二十五輪
────ピコンと言う、微かに間の抜けた音に驚いて、思わず肩をぴくりと跳ねあげた。夕食と入浴後、メッセージが届くまでしていた国語の教科書とノートを放り出すようにして、携帯電話を手に取って。そこに通知された人物の名前を見て、思わずほっと息を吐く。『川蝉弥斗』と表示された名前と、アイコンに映る花の写真に思わず頬が緩んでゆくのが解る。
送られてきたメッセージは、『こんばんは。塩瀬さんで合ってますか』と言う内容で。その内容に、ついくすりと笑ってしまう。
『合ってます。こんばんは、塩瀬です。さっきは不躾な渡し方をしてしまってすみません』
メッセージを送る手が微かに震える。緊張と高揚感で吐き出しそうだ。
メッセージを送ってからも、既読が付くまで『もう少し気の利いたことを言えばよかったんじゃないか』とか、『さっきって言って、特に気にしていなかったらどうしよう』とか、また再びぐるぐると悩んでしまって。けれど、メッセージの受信を告げるランプが点滅する度に少しずつそんな気持ちも打ち消されて行って。
『そんな。私、あまり他のクラスの方とこうしてお話することが無いので、とても嬉しかったです。ありがとうございます』
柔らかく紡がれた言葉が、彼女の人柄と重なって。心の奥を擽られたような、何とも言えない擽ったい気持ちになって頬を緩めた。
────優しい人なんだろう、本当に。少なくともあの日、いくら友人である白石さんに呼ばれたからって、彼女があそこに来なければいけない義務も無くて。それでも、彼女はあそこに来て、ボクに会ってくれて、あまつさえこんな友人関係まで築いてくれた。
「────幸せだなぁ、ボクは」
ふと気を抜けば、つい頬が緩んでしまって、酷く浮かれた気持ちで返信を打った。もっと彼女のことが知りたいなんて思いながら、メッセージのやり取りを続ける。
川蝉さんはお花の中で何が好きなんですか? 全部好きです。花言葉とか 花言葉?凄いな。ボクはあまり詳しくないから────そこまで打ってから、後に続く言葉を打ち消して。少し迷ってから、ゆっくりと文字を打ち込んでゆく。
────じゃあ今度、ボクに花言葉を教えてくれませんか?
何となく調べられずにいるシオンの花言葉を思い浮かべながらそう送れば、"私でよければ"と言う返事が返って来て。それにほっと息を吐いてから、"ありがとうございます"と返せば"こちらこそ"と言う言葉が返って来て。ボクがお礼を言うべきなのになぁなんて苦笑すれば、それに続けるように送られてきたメッセージに小さく息を呑んだ。
────私を知りたいって言ってくれて、ありがとうございます
頬に熱が集まってくるのが解った。初めて会ったときに言った、やけに芝居がかったような自分の台詞を思い出してしまったから。
ボクは熱を持つ耳を画面越しで見えないはずの彼女に、まるで隠すようにそっと触れて。誤魔化すようにその輪郭を撫でながら、視線を左右にさ迷わせて。そうして悩み抜いた末に、結局当たり障りの無い言葉を、出来るだけ丁寧に紡いだ。
────こちらこそ、ありがとう
おやすみなさいと送れば、すぐに向こうからもおやすみなさいと返ってきて。ボクは携帯を充電器に差して伏せると、再び国語のワークと教科書へ向き合う。
四角の枠に言葉を放り込んで答えを導きだして。合っていれば丸を、間違っていればチェックマークをつけてゆく。
「────ありがとう、か」
微かに浮かんだ熱を振り払うように左右に頭を振って。過度なまでに謙遜をする、清潔な彼女のことを頭から無理矢理打ち消した。
大量に『Aster』からの通知が送られてきた日以降、『Aster』からのボクへの接触は気味が悪いほど全く無かった。全く無かった────と言うよりは、こちらが無理矢理接触を絶ってしまったという方が正しいのだけれど。
けれど、まるでそれを埋めるように『Fiaba』からのメッセージは増えていった。内容はとりとめの無いことだったけれど、探られるような妙な不安感が拭えないままだった。
ボクはキリの良いところまで勉強を終えると、ベッドへ倒れるようにして横になって、ゆっくりと瞼を閉じる。心地よい眠りが柔らかくボクを包み込んで、そのままゆっくりと瞼を閉じる。
頭の奥がふわふわとして、お腹の底が騒ぐようで。酷く浮かれていたその日は、なかなか寝付けないままだった。
────アキ!アキ、見て!
けらけらと笑う紫園の声に、はっと意識を引き戻す。ボクは紫園と二人で、中学校のプールにいた。それが夢だと気付いたのは、紫園が中学生の頃の制服のままプールの飛び込み台の上を歩いていたからだった。
蝉の鳴き声と真夏の夜の匂いに混じって、プール特有の塩素の匂いが鼻をつんと突き刺した。ボクは紫園が飛び込み台の上を酷く綺麗に歩くのを見つめながら、「危ないよ」と声を掛ける。
────危ないよ、紫園。プールに落ちたら怪我する。制服も濡れちゃうよ。それに、早く帰らないと君もボクも叱られる
彼女にそう声をかければ、紫園はけらけらと子供のような声をあげて笑って。「そうね」とだけ答えて、また飛び込み台の上を歩き出す。
紫園は、当時ボクたちの学校で指定されていた膝下までの白い靴下を履いて、ふらふらと飛び込み台の上を歩いていた。左に行ったり、右に行ったりと落ち着きがない。
ボクはそれに酷く胸騒ぎを覚えて。「紫園!」と、再び声をかければ、紫園は不意にぴたりと動きを止めてから、「なぁに?」とやけに大人びた表情で笑った。
────どうしたの?アキ。怖い顔
変な子ね、と紫園は笑って、少し前屈みになってボクの髪をさらりと撫でた。そんなことをする彼女を、夢の中でさえ酷く愛しく思ってしまう自分自身に、底知れない深くて暗い殺意を抱いてしまう。
紫園はそんなボクの顔を見て、やっぱり昔と同じように微笑んで。「いい子ね」と、ボクの首を柔く撫でた。
夢の中だからか、彼女の体温は解らなかった。いつだって彼女が夢に出てくる時は、そうだったように思う。
ふわりと、紫園のスカートが風に舞う。月の光を受けて、プールの水面はきらきらと光っていて。ヘドロのようなボクの心と対照的なその光が、何だか少しおかしかった。
過去の夢は、現実逃避の証だなんて良く言うけれど。それはあながち、間違ってもいないような気がした。
────どうしたの、アキ
紫園がボクの名前を呼ぶ。あの頃と変わらない温度で、笑顔で。彼女の恋人も、家族も、友人も、誰も彼もをその視界にいれないで、ずっとずっと、繰り返しボクの名前を呼んだ。
────アキ、どうしたの? 悩み事? それともお腹でも痛くなっちゃったの?
紫園は、酷く心配そうな顔でそう言って。ほんの少しあどけない顔がボクを覗き込んで、優しく頬を撫でた。
嗚呼、どうかもう許してくれ。痛みも、愛情も、何もかもをあの頃の君に捧げるから。どうかもう、ボクに君を忘れさせてくれ。
────ごめん、ごめん、ごめんなさい、紫園。もう二度と、君を好きになんてならないから、だからもう、ボクを許してくれ
思わず俯いて情けなく言葉を吐き出せば、それを聞いた紫園はすうっと表情を無くして、ボクの頬を柔く撫でてにこりと微笑んだ。
────だぁめ
紫園はそう言ってボクの喉をきつく締めて。それから少し手を緩めて、息を吐いたところをまた締めて。げほげほと情けなく咳き込むボクをやけに愛しそうに見つめながら、紫園は相変わらず、綺麗な笑みで言った。
────あたしを好きな貴女が大好きよ、アキ
そう呟いた彼女の声は、どこか泣いているみたいだった。
かばりとベッドから起き上がると、反射的に首もとに触れた。脈がぴくりと跳ねていることに安心すると、途端に酷く呼吸が苦しくなる。ひゅっ、ひゅっと、まるで自分のものではないような掠れた呼吸音がしていた。何度か浅く呼吸を繰り返すと、込み上げてきた吐き気に思わず口元を抑えてトイレへと駆け込んだ。
「……っ、げぇ、げほげほ……」
すべて消化してしまった空っぽの胃から出てくるものは、ただの胃酸で。酸っぱくて不快な匂いが鼻腔に入り込んで、それがまた余計に吐き気を誘わせた。
吐き気が収まると、便器に顔を突っ込むようにしていた体勢からのろのろと顔をあげて。生理的に込み上げてきた涙を乱暴に拭ってから、胃酸だけが出た便器の中を流す。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、」
何度も何度も、繰り返し謝罪の言葉を口にして。もうここにはいない紫園に────違う、紫園の形をした罪悪感に、繰り返し何度も謝っていた。
「晶ちゃん、今日具合でも悪いの?」「……そうかな、そんなこと無いよ」
四限終了後、教科書を揃えて机にしまいながら曖昧に笑い返せば、莉菜ちゃんは一瞬心配そうな顔をして。「そう?なら良いんだけど」と微笑んだ。
「テスト前で疲れちゃったみたい。もうすぐテストだし」
勉強しないとねと微笑めば、莉菜ちゃんは「ああー!言わないでよぉ」なんて顔を机に勢い良く伏せて。ボクはそれを見て、ふっと笑った。笑っているように、見えれば良いと思った。
「私の部活も、もうお休み期間なんだよね。晶ちゃんは?」「ボクのところもだよ。だから、今日は帰って勉強しようかなと思ってるところ」
そう言って鞄からコンビニのカップサラダを出せば、「そっ、そうなの?」と上擦った莉菜ちゃんの声が聞こえて。「うん」と返せば、莉菜ちゃんは「じっ、じゃあ私と────」とこちらへ身を乗り出して。その言葉の続きを待っていた瞬間、
「莉菜ー、いる?」
教室の出入り口から、莉菜ちゃんを呼ぶ声が聞こえて。タイミングの良いその声に、思わずぶっと噴き出してしまう。
「ゆ、由里ちゃん!どうしたの?」「なぁに?あたしが来たら駄目なわけ?」
そんなんじゃないよ!と慌てたように莉菜ちゃんは教室の出入り口まで行って。どうしたの?と尋ねる声が、微かに聞こえた。
聞き耳を立てるのも失礼かと思い、サラダを口に押し込めると、租借してからお茶で流すように呑み込んだ。そうでもしなければ、食欲が沸かないのを良いことに食べなくなってしまいそうだったから。
「────え、でも、」「良いでしょ?だって最近、全然一緒に食べてないし」
でも、とこちらを見る莉菜ちゃんに「ボクのことなら気にしないで。もう食べ終わるから」と言って残り半分になったカップサラダを無理矢理口の中に押し込めると、次の授業の準備をしてから、歯ブラシセットを持って席を立つ。
「ボク、歯磨きしてから────そうだな、園芸部の花壇を見に行くから。どうぞ、ボクの席使ってよ。授業の準備が邪魔だったら机の中にしまっておいてくれて構わないから」
そう言って席を立つと、「でも、」と莉菜ちゃんは困惑したようにそう言って。それに、「ボクは大丈夫だからさ」とだけ答えて歯ブラシセットを持って教室を出た。
歯磨きを終えると、口元をハンカチで拭って歯ブラシセットを入れ物に入れてから、「さてどうするかなぁ」とふらふらと廊下を歩く。昼休みが終わるまでまだ時間があるけれど、とは言え二人が仲良く昼食を取っているのにその中に入るのも邪魔だし、何より間抜けだ。勉強をしようにも道具は机の中だし、取りに帰れば彼女たちに気を遣わせてしまうに決まっているし────なんて考えながら曲がり角を曲がろうとすると、
「────わっ」「あっ……ご、ごめんなさい」
三組の教室の方から飛び出してきた人と、危うくぶつかりそうになって。慌てて避けようとするも、肩と肩が結局ぶつかってしまって。
「ご、ごめんなさい。怪我は────」「い、いえ、あの、こちらこそごめんなさい。そちらこそ、怪我は」
そう言ってかちりと視線が合わさった瞬間、澄んだ焦げ茶色の瞳と目が合って。その瞬間、今朝見た夢の続きが、ボクを呑み込んでゆくような気がした。




