十八輪
改札に着くと、昨日の乙木君の姿をふと思い出して。思わずきょろきょろと辺りを見回せば、その姿が見つからないことに安堵して小さく息を吐いた。
改札にICカードを通すと、ピッと言う電子音が鼓膜を震わせる。最寄駅から星花女子学園までの最寄り駅が書かれたICカードが、日の光に照らされて微かに光っていた。
ホームに降りると、タイミング良く電車が滑り込んでくる。機械的な鐘の音に黄色い線の内側まで下がると、停止した電車がプシュッと言う気の抜けた炭酸のような音を立ててドアが開く。
変わらずに人がまばらな電車に乗ると、空いた席に座ってからぼんやりと反対側の窓から見える景色を眺める。夏が侵食し始めたこの時期は日が伸び、夜が短くなっていた。
ボクは徐に携帯電話の画面をつけると、再びそこに並び始めた通知画面を見て、つい眉間に皴が寄るのを意識せずにはいられなかった。
「…………またか」
通知画面は、新しい「Aster」からの通知を表示していた。ここ数日は何も投稿しては居なかったのだけれど、やはりかなりの量の作品を投稿していた為か、一日で全ては押し切らなかったのだろう。
スタンプはかなりの量に上っていた。通知欄には、もう既に「Aster」の名前しか載っていない。────ただ一つだけ奇妙な点を挙げれば、「Aster」はボクが投稿した一番最初の作品である「傷跡」には、どうしてかスタンプを押すことはなかった。単純に押し忘れただけかもしれないし、関心がなかったのかもしれないけれど。
「────っ、てて」
携帯電話の画面を眺めていると頭がずきりと痛んで。そう言えば昨晩は携帯電話の通知音が気になってうまく眠れなかっただなんて、ぼんやりと考えていた。
────Aster、か
ボクは頭の中で小さく呟いてからインターネットを開くと、ぽちぽちと「Aster」と画面に打ち込んで検索ボタンを押す。出てきた検索結果を指でスクロールしながら、どうしようもなく頭を掠める彼女の姿を打ち消すようにかぶりを振った。
────まさか、考えすぎだ。…………それに第一、証拠も無いのに彼女を疑うなんてそれこそ失礼だな。
「Aster」は彼女じゃない。……最近、映像関係の作品から色々な人と繋がる機会が増えたから、その中に「Aster」のような人物がいたとしても、何ら不思議なことではないだろう。
────まぁ、まだ実害が出ている訳じゃないしな。…………とりあえず、ボクと繋がっている人に被害が出ないように、暫く投稿と会話そのものは控えておくか。
ボクはSNSの設定画面を開くと、アカウントにロックを掛け、現在繋がっている人のみが閲覧可能な状態にすると携帯電話をスリープモードに落とした。
「晶ちゃん、なんか体調悪そうじゃない?顔色も悪いし」「────そうかな。もともとこんな顔だった気がするけど」
教室に入って席に着くと、莉奈ちゃんは挨拶よりも先にボクの顔色の悪さを教えてくれて。思わず自分の頬に手を添えれば、「全然違うよ」と少しだけ怒ったような表情でそう言った。
「全然違うよ。晶ちゃん、いつもはもうちょっとこう、口角を上げてるし」「そう?」
「あまり自分のことに興味がないから解らないな」と言えば、彼女は困ったような表情をして「大切にしてよ、自分のこと」と呟いた。
開け放された窓から少しだけ夏の香りを含んだ若葉の匂いが入り込んで来る。それは柔くカーテンを膨らませてから、たちまち霧散してしまう。
ボクはぼんやりとその様子を見つめてから、「風邪」と呟いた。
「────え?」「風邪気味なんだ。……その、昨日遅くまで定期テストの勉強をしててね。どうやらそれで体調を崩しちゃったみたいで」
そう言ってから、莉奈ちゃんの方を向いて。その柔い風が乱した彼女の髪に触れて元に戻せば、途端にその白い頬を朱に染めた莉奈ちゃんが、「────晶ちゃん、狡い」と呟いた。
「…………そう?」「…………狡いよ、晶ちゃんは。いつもそうやって、はぐらかして」
莉奈ちゃんはいつの間にか俯いて、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。肩の上を滑り落ちてゆく髪に隠れて、その表情は読めない。
ボクは莉奈ちゃんの様子に違和感を感じて「……莉奈ちゃん?」と尋ねれば、莉奈ちゃんははっとしたように目を見開いてから、慌てたように「っ、ごめんね」と微笑んだ。
「でも、何かあったらいつでも相談してね。だって、私達────」
莉奈ちゃんはそこまで言うと、一瞬だけ戸惑ったように視線をさ迷わせて。そうしてからゆっくりと深呼吸をすると、変わらずに困ったような顔で微笑んだ。
「だって、私達────友達、なんでしょ?」
その言葉に思わず息を呑んでしまったのは、それがあまりにも嬉しくて驚いてしまったからで。じわりとスポンジに水が染み込むように、胸の中に温かな気持ちが広がっていく。どうしようもなく優しくて、どうしようもなく温かい。
「────そうだね、ありがとう」
微笑みながらそう言えば、莉奈ちゃんは何とも言えない表情で微笑んだ。
「────じゃあ、晶ちゃん。また明日ね」「うん、また明日。気を付けてね」
莉奈ちゃんは「無理しちゃ駄目だよ」と念を押してから、教室のドアの前で待つ高野さんに手を振って去っていった。
以前気になって、彼女に何部に入部したのか尋ねられた際にボクも彼女に尋ねたことがある。そうしたら、彼女は少し困ったような顔をしてから、「バスケットボール部なの。……でもその、顧問の先生が凄く熱血でね。凄く練習量が多いから、お腹が空くのが難点かな」なんて言って笑っていた。
ボクは莉奈ちゃんを見送ってから、徐に携帯電話の電源を入れる。画面が明るく発光してから、何も通知が来ていないことにほっと息を吐いた。
受信トレイにいくつか未読通知が付いていたためそちらをタップすれば、ボクが急にアカウントにロックを掛けたことを心配してくれたのか心配するメッセージを送ってくれた人が居て。その中の「Fiaba」と言う人物からのメッセージをタップすれば、「久しぶりー」と言う文面が目に飛び込んでくる。
『久しぶり!アカウント、急にロック掛かっててびっくりしたよ。何かあった?』
「Fiaba」はボクがSNSを始めた頃から繋がっていた人で。本人も写真が好きなのか、よく女の子の後ろ姿の写真をアップしていた。
ボクはほっと息を吐くと、『久しぶり』とメッセージに打ち込む。恐らく同年代なのであろう「Fiaba」の親しみやすさは、SNSを始めたばかりの頃にボク自身とても安心したものだ。
『久しぶり。大丈夫、何もないよ。ちょっと気分転換でロック掛けただけ』
そう打ち込んで送信ボタンを押すと、部室に向かうために鞄を肩に掛けて席を立つ。肩につくかつかないかと言うところまで伸びた髪が五月の風に揺れた。
ボクは髪を耳に掛けると、廊下を歩く。リノリウムの床に上履きが擦れてきゅっと微かな音を立てた。
「失礼します」「あー!晶ちゃん!早いねぇ」
部室の戸を開くと、相変わらず早く部室に到着している猫山さんが振り返り、その明るい茶色の瞳を猫のように細めて笑った。
「猫山さんこそ早いね。ボクは一番早くつく順路で来ている筈なんだけど」「ふっふっふ、猫さんは抜け道をいっぱい知ってるんだよ。晶ちゃん」
五月に入ってからも、猫山さんは変わらずに明るくボクに接してくれて。お互いの写真の撮り方や、カメラ雑誌を見て「このレンズが欲しいけど高いね」なんて言い合っては笑っていた。
「ふふ、今度ボクにも教えてくれる?」「もちろん!」
お互いに顔を見合わせて笑えば、少ししてから部長が入ってきて。「君たちはいつも早いなぁ」なんて声に、顔を見合わせたまま猫山さんは微笑んだ。
「こんにちは!」「…………こんにちは」
カラカラと戸が開いて中等部の生徒達が続々と入ってくる。「こんにちは」と答えながらそれぞれの定位置へ座ると、部長はゆっくりと周囲を見渡してから、「みんな揃ったね」と言って笑った。
「今日は前から連絡していた通り、ジャージに着替えて写真を撮ろうと思ってるんだけど────どうかな、大丈夫?」
部長の連絡にこくこくと頷けば、「よし、じゃあ二人くらいで組んで自由に校内を撮影しに行こうか」と言って微笑んだ。
「晶ちゃん、一緒に撮影しない?」
女の子が多い為か、別室ではなくその場で着替えてしまうことも多く。ジャージの下を穿いてから、紐を引いてウエストを調節していれば、猫山さんにそう話し掛けられる。
「うん、もちろん。ボクで良ければ」「良かった!」
着替え終わると、カメラを首から下げて廊下を歩く。窓が開いているのだろうか、猫山さんの短い髪が風に揺れた。
「あったかくなってきたね。ふぁぁ、こんなに気持ちが良いと、校内の猫さんたちも昼寝してるのかなぁ」「はは、そうかもしれないね。時間があれば探してみようか」
ボクは腕時計にするりと触れながら、「とりあえず正門前に行こう」と猫山さんに伝えると、彼女もこくこくと頷いて、変わらずに頭に着いている茶色の猫耳を柔らかく撫でた。
昇降口から靴を履いて外へ出ると、五月の若葉の匂いが鼻を擽った。二人で校門前まで歩いていると、
「…………ね、晶ちゃん」「ん?どうしたの?」
ボクの前に立って歩く猫山さんが、するりとこちらを振り返って。茶色いその瞳を訝しげに細めた。
「────今日、何か変じゃない?」
その言葉に、思わず息を呑んで。「そうかな」と言えば、「そうだよぉ」と返される。
「────どんな風に?」「うーん……例えるならこう────」
猫山さんは目を訝しげに細めたまま、顎に手を添えて考える。薄桃色の薄い唇を撫でてから、「んん、例えるなら────」と再び言葉を紡いだ。
「────こう、怯えてる?みたいな感じ。母猫から離れちゃった子猫に、ちょっとだけ似てるんだ。アカウントにロックも掛けてたし、何かあったのかなーって」
その言葉に、思わず息を呑んで。それでも、動揺を隠すようにそれを呑み込むと、「そうかな」と微笑んだ。
「心配してくれてありがとう」「ううん」
「何もないなら良いんだ」と微笑んだ表情に、ちくりと罪悪感で胸が痛んで。けれど、心配を掛けないようにしないとなんて思えば、それを否定する気にもなれなくて。
「心配してくれてありがとう。────ボクは大丈夫だから」
そう言って笑えば、猫山さんは「ううん」と微笑んで。何も聞かずに微笑んでくれることが、どうしようもなく救いだった。




