三十輪 オトギリソウ/乙木 晶
「────なにしてるの?そんなところで」
塩瀬と別れた後、近頃よくテレビで名前を見る大型企業「天寿」のシャンプーと、同じくテレビで良く見るアイドルの美滝百合葉の映ったディスプレイがでかでかと表示された駅の柱に凭れ掛かりながらぼんやりと塩瀬が駅を出てゆく様子を見送っていれば、不意に澄んだ柔い声が聞こえて。それにきゅっと口角を上げてから「別に、何もないよ?」と振り返る。
「委員会お疲れ様、シオン」「本当よ、テスト前なのに勘弁してほしいわね。園芸委員なんて大した仕事もなさそうだから入っただけなのに」
そう言うと、彼女────紫音は、酷く鬱陶しそうに溜息を吐いて、苛立ったように髪を耳に掛ける。そんな仕草は、相変わらず彼女に良く似ていた。
柔く指通りの良さそうな髪が彼女の背中で微かに跳ねた。毛先は緩く揺れて、そんな様子はあの人にそっくりだなんて笑ってしまう。
「だから一緒に生徒会に入れば良いって言ったんだよ。雑用以外の余計な仕事も回ってこないんだから」「雑用がすでに余計な仕事でしょ。あたしはあなたと違って目立ちたがりじゃないの、乙木君」
紫音は微かに苛立ったように溜息を吐くと、「それより」と小さく言葉を吐き出して。少しだけ憂いを帯びたように伏せられた長い睫毛が、白い頬を縁取る様子を見て、そんなところは彼女によく似てるだなんて思ってしまう。
「なんでいきなり駅で待ち合わせしようだなんて送ってきたわけ?暫くテストだから会わないんじゃなかったの?愛しの紫音さんが勉強を見てくれるんでしょ?」
皮肉気にそう笑う彼女に、「あぁ、やっぱりそんなところはちっとも似ていない」だなんて思って。くすくすと笑いながら、「紫音さんは暫く僕のところには来ないよ」と呟いた。
「そんなに気にしてくれるなんて、僕も少しは脈があるんじゃない?」「冗談じゃないわ。貴方みたいに性格のひん曲がってる人、こっちからお断りよ。その顔に生んでくれたご両親に感謝するのね」
そう言ってくすくすと楽しげに笑う彼女に、ほっと息を吐いて。「君は僕のことなんか最初からどうでも良い癖に」と言う言葉は、小さく飲み込んだ。
「紫音さん、兄貴と今は上手くいってるんだよ」「ふぅん、色々と面倒臭いのね、貴方の家も」
紫園はそう言ってくすくすと笑うと、長い髪を掬って耳に掛ける。柑橘系の香りが微かに鼻腔を擽って、そう言えば塩瀬も同じ香りがしたような気がするななんて考えて、ついくすくすと笑ってしまう。紫園はそれを見て酷く不愉快そうな表情をして、「何よ?」と尋ねるものだから。それに「何でもないよ」とだけ答えて肩に鞄を掛け直す。
「僕はテスト前だからって自宅に居るのも良くないと思うんだよね、紫園」「へぇ、心配してくれるの?」
紫園はそう言って意外そうな表情をして笑う。僕は横目でそれを見ながら「そうだね」とだけ答えて、彼女に向って手を差し出して。彼女はそれを見て、酷くおかしそうに笑った。
「恋人同士みたいね?」「はは、そうだね。そう見えていれば良いんだけど」
そう言って笑えば、紫園はその薄く形の良い唇を微かに綻ばせて。そう言えば、彼女の笑った顔なんてほとんど見たことが無いななんてぼんやりと考えた。
見えてるわよ、と紫園は呟いて微かに笑う。男子生徒と女子生徒が二人で居たら、交際してるって皆邪推するでしょう?と続けた表情は、何処か呆れたようだった。
「そうかな」「そうね。少なくとも、私が今まで出会ってきた人はそうだったわ」
馬鹿みたいでしょう?と、紫園は呆れたようにくつくつと喉を鳴らして笑って。そんなときの紫園の表情は年相応に見えて、その時の紫園を見るのが好きだった。恋愛感情としてではなく、あくまで対等な友人関係として。
「男女の友情は成立しないってこと?」「さぁ、どうかしら。成立するとも言えるし、そうでないとも言える。……ごめんね」
紫園はそう言うと空いた方の手で小さく口元を抑えて、小さく欠伸をする。それを見て一瞬、眠れていないのかなんて考えたけれど。余計なことは尋ねずに「そっか」とだけ答えて、アスファルトの上を歩いた。
五月の風は少しずつその姿を薄れさせようとしていた。微かに鼻腔を擽った若葉の香りに気が付いて、「もうすぐ夏が来るね」と言えば、「そうね」とだけ紫園も返した。
「あたし、夏は嫌いよ」「へぇ?それはまた、どうして」
表面上は酷く意外そうな表情をした僕を見て、内心「興味なんて無い癖に」とでも言いたげな表情をした紫園は、「アキが居なくなった季節だから」と言って。僕はそれに対しておどけて「僕?」と自分を指させば「貴方はここに居るでしょう」と返されて。それに対して「冗談だよ」と呟いて首を竦める。
「冗談だよ。塩瀬が居なくなったって、彼女を振ったのは君じゃなかった?」「正確には振ったんじゃないけど────そうね、アキを傷つけたのはあたし。だけど、アキに捨てられたのもあたし」
そう言った紫園に、「それはごめんね?」と謝罪にもなっていない態度で謝れば、紫園はそれに対して「別にいいわ」とだけ返す。
「あたしはアキが戻ってくればそれでいいの。やっぱりあたしが一番だったって、そう言ってアキが泣いてくれれば満足だわ。……だってアキはあの時、あたしを引き留めてはくれなかったんだもの」
僕は紫園の言葉に、「はは、君らしいね」と笑う。その言葉は酷く模範的で、こんな状況でさえそんな態度を取っているのはやっぱり異質なんだろうななんてぼんやりと考えた。
舗装された歩行者用通路に、僕と紫園の影が伸びていた。真っ直ぐでは無くほんの少し歪んだ影が僕たち二人を映し出していて。僕はそれを見ながら、「お伽噺では悪役は退場させられてしまうんだよな」と考えた。
退場させられた悪役の末路は誰も知らない。最後の数行で触れられる情報も正しいものであるとは限らないのだから、読者には結局悪役がどうなったのかなんて解らない。……違う、王子様も、お姫様も、果てはその国中の人も全て、悪役がどこに行ってしまったかなんて最初から気にも留めていないのだ。
テスト勉強しないとね、と紫園は呟いた。それに対して「そうだね」とだけ返して次の曲がり角を曲がれば、無機質なベージュ色の家が見える。表札に「橘」と書かれたその家の鍵を紫園が開ければ、室内は酷く静かで生活感が無くて、相変わらずがらんどうだった。
「どうぞ」「お邪魔します。……ああでも、手土産も何も持ってきてないな」
僕がそう言えば、紫園はその薄く形の良い唇を微かに歪めて「いらないわ」とだけ答える。「貰っても、あたしとあなた以外誰も食べないもの」と呟いたその顔は、相変わらず紫音さんによく似ていた。
紫園が紅茶を用意すると言い、それに対して「手伝うよ」と言えば、相変わらず紫園は何を考えているのか解らない表情で「いらないわ」と答えて、彼女の自室へ向かうように言われる。茶色の木目が見える階段を上がって、鈍く光る銀色の取っ手に手をかけて引けば、そこには丸テーブルとクッション、ベッド、そしてベッドボードには相変わらず塩瀬晶と紫園の写真が写真立てに収まっていた。
僕はそれを一瞥すると写真立てを伏せて、ノートと教科書を机の上に置いてから、携帯電話のメモ機能に残しておいた簡易的な計画書を開いて、そこに並べられた文字列を目で追った。
『────7月×日~×日、星花女子学園期末テスト終了(予想)。7月×日、星花女子学園夏休み開始。星花女子学園写真部、夏季休業中の活動記録は無し。夏季休暇中は活動が無いと思われる。生徒会の休みと星花女子学園の休みが被る日は、×日、○日、△日。塩瀬晶の家庭は毎年家族旅行は無し。夏季休業前に終えるのが妥当と思われる』
「……紫音さんの妹が星花女子学園に通ってて助かったなぁ」
とは言っても塩瀬とは入れ替わりで卒業したみたいだから、塩瀬は顔も知らないだろうけど。そんなことを考えながら、ふとSNSのアプリケーションを開いて。[Fiaba]のアカウントに残った、塩瀬との────[Aki]とのやり取りを見返した。
そこに連なった塩瀬の言葉は、どれもが善意に溢れていて。さぞご両親に愛されて育ったんだろうなぁなんてぼんやりと考えながら、指の腹で彼女のアカウント名を微かになぞる。
「────僕は君が少しだけ羨ましいよ、塩瀬」
紫園に愛されて、家族に愛されて、周囲に愛されて、温かい家庭で温かいご飯を食べて、両親がお互いを罵り合う声を聞かずに眠る。廊下ですれ違った兄に、嫌味を言われることも無いんだろうな。星花女子学園に行くのだって、彼女の家族の誰かが相談に乗ってくれたのかもしれない。お人好しで可愛いのと紫園に評される彼女の性格だって、そんな温かな家庭で愛されて育ったからなのかもしれない。
僕と同じ名前で、僕と同じあだ名で、僕と容姿が似ていて、だけど僕が手に入れることのできなかったものをすべて持っている彼女の存在は、その劣等感を刺激するには十分すぎるほどで。振り返った先で、彼女の人生には恐らく多くの人が待っているんだろうななんて考えてしまう。それを羨んだって、どうしようもないのに。
紫園は塩瀬のことを王子様だと評したけれど、僕はこの世には王子様もお姫様も存在しないことを知っている。いるのは生まれながらに愛情を与えられた人と、与えられなかった人だけだ。
コンコンと微かにドアをノックする音がして慌ててドアを開ければ、白いトレイを持った紫園がそこに立っていて。「手伝えなくてごめん」と返せば、「いらないって言ったでしょ」と返し、微かに笑った。
差し出されたカップに「ありがとう」と答えて口をつければ、柔いツンとした爽やかな香りが鼻腔を擽って。「なんの紅茶?」と向かい側に座ってカップに口を付ける紫園に尋ねれば、紫園は一瞬だけこちらを見て「ペパーミント」とだけ答えた。
「へぇ?好きなの、ハーブティー」「別にそう言う訳じゃ無いけどね。見かけると何となく買っちゃうの」
そう言って微かに微笑んだ紫園に「そう」とだけ答えて、まだ熱いハーブティーに口を付ける。その途中、不意に視線を感じて紫園の方を見れば、紫園はどこか懐かしそうな、それでいて少し諦めたような表情をして僕を────僕を通した塩瀬晶を見つめていた。
「はは、そんな顔しないでよ。大丈夫、失くしものはちゃんと戻って来るよ」
子どものようなその表情に苦笑してそう言えば、紫園はその澄んだ目を驚いたように見開いて。それから少しだけ不機嫌な表情で紅茶に口を付けて。それを見て、僕も紅茶に口を付ける。鎮静作用とリラックス効果があるその紅茶を通して見える姿が、なぜだか酷く居心地が悪かった。
「────それで?何でまた、集まろうだなんて言い出したわけ?」
お互いにテスト勉強を始めてから二時間後に、紫園は世間話のように────いや、彼女にとっては恐らく、世間話の一環として僕に尋ねる。
僕はシャープペンシルで英単語の書きながら、「恋人に会うのに理由っている?」と返せば、紫園も数学のワークを解きながら「少なくとも、あなたとあたしの間にはね」と素っ気なく返す。
「酷いなぁ。単純に君が好きで会いに来たとは思わないんだ」「ええ。だって、そんなことあったらいけないでしょ?」
紫園はそう言って微笑む。薄く形の良い唇が柔く弧を描いて、慈愛に満ちたようなその目は、僕を通した塩瀬晶を見ていた。
僕は紫園を見ると、小さく笑って携帯電話を取り出す。紫園はそこに綿密に書かれた計画に目を通すと、ゆるりと頬を緩ませた。
「────なぁに、これ」「見ればわかるだろ?僕の書いた物語だよ。なかなか良く書けてると思わない?」
そう言って笑えば、紫園は小さく笑い声をあげながら「すっごく悪趣味」と笑って。画面をスクロールして目を通しながら、「でも、あたしはこのお話が好きよ」と呟いた。
「可哀想で、格好良くて、可愛い可愛いアキにぴったり」
紫園は僕に携帯電話を返してから、まるで夢を見ているような顔で微笑んで。その顔はやっぱり、紫音さんによく似ていた。
紫園は立ち上がって窓を開けると、そのまま頬杖をついて窓の外を見る。どこかに花でも咲いていたのだろうか、微かに柔い香りが鼻腔を擽った。
「────アキは傷つくかしら」「さぁね。でも、多少のリスクはしょうがないよ」
紫園がぽつりと呟いた言葉に素っ気なくそう返せば、紫園は「そうね」とだけ答えて。その様子を暫く見てから、小さく溜め息を吐いて「紫園」と呼びかける。
「────ボクは君が一番好きだよ、紫園」
幼い子供をあやすような些細な戯れのようにそう言えば、紫園はゆっくりとこちらを振り返って「嬉しい」と笑った。
「────あたしを好きなあなたが好きよ、晶」
紫園はそう言うと、ボクの髪を柔く撫でて「お手洗い」とだけ残して部屋を出る。「どうぞ?」と言えば、紫園は柔く笑って部屋を出る。
僕はその後ろ姿を見送りながら、紫園に触れられた髪をそっと撫でて。掌に残る柔い熱の行き場所を探していた。
「────紫音さんは都合の良いときにしか僕に触れないんだよ、橘さん」
呟いた言葉はどこにもゆくことはなく部屋の中に静かに沈んでゆく。僕は小さく溜め息を吐くと、携帯電話のSNSのアプリケーションを立ち上げて、そこに映る塩瀬のアカウントを眺める。
「……君は本当、嫌になるくらい人に恵まれているんだな。塩瀬」
呟いたところでそれが彼女に届くことは無いし、僕の家庭環境が急激に良くなることもない。すべてはもうどうしようもなくて、だから多分きっと、この計画そのものも失敗するだろう。
僕はアプリを閉じると、再び計画書の作成に移る。とは言え、これは紫園に見せる予定はない計画書なのだけれど。
「────君も僕も、お伽噺みたいに最初から役割が決まっていれば良かったのにね。橘さん」
呟いたところで、それに答えてくれる人物はどこにもいなくて。僕は小さく溜め息を吐くと、逃避するように計画書を作り始める。
────ああ、願わくばどうか。この恋愛感情で、永遠に眠ってしまえますように。
そんなくだらない、子供じみた呪いを聞いているのは、塩瀬と橘さんの写真と僕と。そして────[Fiaba]だけだった。




