二十三輪
────小学校五年生の頃、何を考えているのか解らない子だと親戚に言われたことがある。直接言われたと言うよりは、陰口のようなものだったのだけれど。
その時、ボクは隣の県に住む父方の祖父母の家に、お盆の帰省と称して遊びに行っていて。その時は、親戚を酷く嫌う兄と一日でも紫園と遊べなくなることを嫌がるボクを連れて、二日ばかり祖父母の家に滞在していた。
父方の祖父母の家は、ボクたちの住む市から高速道路を経由し、四時間ばかし掛かる市の少し奥まった方に家を構えていて。辺りは田畑と山、そしてたまに山から下りてくるらしい動物がいた。
祖父母はとても優しい人で、ボクたちが来るといつも冷えた西瓜と胡瓜の浅漬けをお茶請けと称して出してくれて。適量の塩を振りかけた西瓜をかじって、顎を果汁が伝う瞬間が好きで。ボクは、紫園と遊べなくて駄々を捏ねたことも忘れて兄と二人で縁側に座り、西瓜をかじっていた。
兄はと言うと、ボクと一緒に縁側に座りながら、高校に入学してから最初の夏休みで友人たちと遊ぶ約束もしてたのに────なんて、少し冗談めかしてボクにこそりと話して。「きったねぇなぁ」と苦笑しながら、ハンカチを取り出してボクの口元を拭った。
ボクはそれに甘えて、兄に幼い子供のように口元を拭ってもらったあと、夢中で西瓜を齧っていて。だから、兄が名前を呼ばれて席を立ったことに気付かなかったのだ。
────晶は、男みたいだなぁ。女の子なのに愛想も悪いし、あまり笑わないし。可愛げがなきゃ将来嫁さんとして貰って貰えねぇぞ?
兄が席を立った後、タイミングを見計らったように隣に座った親戚はボクの短い髪を一瞥するとそんなことを言って。女はもっと可愛くするもんだなんて言うその人に、幼いボクは言われた意味が解らず首を傾げて。それでも、恐らくその言葉に悪意が含まれていることには気付いていたから、「すみません」とだけ答えてその人がボクに悪意をぶつけることに飽きるのをただ静かに待った。
ボクはそれを、家族の誰にも話すことは無かったと思う。言われた意味は解らなかったけれど、恐らくそれを家族に話せば彼らと仲が悪くなることは解っていたから。
だから、心底嬉しそうな表情の兄とともに家族で地元へ帰ってきた後、その話をしたのは紫園だけだった。幼馴染としていつもボクの味方になってくれる彼女だったら、どこかボクの望む言葉を言ってくれるのではないかと言う浅ましい期待があったのだ。
期待通り、紫園はボク以上に酷く怒って。意味が解らない、古いのよ、おかしいでしょなんてボクが止めるまでありとあらゆる言葉で罵っていた。
────アキもへらへら笑ってちゃ駄目よ。そう言う奴はね、一回痛い目を見せないと懲りないんだから
そう言ってボクの頬を軽く引っ張った彼女の剣幕に、ついくすくすと笑ってしまって。彼女はと言えば、「なに笑ってんのよ」なんて呆れたようにため息をついていたけれど。
ボクは、彼女がボクのために怒ってくれることが、彼女がボクを叱ってくれることがどうしようもなく嬉しかったのだ。
────それはもう、伝えることも出来ないんだけど。
知らない音楽が耳元で鳴った。それを止めてからのそのそと起き上がる。懐かしい夢を見ていた。どうしようもない、もう取り返しのつかない夢。もう二度と戻れないのに、どうしてこんな夢ばかり見るんだろう。
「────最悪だ」
顔を手で覆って俯く。それは酷く息苦しくて、そして同じくらい息苦しいことにほっとした。
ベッドから降りて、パジャマのまま昨晩広げた教科書とノート、そしてペンケースを乱雑に鞄に閉まって。制服に着替えると、顔を洗うために自室を出た。泣き出しそうな顔を、誰にも見られたくなかった。
「おはよ、晶ちゃん!」「────うお。……はは、びっくりした。おはよう、猫山さん」
背中をとんと軽く叩かれ慌てて振り返ると、猫山さんが変わらずに猫耳を頭につけたまま、にこにことその場に立っていた。普段と違うのは、その猫耳がいつもの茶色ではなく黒色の耳だったことで。珍しいななんて思いながら、「それ、可愛いね」と言えば、「そう?ありがとう」と笑った。
「うん、いつも通り君に良く似合ってるよ」「……前から思ってたけど、さては晶ちゃん、結構女の子を泣かせているタイプ?」
苦笑しながら呟いた猫山さんの声に、「ええ?」とすっとんきょうな声をあげて。そうしてから、「そんなこと無いよ」と返して。「ほんとかなぁ」なんて笑う彼女に話題を逸らすように、「そう言えば白石さんから園芸部に遊びに来ないかって言われたんだけど、君は行く?」と尋ねれば、猫山さんは「あー……」と少しだけ気まずそうな顔をしてから、首を左右に振った。
「んん、行きたいのはやまやまなんだけど、ほら今月の下旬に定期考査があるでしょ?流石に勉強しないとまずいから、私はこの前お断りしたんだ────と言うか、今朝白石さんからも園芸部もそろそろ試験前の活動停止の準備でばたばたしちゃうから考査が終わった月末に変えてくれないかって連絡が来てたよ。写真部もお休みだし、私も真っ直ぐ家に帰ろうと思ってるんだ」「えっ?」
慌てて携帯を見れば、恐らく電車で移動中に来ていたのか白石さんからの通知が入っていて。なんだ、なんて少しだけ萎れた気持ちになってしまう。
「残念だよねぇ。白石さん、お菓子作るって張り切ってたんだけどなぁ」
そう言ってしおりとしてしまった猫山さんに、慌てて「でも考査が終わったらまた皆で集まれば良いじゃないか」と声をかければ、「そうなんだけどねぇ」と猫山さんは苦笑した。
「でもさ、いくら仕方がないことでも、その瞬間残念に思う気持ちも本当じゃない?」
そう言ってから、「ま、晶ちゃんの言うとおり仕方のないことなんだけどねぇ」と言う言葉には、うまく返せないでいた。
「おはよう、晶ちゃん!」「わっ、びっくりした。おはよう、莉菜ちゃん」
教室に入り自分の席に着くと、いつもより楽しげな莉菜ちゃんの声が聞こえてきて。それを聞いて「元気だね」なんて返せば、「そうだよぉ」と微笑む。
「……それは、もやもやが晴れたから?」
何の気なしにそう尋ねれば、莉菜ちゃんはぴたりと動きを止めて。微かに強張る表情に、しまったと思い慌てて口を開く。
「ご、ごめん。無神経なこと聞いて」「……んーん、良いの」
莉菜ちゃんはふっと微笑むと、「晶ちゃんだから、良いの」と呟いて。席に着いたボクの灰色のネクタイにそっと触れた。
「……ええと?」「ふふ、曲がってたよ?」
これで完璧と莉菜ちゃんは微笑んで。ボクはなんとも居心地の悪い気持ちで「ありがとう」と言えば、「いえいえ」と莉菜ちゃんは笑う。
「四月から気になってたけど、晶ちゃんはネクタイなんだね?」「ああ、そうなんだ。ボクのいとこが同じが良いって言ったから────ああええと、いとこは」
慌てて言葉を補足しようと口を開けば、「知ってるよ?有名だもん」とくすくすと柔らかく笑い声をあげる。
「『ヒーローちゃん』でしょ?私、前に一緒に落とし物探して貰ったことがあるの。でもほんと、最初は顔がそっくりだから双子かと思ったよ」
私の友達があの子のファンなんだよ、なんて彼女は笑って。そうなんだと相づちを返しながら、普通に話せていることにほっと息を吐いた。
「そう、日色。でも、みんな『ヒーロー』って言うけど、本当は────」
言い掛けてから、「でもこれは言わなくても良いか」なんて思い直して口をつぐむと、「本当は?」と聞き返す莉菜ちゃんに曖昧に笑い返して。
「────ごめん、何でもない。……ああそれより、考査がもうすぐだったね」「言わないでよぉ、忘れようとしてたのに」
そう言って頭を抱えてしまった莉菜ちゃんにくすくすと笑ってしまって。「でも君はいつも頑張ってるから大丈夫だよ」と言えば、莉菜ちゃんは少し驚いたような表情をして。そうしてからすぐに、「へへ」と笑った。
「────じゃあ、晶ちゃん。また明日」「ああ、またね。気を付けて」
そう返せば、莉菜ちゃんは「晶ちゃんもね」と柔らかく微笑んで。教室の出入り口で待つ高野さんの方へ小走りで近付いて。高野さんはと言えば、相変わらずボクを見て酷く不機嫌そうな表情になっていて。そんなに嫌われてしまっているのかなんて、少しだけ萎れた気持ちになる。……そんなことを考えたって、仕方が無いのだけれど。
────さて、ボクも帰ろうかな
写真部も用事も無ければ、特に学校に留まる用事も無いしなんて思いながら、鞄を肩に掛けると教室を出て。下駄箱で靴を履き替えると、正門の方へ向かって歩く。
ローファーがざりと音を立てた。どこか心地よいその音に耳を澄ませながら、正門へ向かって歩いてゆく────時だった。
携帯が低く唸り声をあげた。それを確認しようと立ち止まった瞬間、
「────あ、危ない!」「────え」
恐らく水圧が強くなっていたのだろうか、園芸部の水やりのためのホースがこちらへずるずると躍り出て。間一髪のところでそれを捕まえると、頭から水を被ってしまって。それでも栓をする方が先だと思いホースの先を指の腹で塞いで栓をすると、凄まじい勢いで吹き出していた水は勢いを止めて。アスファルトの上には、水が不思議な模様を描いていた。
「な、なんなんだ……?」
突然の出来事に驚く気持ちと誰もいなくて助かったと安堵する気持ちが混ざってほっと息を吐けば、「ご、ごめんなさい!怪我は」と慌ててこちらへジャージ姿の女子生徒が駆けてくるのが見えた。
「ごめんなさい、手が滑ってしまって……!濡れていませんか?」
何度も何度も頭を下げる様子に「気にしていないので大丈夫ですよ」と返して。「君こそ怪我はないですか?」と尋ねれば、「いえいえそれはもちろん!」と頭をぶんぶんと左右に振っていた。
恐らく園芸部なのだろうか、手には微かに土が付いていて。その様子に、以前川蝉さんたちが言っていた植え替えの準備をしていたのだろうと思い「ボクは大丈夫ですから」と答えて指に栓をしたまま彼女にホースを渡していると、
「────っ、だ、大丈夫です、か」
ホースが飛んできた方向から、微かに怯えたような澄んだ声が聞こえて。予想外の声の主に、思わず顔を声のした方向へ向ける。
花の香りが柔らかく鼻腔を擽った。甘くて、優しくて、そしてほんの少しだけ泣いてしまいそうな声。思わず力が抜けて、ふっと笑いを零してから彼女の方を見た。
「────君はいつも、ボクが辛いときに急に現れるんだもんな」
まるでヒーローみたいだよなんて零した言葉に、彼女はきょとんとした表情をしていて。何故だかそれが、たまらなく可笑しかった。




