二十六輪
────世の中には一定数、周囲と上手く生きられない人が存在している。大きな目に見えない流れに、うまく適応できないでいるのだ。
あの頃、ボクと紫園は間違いなくそうだった。周囲に合わせてうまく生きられないボクと周囲を威圧するように生きていた紫園は、九十九パーセントの中の一パーセントの異物でしかなくて。だから、お互いがお互いを苛烈なまでに求めたのも今となっては納得できるような気がした。
本当はきっと、彼女がいなければ生きられなかったのはボクのほうで。自分勝手に彼女を傷つけたことに負い目を感じているから、きっと何度も繰り返しあの頃の夢を見るんだろう。
依存して、執着して、傷つけて、傷ついて、なのにどうしようもなく求めずにはいられないなんて。傷ついたその顔に救われているなんて、本当はおかしいことくらい解っていたんだ。
────だから君がボク達の関係に疲れてしまったのも、今となっては当然だなんて考えたりもするんだよ、紫園
「ご、ごめんなさい」「いや、こちらこそごめん。よく見てなくて。怪我は無い?」
僅かに屈んで彼女の方を見れば、彼女は一瞬だけびくりと肩を震わせて。それから柔らかい小さな声で、「大丈夫、です」と呟いて、怯えたように目を伏せた。
長い睫毛が白い頬に柔らかな影を落とす。頬の曲線に沿って、色素の薄い睫毛が柔らかな影を落とした。
「……あ、あの、わたし、花壇に用事があって、」
微かに震えた声に、はっと意識を引き戻して。「ご、ごめん」と慌てて場所を空ける。
「ごめん、その、時間 大丈夫?」「……え、あ……。あの、ご、ごめんなさい。すみません」
────すみません、ごめんなさいと彼女は何度も何度も繰り返して。震える手を必死に隠そうとしているのか、左手で右手をぎゅっと握った。
近付いたと思えば離れてしまって、離れていったかと思えば少しだけ近づいたような気がして。曖昧な関係が解らなくて、どうしようもなくなる。
「引き留めてごめん、当番だったんだね」「……い、いえ……あの、ご、ごめんなさい」
そう言って、彼女は微かに俯く。焦げ茶色の三つ編みが、彼女が俯いた動作に比例して肩の上を滑り落ちた。
その様子に、ボクがいたら邪魔かなんて思って。「ごめん、ボク、ちょっと浮かれてたね」と言って、教室に戻ろうとくるりと踵を返すと、
「────っ、あ、あの」
くいと腕を引かれて思わず彼女の方を振り返れば、彼女も自分自身の行動に戸惑ったような様子で。「どうしたの」と返せば、「……あ、あの、」と、微かな声がゆっくりと言葉を紡ぐ。
五月の柔らかな風が、彼女の焦げ茶色の三つ編みを揺らした。「うん?」と出来るだけ優しく聞き返せば、彼女は目を伏せてから、薄い唇をゆっくりと動かす。
「……と、当番では、無いんです。……その、当番ではないって言うのは、今日が私の水やりの当番ではない、と言う意味では無くて、その、」
困ったように話をする彼女に「ゆっくりでいいよ」と思わず苦笑すれば、彼女は少しだけ怯えたように目を伏せて、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「……あの、お花の水やりは、朝と夕方の一日二回で良いんです。だからその、日中は花の状態を見ていて。む、虫食いとか、花を摘み取ったりとか。病気とか、どれだけ気を付けていてもなることもあります、から。あの、ですから当番ではなく、わ、わたしが勝手にしていることで」
そう言って目を伏せた彼女に、「そうなんだ」と返して。「じゃあ、引き留めちゃって迷惑だったかな」と言えば、「そんなことは、無くて」と困ったように呟いた。
「冗談だよ。……ね、迷惑じゃなければ、ボクも一緒に行ってもいい、かな」
そう言えば、川蝉さんは驚いたような表情をして「え……?」と戸惑ったような声を出した。
「……あ、あの、でも、塩瀬さんもご友人と一緒にお昼を食べたりしなくても、良いんですか?」
困惑したような声に、「ボクの机、今貸してるんだよね」と言って。手に持っていた歯ブラシセットを、川蝉さんの方へと見せる。プラスチック製のコップが歯ブラシとぶつかって、微かに音を立てた。
「────だからボク、今行くところ無いんだ。……その、君が嫌なら無理にとは言わないけど」
そんなことを言いながら、「酷い言葉だなぁ」なんて頭の中で呟く。だって実際、そんな風に言われて「嫌です」なんて断れる人もそうはいないはずで。ボクの言葉は、それを全部見越して言っているのだからたちが悪い。
川蝉さんは案の定、少し困ったように眉を下げて。「……そんな、ことは」と呟いた。
「……退屈だと、思いますけど」
そう言って目を伏せた彼女に、「そんなことないよ」と返して。少し屈んで、彼女と目を合わせてから、少しだけ笑った。
「────だってボク、君と一緒に居たくて友達になったんだ」
ね? と笑えば、川蝉さんは一瞬だけ、ぽかんとした表情をして。それから少しだけ、柔らかく微笑んだ。
「ボクにも何か手伝えることあるかな?」「……そ、そんな、園芸部じゃないのに」
川蝉さんとボクは、花壇の花の状態を見て回って。色とりどりの花をぼんやりと眺めていれば、川蝉さんは突然その場に座って、ポケットから取り出した園芸ばさみでガクごとを摘み取って。それに驚いて、「花、摘んじゃってもいいの?」と尋ねれば、川蝉さんは一瞬きょとんとした表情をしてから、ふっと表情を緩めた。
「……花がら摘みって、言うんです。……その、萎んでしまったり、咲き終わった花を残しておくと、新しい花が付き難かったり成長を阻んでしまったり、するので」
もうテスト期間だから、皆なかなか来られないので、と川蝉さんは呟いて。またちょきん、ちょきんと花を摘み取ってゆく。ボクはその様子をぼんやりと見つめながら、ふと疑問を口にした。
「────じゃあ、摘み取った花がらはどうするの?」
思わずそんなことを聞いてしまったのは、摘み取られた花がらがどこかどこにもいけないボクに似ていると感じたからで。だからそれを聞いた川蝉さんが、指の腹で優しく摘み取った花がらを撫でた意味も今なら少し解るような気がした。
「捨てるんです。もう花にはならないし、残っていても意味はないので」
川蝉さんはそう言うと、再びちょきん、ちょきんと花がらを摘んでいって。摘み取った花がらを、再びポケットから取り出したビニール袋へ入れる。摘み取られた花がらが、ビニール袋の中でかさりと微かな音をたてた。
木々の葉を擦れるような音が、風に揺れて静かに鳴った。微かに吹いた風が、彼女の焦げ茶色の髪を揺らしている。
「ならないのと、なれないのは、どっちが幸せだと思う?」
思わずそんなことを尋ねてしまったのは、ビニール袋に溜まった花がらが少しだけボクに似ているような気がしたからで。その言葉にしまったと思わず口を塞げば、川蝉さんはきょとんとした表情でこちらを見つめている。澄んだその目に居心地の悪さを感じて誤魔化すために口を開こうとすれば、彼女は無表情で他の花がらを摘み取ると放り込むようにしてビニール袋へ入れて、それからゆっくりと口を開いた。
「────私は、なれない方が、ずっと幸せだと思います」
澄んだ声が、静かに淡々と言葉を紡いだ。彼女の白い華奢な手が微かに手前に花を引いて、ちょきんと花がらを落としてゆく。ボクはその様子を、何とも言えない気持ちで見ていた。
ボクは本当は、花がらを摘まなくても良いことを知っている。ずっと昔、紫園と一緒に花言葉を調べていた時に、摘んだ方が他の花が綺麗で長持ちするが摘まなくても何も影響がないことを知っていたから。ボクでさえ知っているようなことを、彼女が知らないとは思えなかった。
だけど、彼女は花がらを摘む。咲いていても意味が無いと、花には「なれない」方がずっと幸せだと、そう言って花がらを摘むのだ。だから────
ボクは彼女が摘もうと手に取った花がらを、横から掬い上げるように手に取って。戸惑ったような声でボクの名前を呼ぶ彼女に、短く「それ、貸して?」と返した。
「……で、でも」「お願い」
再度頼むと、川蝉さんは少しだけ戸惑ったようにボクに鋏を渡して。「ありがと」と短く返してから、ボクは彼女がやっていたように根元から、ぶつりと枯れてしまった花を切る。
ぶつり、ぶつり、ぶつり、ぶつり、ぶつり。時々川蝉さんに「これは?」と確認しながら枯れた花を切って。やがて花壇の花は、彼女が処理をする箇所は無くなった。
こんなものかと一息ついてから川蝉さんの方を見れば、彼女は酷く戸惑ったような、それでいて少しほっとしたような顔をしていた。
「我儘に付き合ってくれてありがとう、川蝉さん」「……こちらこそ」
────ありがとう、ございますと彼女は囁くようにそう言って。それに「どういたしまして」としか返せない自分が、少し不甲斐なかった。
ガラガラと教室の戸を開けると、教室にはまだ莉菜ちゃんの姿も無くて。珍しいな なんて思いながら、教科書とノートを取り出す。テスト期間が近いせいか、教室に残っている人は皆が教科書を開いていて。ふと、窓際の一角に人が集まっているのに目を向けた。
「ね、泉見さん。数学の範囲、ここがどうしても解らなくて」「ああ、解りました。ここは────」
窓際の一番後ろの席に座って数名に勉強を教えているのは、泉見 司さんだった。確か前回の小テストもトップで、学年順位も一桁から落ちたことが無いと言っていたのは、誰だっただろうか。
「わ、泉見さんのとこ、凄いね」
ふと背後から驚いたような声が聞こえて。思わず振り返れば、莉菜ちゃんが酷く驚いたような顔をしていて。それに「おかえり」と返してから、「そうだね」と苦笑する。
「泉見さん、学年順位ずっと一桁に居るもんね。綺麗な顔だし、話し方は丁寧で優しいし、私が入ってる部活でも人気なんだよ」「そうなんだ」
ぼんやりと彼女を見ていれば、かちりと視線が合って。どこか観察するようなその視線に、思わず居心地の悪さを感じてこくりと息を呑めば、泉見さんはにこりと微笑んで。それからすっと、他の子に顔を向けた。
「あれ?」「どうしたの、晶ちゃん」
ぼんやりと彼女を眺めながら、いつもは泉見さん、絶対に向かい合わせでしか教えないのになぁなんて思いながら、「なんでもないよ」と莉菜ちゃんに返していると、やがてガラガラと教室の戸を開けて科学担当の教師が入ってくる。
「じゃあ、三十五ページを開いて────」
号令を済ませてから教科書とノートを開くと、板書を書き写していって。重要語句を赤字で書き写しながら、先程の川蝉さんとの会話を反芻する。
────私は、なれない方が、ずっと幸せだと思います
シャープペンシルで語句の説明を記入しながら、彼女の言葉を柔く食んで。本当にその通りだなんて笑ってしまう。
ボクはシャープペンシルで罫線の中に文字を埋め込みながら、微かに目を伏せて。「ボクもそう思うよ」と、先程伝えられなかった言葉を心の中でそっと返した。
────きっと彼女には、届かなかったと思うけど。