二十七輪
「おーわったー!」「はは、お疲れ様。中間テストももうすぐだし、授業もテスト対策が中心になってきたよね」
ボクは莉菜ちゃんにそう言いながら、先程配布されたテスト対策用のプリントをクリアファイルにしまって。そう言えばもうテストまでそんなに期間が無いななんて思いながら、帰宅するために荷物を鞄に詰めていた────時だった。
「わはははは!一年一組の塩瀬です!晶さんいらっしゃいますか?」
不意に、教室内に響き渡る大きな声に思わずぶっと噴き出して。莉菜ちゃんが視線を向けるのと同時に、ボクも教室の出入り口へ視線を向ければ、そこに立っていたのは同時期に星花女子学園に入学したいとこの塩瀬日色が立っていた。
日色はどうやら在籍している一年一組以外にも顔が広いようで、「ヒーローじゃん、どうしたの?」なんて問い掛けられる声に、相変わらず太陽のような笑顔で答えていた。
「────あっ、晶さん!あきらさぁぁん!」
ボクを見つけたからか、ぶんぶんと千切れそうなほど大きく手を振る日色に「聞こえてるよ」と苦笑して。彼女のところまで歩いていくと、日色のすぐ隣に黒髪の女の子が日色と手を繋いで立っているのが見える。
「晶さん!呼び出してすまない!今忙しくないか?」「大丈夫だよ。……ああ、初めましてかな。日色のいとこの塩瀬晶です」
日色に答え終えた後、その隣にぴったり張り付くように隣にいる女の子へと挨拶すれば、「……初め、まして」と、澄んだ声が静かに言葉を返す。
「……宵闇鈴香です。塩瀬さんと同じ桜花寮のルームメイトで恋人です」「わはははは!前者はあってるが後者は聞いたことが無かったな!」
目の前で繰り広げられる勢いのある会話に目を白黒させていると、「そうだ、晶さん!」と日色がこちらを向く。
「もうすぐ中間試験だろ?僕達これから勉強しようって言ってたんだけど、もし良かったら晶さんも一緒に勉強しないか?試験前だから写真部もお休みだろ?」
そう言ってにこにこと笑う日色に、「そうですよ。……一緒に勉強した方が楽しいかもしれないですしね」と宵闇さんが言葉を続ける。
「ああ、じゃあ────」
一緒に勉強させて貰っても良いかな、なんて続けようと口を開けば。酷く面白くなさそうな表情の宵闇さんとかちりと目が合う。
宵闇さんは「楽しいかもしれないですしね」なんて言いながらも、全く楽しそうな様子では無くて。ボクがその様子に気付いたことが解ったのか、薄い唇がおざなりにカーブを描いた。
「────何か」「……いや、何でもないよ。じろじろ見てごめんね」
慌ててそう言えば、「いえ」と宵闇さんは答えて。そのままじっとボクの方を見つめる。
「晶さん?」「……え、ああ、ごめん。あの、ボク友達と約束してるから、今日は遠慮するよ。折角誘ってくれたのにごめんね」
後半は宵闇さんの方を見てそう言えば日色は「そうか」なんて言って、しゅんとしたように肩を落として。宵闇さんはそれに「仕方ないよ」なんて言って日色の背中を擦りながら、ボクの方を見ると「ね、塩瀬さん」とにこりと笑う。
「あ、ああ、ごめんね。でも、夏休みになれば一度ボクの家に帰っておいでよ。兄さんも日色に会いたがってたし、一緒にどこか遊びに行こう」
日色にそう声を掛ければ、日色は「本当かい?」なんてぱっと目を輝かせて。「楽しみだなぁ!」と笑って。宵闇さんは、あまり面白くはなさそうな表情をしていた。
「────あれ」「……あっ」
日色達を見送ってから少し時間をずらして帰宅する途中に図書室前を通りかかると、ちょうど図書室から出てきた川蝉さんと目があって。ひらひらと手を振ると、彼女も少しぎこちなくこちらに手を振り返す。
「やぁ、君も今帰り?」「……は、はい。……あの、塩瀬さんは」
図書室へ何か用事ですか? と川蝉さんはぎこちなく首を傾げて。それに「ボク?」と返してから、ちらりと図書室の方を見る。
「ボクはもう帰るところ。……その、いとこに誘って貰ったんだけど、何となく人が多いところとか苦手で」
────でも、嘘ついちゃったから何となく申し訳なくてと言えば、川蝉さんは「嘘?」と問い掛ける。
「……その、友達と約束してるって言ったんだ。でも、本当はそんなことしてなくて」
だから申し訳なくてね、なんて続ければ、川蝉さんは少しだけ驚いたように目を見開いて。その表情が珍しくて小首を傾げれば、彼女ははっとしたように口元を押さえる。
「……ごめん、なさい。……その、少し意外だったので」「意外?」
そう言って首を傾げれば、川蝉さんはこくりと頷いて。「……その、塩瀬さんって、割とストレートに言葉を伝える方だと、思っていたので」と続ける。
はにかむような表情で言われた言葉に、思わず頬に熱が集まってくるのを感じて。誤魔化すように耳に触れながら「そう、かな」と呟いた。
「ボクはあまり、正直な人では無いと思うけど」「……人はみんな正直ではない、です。……その、性格ではなくて言葉、が」
そう言って微かに微笑む彼女の表情に、思わず初めて会った時の熱がぶり返して。赤くなる頬を誤魔化すように俯きながら、「ボクはそんなに正直な人じゃないよ」と返した。
「罪悪感があるなら、嘘なんて最初から吐かなければ良かったのにね」
ボクはいつもそうなんだなんて、ついいつもの癖で自虐的に笑ってしまう。入学してから一カ月程度経った、まだ新しい上履きがきゅっと音を立てた。
そう言ってから、つい言わなければ良い余計な愚痴まで彼女へ言ってしまったことにはっと気がついて。慌てて取り繕うように笑えば、川蝉さんは同じように少しだけぎこちなく笑った。
「────なぁんてね。ボクってばなに話してるんだろう」
引き留めてごめんねと言えば、川蝉さんは左右に首を振ってから、その色素の薄い長い睫毛を伏せて。白い頬を睫毛の影が柔らかく縁取るのを、ぼんやりと見ていた。
橙色に染まり始めた空が緩やかにボク達のいる廊下を染めていた。空を見ると、本当はどこにも行けるはずがないのに、自分もどこかへ行けるような気がするのはどうしてなんだろう。
ボク達は互いに、微かな沈黙を踏みつけていて。それを離したのは────ボクの方だった。
「ごめん、じゃあボク、帰るから。……その、君もあまり遅くならないように帰った方が良いと思うよ」
じゃあ、気を付けてと言ってくると向きを変えて。そのまま廊下を歩き始めた────時だった。
弱い微かな力がボクの制服の袖を引いた。それに驚いて振り返れば彼女は怯えたように目を伏せて、それから細く小さな声で「……そんなことは、ないです」と呟いた。
「────私、は。塩瀬さんとお話しするのは、楽しいです。……その、傷つけられたって思うことも無いです」
そう言って再び俯いた彼女に、「そっか」とだけ返して。彼女も、それ以上の言葉は望んでなかったように思う。────だから、
「────っ、あ、あのさ」
思わず少し大きな声で勢いをつけてそう言えば、川蝉さんは少し怯えたように肩を震わせて。それに慌てて「ごめん」と言えば、彼女はふるふると左右に首を振った。
「……その、また────」
頬に熱が集まってくるのが解った。跳ねるような、何処かそわそわとして落ち着かないような気持ち。だけどどうしようもなく、泣き出してしまいそうになるほど優しい気持ち。
「────また、君の育てた花を見に行っても良いかな」
少し屈んでから彼女と目を合わせてそう言えば、川蝉さんは驚いたようにぱちぱちと瞬きをして。色素の薄い長い睫毛が、白い頬を柔らかく縁取った。
僅かに流れる沈黙に、少しだけ気まずいような気持ちになって。「やっぱり────」と口を開こうとした時だった。
川蝉さんは今まで見たことのないような、酷く嬉しそうな表情をして。笑うと少しだけ幼くなるその表情をぼんやりと見つめていれば、薄桃色の薄く形の良い唇がゆっくりと弧を描いた。
「────はい」
その表情が、どうしようもなく優しかったから。暫くぼんやりと眺めていれば、川蝉さんのその言葉にはっと意識を引き戻した。
頬に熱が集まってくるのが解った。いつもより微かに騒がしい心臓を宥めるように深呼吸してから「良いの?」と尋ねれば、川蝉さんは「もちろん」と柔らかく微笑む。
「────その、花に興味を持ってもらえるの、とても嬉しい、ので」「────そっか」
そう言ってから、まっすぐにこちらを見つめる色素の薄い瞳から目を逸らすように俯いて。「そんなこと言って貰えるなら、ボクも嬉しいよ」と呟いた。
廊下の窓がどこか開いていたのだろうか。五月の風が柔く吹き込んできて、ボクの少し伸びた髪と彼女の焦げ茶色の三つ編みを微かに揺らした。川蝉さんは「暖かく、なってきましたね」なんて言って、微かに目を細める。
「帰る途中だったのに、引き留めちゃってごめんね」「……い、いえ。あの、そんなに遠くは、無いので」
────塩瀬さんも帰る途中、だったんですよねと微かに俯きながら彼女がそう言って。「そう。電車通学なんだ」なんて言えば、川蝉さんは少しだけ目元を和ませてから「……私も、です」と微笑んだ。
「────その、じゃあ途中まで一緒に帰らない?」
情けなく震える声を宥めるようにそう言えば、彼女は僅かに驚いたような表情をして。その表情に迷惑だったかななんて思って薄く口を開けば、川蝉さんはほとんど同時に言葉を出した。
「……本当は私、も。クラスメイトの人に、一緒に勉強しようって、言われてたんです」
川蝉さんはそう言って、微かに俯いて。その言葉に慌てて、「そ、そうなの?じゃあボク────」と謝罪を口にしようとすれば。
「────だけどやっぱり、まだ大勢の人と関わるのは、怖くて。だから図書館に用事があるって言って、お断りしちゃったんです」
だけど思ったより早く用事が済んでしまってと、川蝉さんは自嘲したように微笑んで。「だから、」と呟いた。
「だから、塩瀬さんに会えて良かった、です。……秘密、ですよ」
そう言った川蝉さんの焦げ茶色の緩く編まれた三つ編みが、彼女が少し俯いた動作に比例して微かに揺れる。シャンプーの香りだろうか、花のような香りが柔く鼻腔を擽った。
川蝉さんは肩に掛けた通学鞄を掛け直してから、緩く編まれた三つ編みの毛先にそっと触れて。そうしてから、ボクの方を見て少し微笑んだ。
「……駅、まで一緒に行きましょうか。……その、以前、塩瀬さんが花言葉を教えて欲しいって仰っていたのも、気になります、から」
そう言って微かに微笑む川蝉さんに「覚えてたの?」と驚いて尋ねれば、川蝉さんは少し照れ臭そうにはにかんで。「教えて欲しいって、言って貰えたの、初めてだったので」と微笑んだ。
そんな小さなことすら覚えていて貰えたことが嬉しくて。微かに緩む頬を隠すように俯いて、「そっか」なんて笑った。
「────じゃあ、その。……一緒に、帰ろうか」
照れ臭くなった気持ちを誤魔化すように、肩くらいまで伸びた片方の髪を左耳に掛けてからすぐに、それが失敗だったことを悟る。だって────
「────はい」
彼女の澄んだ柔らかい声が、やけにはっきりと聞こえてしまって。それに釣られるように笑ってしまったことを、誤魔化せなくなってしまったから。
二人で並んで、アスファルトを歩いて。夕焼けがボク達の影を伸ばして、そうしてひとつに重ねる。
────思えばボクは、その時酷く浮かれていて。だからきっと、気づかなかったのだ。
乙木君がシオンの花の花言葉を聞いてきたことも、ほとんど同時期に『Fiaba』がシオンの花言葉を尋ねてきたことも、シオンの学術名に似た名前である『Aster』がボクをフォローしたことも、本当は全てが最初からあの人の思い通りだったというのに。
────綺麗で純粋で誰にでも優しいから、嫌い
あの言葉の中に含まれた意味に気が付くことが出来ていれば。こんなに彼女を、苦しめることも無かったのに。




