二十二輪
────ヴヴヴ
携帯電話が低く唸り声をあげた。時計を確認すると、約束の八時半だった。そう言えば『Fiaba』は約束はきちんと守る人だったな。入浴と食事を早めに済ませておいて良かったと途中まで解いた数学の教科書とノートを机の上に投げ出したまま携帯を持ってベッドへごろりと寝転ぶと、ベッドが微かに軋んで柔らかなマットがボクの身体を受け止めた。柔軟剤の香りがするシーツの上で、画面の上側に表示されたメッセージマークをタップする。
『Aki。急にごめんね』「大丈夫だよ。それで、相談ってどうしたの?」
ボクがメッセージを送ると、画面の端に既読を示すマークがついた。画面がメッセージの受信を読み込む。ボクの家はネット回線があまり良い家ではないから、『Fiaba』と比べると返信に少々時間のずれが生じてしまうことも多かった。
『実は恋人が出来たんだ』「そうなの?おめでとう。良い話じゃないか」
そう返せば、少し間を開けてから『ありがとう』と来て。『ただ一つ問題があってね』と続けて送られる。
『その子、昔好きだった人のことが忘れられないみたいなんだ。それで最近、その子のSNSを見つけたみたいでね。ひたすらスタンプを送ったり、その子しかフォローしていなかったり────』「ぶっ」
何処かで見たような話だななんて驚いて、つい吹き出してしまう。けれど、実際にすれば馬鹿にされたように感じてしまう人もいるだろうから、画面越しで助かったなんてつい安堵して。それに少しだけ、罪悪感を感じた。
『それからその子が本当は自分じゃない人が好きなんじゃないかって気になって、最近あまり眠れなくて』
その文字に、思わず半身を起こした。思っていたよりも、ずっと深刻そうな悩みだったから。
「でも、君の恋人は君が好きで付き合ったんだろ?」『こっちは好きで告白したんだ。でも、彼女は違うかもしれない。他人の気持ちは、結局他人にはわからないものだろ?』
携帯電話は低くバイブレーションを鳴らす。そこに打ち出される「Fiaba」の言葉は、何処にも行けないボクに少しだけ似ているような気がした。
ボクは少し考えてから、「少し長い話をしても良いかい?」と言葉を打ち込む。「Fiaba」からの返信は無くて、けれど隅に既読のマークがついたことを肯定と受け取って、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
「ボクはずっと、優しい人になりたかった。なのに中学生の頃、一番大切だった人を傷付けてしまったんだ。それからずっと、他人に向き合うことが怖くて堪らない。だから、誰かを好きになることも、もうしないって思ってた」
ゆっくりと画面に打ち出してゆく言葉は、支離滅裂で。だけど、思考は静かに整理されていって。
ボクが打ち出してゆく言葉を、「Fiaba」は静かに待ってくれた。彼なのか、彼女なのかも解らないけれど。インターネット越しにこんな話で自分の気持ちを整理する機会があるなんて、なんとも不思議なことだ。
「だけど最近高校に行って、色々な人と触れ合って、怖いくらい毎日満たされているんだ」
そう送信すれば、『満たされるのは怖い?』と「Fiaba」から返信が届く。その文字に、そわそわと視線を左右にさ迷わせた。
────怖い、のだろうか。確かにそうなのかもしれない。怖いと言うよりは、むしろ申し訳ないと言う気持ちの方が大きいのだけれど。
「そうなのかもしれない。怖いと言うよりは、落ち着かないかな」『なるほど?生産性の無い会話に似ているね』
唐突に送られた言葉に、思わず吹き出してしまう。「Fiaba」がこんな冗談を言うなんて思わなかった。
「オチつかないってこと?」『おあとがよろしいようで』
淡々と送られてくる言葉が、やけに笑いを誘って。くくっと肩を震わせながら、「君がそんな事を言うとは思わなかった」と言えば、『そう?好きなんだ』と返される。
ひとしきり笑ってから、目尻に浮かんだ涙を拭って。ゆっくりと指を画面に滑らせる。
「君の彼女は、君のことが好きだと思うよ。単に懐かしくてフォローしたって可能性もあるだろ?……その、第三者が勝手に想像で言ってしまって申し訳ないけれど。君の言うとおり他人の気持ちはその人当人にしか解らないけれど、何も思っていない人と付き合うってことは無いだろ?」
そう言えば、『Fiaba』からは『そうだね』と返信が届いて。『ありがとう。夜遅くまでごめんね』と言う言葉に、ゆるりと頬を緩める。
「そんなこと無いよ。ボクで良ければいつでも相談して」『ありがとう。Akiもね』
そう言って会話を終了しようとした────その時。
『────Aki、最後にひとつだけ、君に聞きたいことがあるんだ』
その言葉遣いに、口調に、ある男子を思い出して。そんな訳無いかなんて自分自身に苦笑しながら、「どうしたの?」と返す。
既読を示すマークがぱっとついた。SNSがメッセージを読み込む。読み込み中を示す青色の三つに別れた点滅が、左側から順に点滅を始めた。
少ししてから、点滅が止まる。そこに写し出された文字に、強烈な既視感を感じた。
『シオンの花言葉って、知ってる?』
────シオンの花言葉って、知ってるか?
ひゅっと掠れた呼吸が出た。微かに震える手でどうしてと打ち込めば、既読がついたものの『Fiaba』からの返信は無い。
どうしよう。ひょっとしたらボクは、何か大きな間違いをしていたんじゃないだろうか。ひょっとしたら『Fiaba』と『Aster』は────
────携帯が低く唸り声を上げた。それにびくりと肩を跳ね上げてから、恐る恐る薄目で通知を確認する。
『恋人の嫌いな花だったから』「……へ?」
恋人の嫌いな花だったからどうしてって聞いたら、花言葉が嫌いだからって言ってたんだと『Fiaba』は続けて。だから君なら知ってると思ってと続けられた言葉に、思わず拍子抜けしてしまう。
「それだけ?」『うん』
そう返された『Fiaba』の言葉にほっと息を吐いたと同時に、思わず笑いが込み上げて来て。くっくっくっと肩を震わせながら、つい笑ってしまう。
「なんだよ、それ……!ふっ、ふふ……くっくっくっ!」
なぁんだ、と安堵して、「ボクも知らないんだ」と返せば『そう』と返ってきて。
「ボクも気になってたから、後で調べてみるよ」『そうか。こっちも後で調べてみる。遅くまでありがとう』
その言葉に、「いや、じゃあまたね?」と返せば、彼からも『またね』と返ってきて。その後に続いた言葉に、つい笑ってしまった。
『────君の幸せを願ってるよ』
そう言って終了した会話に、SNSのアプリを閉じて。ほっと息を吐くと、柔らかな微睡みがゆるりとボクを呑み込んでゆく。
シオンの花言葉を調べないとなんて思う気持ちと、明日は学校だし、もう眠らないとと言う気持ちがない交ぜになって。それでも結局、ボクの身体は眠気に抗えずに呑み込まれてゆく。
数学のノートと教科書、しまわないと。制服と靴下、明日着やすいように出しておかないと。
────もう良いか、全部明日で
明日の朝、少しだけ早めに起きようとアラームをセットして。ばふりと枕に頭を埋めれば、嗅いだことのある懐かしい香りがしたような気がした。
「────紫園」
もう二度と口にすることも無い、懐かしい名前を小さく呼んで。だけどやっぱり返事は来なかった。
懐かしい記憶ともう二度と触れることの無い熱に、その夜ボクは少しだけ泣いて。もしかしたら、いつか彼女以上に大切な人が出来てしまうかもしれないなんて。そんな当たり前のことが堪らなく怖かった。




