわ」とだけ返した。
「昔のことを思い出しただけ」「そう、それは良かったよ」
彼はそう言うと、再びノートに視線を落として。その表情は、やっぱりアキによく似ていた。
あたしはぼんやりとその様子を見つめながら、「ねぇ」と静かに声を掛ける。すると乙木君は、先程と同じような状況にくすくすと笑い声をあげて、「なに?」と微笑んだ。
「もう勉強飽きちゃったの、橘さん」「馬鹿にしないでくれる?そうじゃなくて、今日、本当に家に来て良かったの?」
そう尋ねれば、彼は少し怪訝そうな表情をしてから、「そうだけど、迷惑だった?」と尋ねて。あたしはそれに「違うわ」と返してから、「愛しの紫音さんに勉強を教えて貰わなくて良かったの?」と言えば、彼は「またその話か」とでも言いたげな表情をしてから、相変わらず何を考えているのかわからない表情で「紫音さんは僕のところには来ないって言っただろ?」と、言い聞かせるように静かに言った。
「わからないでしょ、貴方が頼めば教えてくれたかもしれないわ」「そんなことはあり得ないよ」「どうして」
あたしが尋ねれば、乙木君はにこにこと笑って。「兄貴が紫音さんの家に泊まったからだよ」なんて続ける。「だから僕のところには来ないんだ」と言う言葉に小さく溜め息を吐いてから「そう」とだけ返せば、乙木君は「おや」と意外そうに笑う。
「怒らないんだね、君は」「ええ。そう言うものだと思ってるから」
数式を解きながらそう言えば、乙木君は「そう」と言ってまた笑って。「君が頭の良い子で嬉しいよ」と彼が続けた言葉に「可愛げのないやつでしょ」と言えば、乙木君は「そんなことはないよ」と続ける。
「賢いことはいつの時代も長所であり美徳だよ」「そう、ありがとう」「はは、どういたしまして?」
乙木君はあたしの言葉に小さく笑って。それを見て、ふとあたしも笑ってしまえば、乙木君は意外そうな顔をしてから紅茶に口をつけて。それから「ねぇ」とあたしを見つめる。
「なに?」
あたしは勉強をしていた手を止めて彼にそう尋ねれば、乙木君はどこか真剣な表情で「君は、塩瀬に戻ってきて欲しいんだよね?」と尋ねて。何を今更、と思いながら「そうね」と返せば、乙木君は少し安堵したように笑った。
「良かった、それが聞きたかったんだ」「何を今更。いつも言ってる事じゃない」
呆れたようにそう言えば、乙木君は「そうだね」と笑って。「君はそう言う人だった」と安堵したように呟いた。
「ねぇ、シオンさん」「なぁに?……晶くん」
少しだけ困ったように呼ばれた声に「シオンさん」のように答えれば、彼は────アキはテーブル越しにそっとあたしの髪に触れる。
吐き出された言葉は、あたしと乙木晶なんて眼中にも入っていない言葉で。「好きだよ、シオンさん」と続けられた言葉に、「私も好きよ、アキくん」と返せば、彼はほっとしたように笑った。
ごめんと呟いたのはあたしだったのか、それとも目の前の乙木晶だったのかは解らない。あたしたちがこれからすることも、今していることも最低で。多くの人を傷つけるのであろう行為は、いつかきっと罰が当たる。
彼があたしの髪から手を離すと、彼とあたしはやがて互いのノートに視線を落として問題を解いてゆく。空っぽの代償行為が生み出すものはもうどこにもなかった。
「じゃあ、お邪魔しました。また学校で、橘さん」「ええ、またね。乙木君」
時計の針が七時を指した頃、「そろそろお暇するよ」と言い出した乙木君を玄関先まで見送れば、彼は酷く楽しそうにそう言った。にこにこと笑った顔は相変わらず何を考えているのか解らない顔で、だけど何を考えているのか解らないから落ち着くのかなんて考えてしまう自分自身に、心の中で苦笑してしまった。
乙木君が玄関を開ければ、五月の柔らかな風の匂いが肺に入り込んで。乙木君は「最近暖かくなってきたね」なんてのんびりと呟いて、「もうすぐ夏が来るね」と言った。
「夕食をきちんと摂るんだよ、橘さん」「ご心配どうも。……ほら、あなたも早く帰ったら?ご両親が心配してるんじゃないの?」
呆れたようにそう言えば、乙木君は「あの人たちは僕に関心が無いから良いんだよ」と呟いて。夜を呑み込んだような真っ暗なその瞳は、本当は何も映していないんじゃないかなんて考えてしまう。
「計画書は後でメッセージで送るから、何か気になったことがあれば連絡して。僕も何かあれば連絡する」「ええ、ありがとう」
そう言えば、乙木君は相変わらずにこにこと笑ったまま、「良いんだよ」と続けて。それから少し間を空けてから「橘さん」とあたしの名前を呼ぶ。その声がいつもとは異なってやけに消えてしまいそうな声だったから、あたしは出来るだけ「シオンさん」になりきって「なに?」と尋ねる。
乙木君は柔く微笑むと、「僕は橘さんに話しかけてるんだよ」と続けて。それから、やけに真剣な顔であたしを見つめると、「君は、」と言葉を続ける。
「────君は、君の失くしものが見つかったらどうするつもりなの?」
告げられた言葉はやけに真剣で、その目は酷く真っ直ぐだった。だからつい、あたしは彼の目を真っ直ぐに見つめることが出来なくなってしまう。
終わりの先なんて、考えたことは一度もなかった。まるで子供のように、アキがあたしのもとに帰ってくることだけを望んで、望んで、望んで────あたしにとって、それだけが生きがいだったのだから。
黙り込んでしまったあたしを見て、乙木君は微かに笑う。「冗談だよ」と続けられた言葉に小さく息を吐けば、乙木君は相変わらず底の見えない笑みを浮かべていた。
「────終わりを、あまり考えたことが無いの。あたしにとって、アキがあたしの傍にいることが当たり前だったから。だから、あたしはアキが戻って来たら「やっといつも通りの生活に戻れる」って安心すると思う」
暫く考えてからそう言えば、乙木君は「そう」と言って小さく笑う。「それは素敵なことだね」と続けた彼の表情は、少しだけこちらを羨むような子どものような表情だった。
「変なことを聞いてごめん。また明日、橘 紫園さん」「……ええ、また明日。乙木 晶くん」
そう言うと、乙木君は暗くなった帰り道に消えていって。その後ろ姿を完全に見えなくなるまで見送ってから、小さく息を吐いて家の中に入ると、玄関の鍵を施錠してそのまま自室へと向かう。
誰も帰って来ないがらんどうの家の中で夕食を摂る気にもなれなくて、自室に置いたままのティーカップとティーポッドをトレイにのせると、そのまま階下へ降りてからキッチンで洗う。スポンジに陶器が擦れて、きゅっと小さな音を立てた。
洗い物を終えると、食器布巾で拭いてもとの位置に戻してから二階の自室へと向かう。今更薬が切れてきたのだろうか、何だか酷く眠かった。
そのままベッドに倒れ込むように寝転ぶと、途端に睡魔があたしを呑み込む。自分の身体が、打ち上げられたばかりの魚のように微かに跳ねたのが解った。
夕食なんて摂らないに決まってる。声に出したその言葉は、眠気のせいでうまく形にならなくて。甘えたような鼻にかかった声が、漂うように部屋に浮かんでは沈んでゆく。
もうすぐ夏が来るはずなのに、誰も帰ってこない部屋は酷く寒かった。こんな日は何となくアキに────塩瀬晶に会いたくて堪らなくなってしまう。こんな酷く淀んでしまった部屋を、アキに見て欲しいと思う。あなたの所為だって、思い切り詰りたくなる。けれども同じくらい、こんな淀んだあたしを見られたくないとも思う。
アキ、と小さく呟いた。手を振りほどいたのはあたしなのに、都合が悪くなれば求めるなんて勝手なんだろうなんて、頭の奥深くで考えて。それでもそんなもの、もう今更なんだろう。
あたしにはアキしかいないのに。あの優しく穏やかで中性的で、そしてどうしようもなく綺麗な塩瀬晶しか居なかったのに。アキは勝手に一人で大きくなって、勝手にあたしを好きになって────そして、今度は勝手に星花女子学園なんて、あたしの知らない高校へ進学してしまった。
あたしはこんなにもアキが欲しくて欲しくて堪らないのに。今でも夢に見てしまうほど、彼女が愛しくて堪らないのに────それなのに、彼女はあたしのことなんてさっさと忘れて、新しい場所で新しい人間関係を築いてしまう。あの中学時代にあたしを置き去りにしたまま、アキは大人になってしまう。あたし以外の人がいる世界を知ってしまう。
あたしは瞼を閉じると、次第に微睡む意識の中で先程の乙木晶が言った言葉を思い返す。
────君は、君の失くしものが見つかったらどうするつもりなの?
あたしはその言葉に嘘をついた。目の前の乙木晶に弱い自分を見せたくはなかったから。いつか別れが来る人間関係に、すがりたくは無かったから。
「────本当はなくしものが見つかるのが怖いって言ったら、貴方は何て言ったのかしら」
まどろんだ意識の中で呟いた言葉は、水の中に浮かんだようにゆらゆらと漂って、やがて消えてゆく。掴めるようで掴めないそれは、アキに少しだけ似ていた。
────暫く眠ってから、ふと目が醒めると、時刻は夜の十一時を回っていた。夕食を食べ損ねたと思うのと同時に、そんな時間になっても誰も帰って来ない、いつも通りの家の中に小さく自嘲した。
まだ起きられているうちにシャワーでも浴びてしまおうとベッドからのそのそと起き上がると、ベッドボードに置いた携帯電話の受信ランプが光っているのを見つけて。不思議に思いながら携帯電話のパスワードを解除すると、そこには乙木晶からの計画書が送られてきていた。
見透かしたように「おはよう」と書かれた言葉に小さく舌打ちをしてから、送られてきた計画書に目を通す。七月中旬に書かれた星花女子学園の終業式と、あたしたちの通う市内の私立高校の終業式を照らした日程表では、僅かにあたしたちの高校の方が星花女子学園より一日ばかり終業式の日程が早くて。乙木君の計画書に書かれた注意事項では、夏休みに入ると塩瀬晶を捕まえにくくなるから行動範囲を絞ることが出来る夏休み前に実行したいとのことだった。
あたしは計画書に目を通すと、小さく溜め息を吐いてから携帯の呼び出しボタンを押して乙木君に電話を掛ける。何か疑問点があれば電話で解決してほしいと言っていたのは、彼だったように思う。
幸いにも乙木君はワンコール後で電話をとって。『もしもし、どうかした?』なんて白々しく言う彼の声に、畳みかけるように話す。
「塩瀬晶に[Aster]のアカウントからコンタクトを図る。塩瀬晶の友人の身の安全の保障と引き換えに、彼女がこちらへ通うように仕向けるってところ。晶の友人って言っても、規模が曖昧じゃない?誰なのよ」
あたしがため息交じりにそう言えば、電話越しの乙木晶はくすくすと笑い声を上げて。『それはまだ内緒だよ』と言う言葉に、小さく溜め息を吐く。
この人は、ビジネスパートナーとしては優秀なのかもしれないけれど────肝心なことを言わないのは、恋人としては最低な部類に入るんだろう。
「────わかった。後はあたしは質問はないわ」『おや、そう?わざわざ電話ありがとう。じゃあ、またあし────』
乙木君がそう言って通話を切ろうとした瞬間、電話越しに『アキくん!』と言う女性の声が聞こえて。乙木君はその声に一瞬だけ慌てたような音を立てると、ぶつりとあたしとの通話を切って。後に残ったのは、無機質なツーッと言う機械音と、誰もいない家の中だけだった。
「────シオンさん、ね」
あたしは切れた携帯をベッドボードに置くと、シャワーを浴びるために着替えを持って自室を出て。がらんどうのリビングを横目で見ながら風呂場へと向かう。その場所に両親が居るところは幼い頃からあまり見たことが無かったな、なんてぼんやりと考えていた。
熱いシャワーを浴びながら、最後に両親と話したのはいつだっけ、なんて考える。アキと一緒にいた時は、まだ両親も電話をしてきたような気もする。思えば公立の合格発表も、私立の合格発表も、どちらも乙木君と見に行ったな、なんて考えてしまう。「ご両親は来ないわけ?」なんて皮肉を込めて尋ねれば、彼は至って普通に「両親は僕に関心が無いんだ」なんて、まるで他人事のように呟いていた。
あたしと乙木晶は恋人で、友人で、そしてどうしようもなく共犯者だ。お互いが本当に愛されたかった人には愛されないまま、醜く歪んで肥え太った、相手に対するあまりにも大きすぎる庇護欲と愛情、そして依存心を持て余してしまっている。けれど、それを理解できるのはお互いしかいない。裏を返せばお互いがお互いの唯一の理解者なのだ。
だから、あたしと彼はお互いを身代わりにして、一番触れたいのに触れられない人に触れるのだ。近づけばあまりにも綺麗で、壊してしまいたくなるから。手に入らないと解っているのに、熱望してしまうから。
「自分が失くしものが見つかったらどうするのか────本当にわからないのは貴方でしょ、乙木君」
濁った言葉はどうすることも出来ずに、浴室の中へと沈んでゆく。吐き出した自分の言葉に、最もそれはあたしもだけど、なんて皮肉気に笑ってしまう。
「────アキ」
小さく名前を呼んでも、あの子があたしに返事をすることは無い。当然だ、だって、全部あたしが壊してしまったのだから。
覆水は盆に返らず、後悔は先に立つことは無い。あたしと彼が今からやろうとしているのはそんな自然の摂理に逆らうことなのだから、あたしたちはいつかきっと罰を受ける。
それでも、アキがあたしのもとへ帰って来てくれるなら、どんな罰だって受け入れられるような気がした。
「アキ、あたし、あなたのことが大好きよ。大切で、大好きで、愛してて────」
免罪符のように言葉を取り繕ったって、あたしと彼がしようとしていることは変わらない。だって、あたしも彼も十分に耐えたのだ。虐げられて、無視されて、空っぽだった人生の中で、唯一望んだものを手に入れたいと渇望することは悪いことではないはずだ。
────だから、と呟いてきゅっとシャワーを止めると、あたしはアキがいつも使っていたシャンプーを手に取って、にっこりと微笑んだ。
「────だからあたしは、あなたに傷ついていて欲しいのよ、アキ」
あなたを傷つける気持ちが怖くて仕方が無かったから、あの時はあなたの傍を逃げ出してしまったけれど。あなたがあたしの傍を離れて、一人で歩きだしてしまおうとするのだから、あなたを取り戻そうとするのは仕方のないことでしょう?
あたしはシャンプーを適量手のひらに出すと、長い自分の髪の毛を出来るだけ丁寧に洗う。アキが中学時代によくさせていた柑橘系の香りが浴室に広がった。
────アキ、アキ。あたし、あなたのことが大好きよ。あたしの世界には、あたしを崇拝する綺麗で可愛い王子様しかいないの。あなたはずっと、あたしに再会するまで綺麗で可愛い、可哀想な王子様でなければいけないの。苦しんで苦しんで苦しんで────後悔し続けなければいけないの。あたし以外の誰かを好きになるなんて、お伽噺から外れた行動を取ってはいけないの。……だから
────だから絶対にあなたを取り戻して見せるわ、アキ




