十七輪
「────まもなく、××駅、××駅。お降りの際は────」
最寄り駅が近付いてきた電車のアナウンスに、ぼんやりと眺めていたSNSの画面から目を離して、かちりと電源ボタンを押して画面を消す。途端に黒くなった画面には、何処か無表情なボクが映っていた。
早めに学校を出られた日は、ちょうど帰宅ラッシュにぶつかる時間帯に最寄り駅に着くため、人の隙間を縫うようにして改札を出るのが常だった。
ICカードを改札に通してまばらになった構内を歩いていると、前から来た同い年くらいの年齢の人と肩がぶつかった。
「わ、ごめんなさい!」「いえ、こちらこそ────って、」
不自然に途切れた言葉を不思議に思って顔を上げれば、真っ先に視界に映ったのは真新しいローファーと黒と灰色のチェックで。その次に視界に映ったブレザーの左胸の校章で、目の前の彼が紫園と同じ高校に通っていることを知った。
「────塩瀬?久しぶりだね」
目の前で和やかに微笑むその顔は、何処か兄さんに似ているような気がした。
「────ええと、乙木くん、だよね?」「そう」
覚えていてくれて嬉しいななんて微笑む彼に、曖昧に微笑んで。「君も今帰りなの?」なんて尋ねれば、「そうだよ」と微笑んだ。
「塩瀬も今帰りなんだね。うちの高校を受けたんだとばかり思ってたんだけど────」
彼がちらりと見たのは、制服に着いている学年章だろうか。何処か観察されているような居心地の悪さに首を竦めながら、「色々あってね」と返した。
「ああ、そうなんだ。確かに色々あるよな」「────はは」
「そうだね」なんて曖昧に言って、「じゃあボク、急ぐから────」と言えば、「ああ、引き留めてごめんね」と彼はひらひらと手を振った。
「────塩瀬」「────何かな?」
そう言って振り返れば、「シオンの花の花言葉って、知ってるか?」と尋ねられる。
質問の意図が解らずに首を振れば、彼は「そう」とだけ言って、「ごめん、ありがとう」と言うと背を向けてボクとは反対側の出口に向かって歩いて行く。
残されたボクはそれをぼんやりと見送ってから踵を返し、彼とは反対側の出口へ向かって歩いて行った。
「────────あれ?」
その途中、ふと思い出してぴたりと足を止めた。乙木君はさっき「うちの高校を受けたんだとばかり思ってたんだけど」と言っていた。しかし、ボクは彼と中学時代そこまで親しい間柄ではなかったし、紫園と一緒になった図書委員の図書当番の日に何度か同じ当番にはなったものの、彼とは一度も同じクラスにはなったことが無かった。会話も当番の時に少ししただけで、友人間ほどの気安い付き合いもしなかったから、ましてやボクが彼が通っている高校へ行こうと紫園と話していたことなんて、彼は知らないはずなのに。
────まぁでも、誰がどこの高校を受験しようと思ってるなんて情報、いつでも出回ってしまって当然だよな
人の口に戸は立てられぬと言うし、ボクと当時の担任の先生の面談内容をたまたま聞いた生徒だっていたのだろう。そこから話が広がっていっても何ら不思議なことではない。
そんなことを思いながらぼんやりと歩き出すと、携帯電話が低い唸り声をあげて。画面を見れば、そこに表示されている人物は兄だった。
────思えばあれは、始まりの中の些細な一部にすぎなくて。人と言うものは思いもよらないところで繋がっているものなのだと常々思う。
────だから、
「────もしもし、兄さん?はは、心配しなくても大丈夫だよ。もうすぐ家に着くから。────うん、うん。じゃあ、また後で」
間抜けなことに、兄から掛かってきた電話にそう答え、のんびりと通話を終えたボクと、
「────もしもし?うん、ボク。ちゃんと今日の分の薬は飲んだ?…………そう、良かった。ああそう言えば、今日は面白いことがあったんだ。今日会うときに教えるよ。────うん、うん。解ったよ────」
「────紫音」
ボクのように振る舞う彼が電話を切ったタイミングは殆ど同時で。それに互いが気付かなかったのは、互いが反対側の出口を使っていたからにすぎない。
ボクと兄さんは、昔からとても顔が似ていると言われていた。幼い頃はそれこそ双子に間違えられてしまうほどには。
だから────だから、乙木くんが兄さんに顔が似ていると言うことは、それはつまりボクにも顔が似ていると言うことで。こうして振り返れば、自惚れでも何でもなく、ボクに顔が似ている彼が学校に居たならば、彼女が彼を身代わりにしようとすることは、酷く自然な流れのような気がした。
「清廉潔白な人なんて、世界中どこを探したって居ないのよ」とは紫園の言葉で。ボクはそれに対して「歪んでるなぁ」なんて笑えば、紫園も可笑しそうに笑って、「だってそうでしょう?」とやけに優しく呟いた。それはボクに言い聞かせているようで、その実自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
────人は自分の傷には敏感だけど、他人の傷には鈍感なものでしょう?
────だから、清廉潔白な人なんていないのと呟いた言葉に、ボクはどうしてだか上手く答えることは出来なかった。
「────おやすみ」
夕食と入浴を終えると、家族に挨拶をして自室へ戻る。ベッドの上に横になると心地よい疲れが押し寄せてきて、「もう今日はこのまま眠ってしまおうか」なんてゆるりと瞼を閉じれば、途端に視界は暗く包まれてゆく。
────ヴーッ
携帯電話の低い唸り声に驚いて、飛び起きるようにしてベッドから半身を起こす。ベッドボードに置かれたままの携帯電話が白く発光していた。
なんだよと何処か安心して携帯電話を手に取れば、どうやらそれはSNSの通知画面のようで。ここ数日は何も投稿した覚えもないのになんて思いながらアプリを起動すれば、通知の欄がびっしりと新着通知で埋まっていた。
────Asterさんがあなたの投稿にスタンプをつけました。Asterさんがあなたの投稿にスタンプをつけました。Asterさんが────
「────何、これ」
新しく投稿した映像作品から過去の映像作品まで、「Aster」と言う人物が付けたスタンプで通知欄が埋まってゆく。スタンプ、拡散、スタンプ、スタンプ、スタンプ────
震える手で恐る恐る「Aster」の投稿を見れば、投稿したものは何もなくて。そうしている間にも、通知欄が鳴り止むことは無い。
現在から過去へ、強制的に視界が動かされてゆく。鳴りやまない通知欄が、ボクの過去に侵食してゆく。
ひゅっと呼吸が微かな音をたてた。漠然とした何かからの悪意を感じ取ったからだ。
「────っ」
思わず携帯を放り出せば、携帯はフローリングの床に落ちてカシャンと耳障りな音をたてる。携帯電話はその間も、細かな振動を続けていた。
────どれくらい時間が経っただろうか。
鳴り止んだ通知音にほっと息を吐いて携帯電話を恐る恐る拾う。画面に亀裂が入っていないことを確認すると、携帯電話を粗雑に扱ってしまった自分自身に嫌気が差した。
震える指先で「Aster」のアイコンをタップして、ホーム画面へと飛ぶ。シオンの花がアイコンになっているそのアカウントの自己紹介に書かれた文字に、小さく息を呑んだ。
────綺麗で純粋で誰にでも優しいから、嫌い
「────っ」
書かれた言葉に、文字に、強制的に過去の記憶が抉り返されて。じくじくと滲んでゆく痛みに、生理的な涙が滲んでくる。
────これは偶然だ。彼女はとても優しい人だったから、こんな風に誰かを傷付けることなんてしないはずだ。そもそもこのアカウントを作ったのは彼女と別れた後で、名前も本名とは似ても似つかないアカウント名なのだから、彼女がこのアカウントを知ることは絶対に無いはずなのに。
「────偶然、だよな?」
通知音を切って、次第に埋まってゆく通知欄を見つめながらぼんやりと呟いた。
────懐かしい夢を見た。子供の頃の、幼い記憶の一端のようなものだ。
ボクと紫園は昔から、手を繋いだり寄り添ったりするような友人間でのスキンシップが多い方だった。とは言え、ボクから手を繋ぐわけではなく、紫園の方から手を繋ぐことが多かったのだけれど。
あの頃は確か、紫園の家庭が崩壊し始める兆候のようなものが見え始めていた時期で。だからこそ、紫園自身も不安だったのだろうと今では思う。
紫園はもともと、慣れた人以外を寄せ付けないようなところがあって。幸いなことに、ボクと紫園はほとんどのクラス替えで同じクラスだったから、小学校時代から中学校時代にかけて紫園と共に過ごす時間が一番多かったように思う。
とは言え、周囲からそれを受け入れられていたのも小学校低学年までで。高学年になると、次第に大人びてゆく周囲から取り残されたように手を繋ぎ続けるボク達は、どこか異物のように見られていた。
小学校高学年から中学生へかけての時期は、ちょうど思春期と重なっていて。だからこそ、周囲から向けられるその視線はどこか居心地が悪かった。
────なぁなぁ、塩瀬と橘ってさ、
だから、周囲が大人びてゆく中学生時代に、そう言った好奇の目を向けられることは、別に珍しいものではなくて。だからボクの斜め前に座る男子生徒が、興味本位で聞いてきた内容も、特別怒るべき内容でもなかった。────無かった、はずだった。
────もしかして、女が好きなの?
紫園はその話を後で聞いて、「馬鹿馬鹿しい」とその整った顔を歪ませたけれど。当時のボクはそれを軽く受け流すほど、性格の良い人間ではなかったから。
────黙っててくれないかな
そう言って笑えば、それを肯定と受け取られたのかはたまたボクの対応が気に入らなかったのか、翌日はクラスの片隅でヒソヒソと噂話をされるようになって。「馬鹿馬鹿しい」と紫園は呆れたようにため息をついてから、ペタペタと教卓の前までいくと、思い切り教卓を蹴り飛ばした。
────人の恋愛に影でこそこそ文句つけてるなら、今直接言いに来なさいよ
「ねぇ松木?」と、恐らくそれを広めたであろう男子生徒の方を見て微笑めば、彼はひきつったような表情をしていた。
耳元で知らないアーティストの曲が流れていた。ロックとも、ポップスとも似つかない曲。……なのに、どこか懐かしいような曲だった。
ボクはため息をついてからアラームを止めると、携帯電話の充電が残り少ないことに違和感を覚えて、SNSのアプリを起動する。
「────また…………?」
画面一杯に埋まっていたのは、Asterからのスタンプと拡散の通知だった。通知欄は相変わらず、Asterですべて埋まっている。
「────…………はぁ」
ボクは再度ため息をつくと、充電器のコードに携帯電話を差して、髪を整えるために洗面台へと向かう。
昨晩あまりよく眠れなかった頭が、じくじくとまるで脳を侵食するように痛んでいた。
「────顔色悪くないか?」
洗面台へと向かうと、先に兄が歯を磨いていて。「そうかな」と返してから、洗顔フォームを取り出して顔を洗う。
「────何かあったのか?」「────まさか。何もないよ、ちょっと疲れてただけ」
だから心配しないでと返せば、兄は少しだけ微妙な表情をしながらボクを見つめていた。
日付は五月に突入していた。制服を着替えるために部屋に戻ると、四月のままになっていたカレンダーを破ってゴミ箱へ押し込む。
────そう言えば、今日もまた放課後に撮影するんだっけ。
ふと部長が言っていたことを思い出すと、箪笥からジャージを取り出してジャージ入れに詰めた。
頭痛はますます酷くなり出していた。痛みを増していくそれに、次第に思考が奪われていく。
酷い夢を見ていた。何処にも行けないのに、もう戻れないのに、まるで逃げ出したボクを責め立てるようにいつまでも繰り返し見る紫園の夢だ。
────吐きそうだ
胃のあたりをゆっくりと擦ると、「大丈夫」と小さく繰り返し呟く。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫────…………」
────大丈夫、なわけないよな
「────っ、ごめん。ごめんね、ごめんなさい」
────君を好きになってしまって、君を傷付けてしまってごめんなさい。
ボクが女性でなかったのなら、きっと君が他人にからかわれることもなかった。ボクがもっと強い人間だったら、君が誰よりも強くなることもなかった。
────ボクが君を好きにならなければ、きっと君が傷付くこともなかった
全ての元凶はボクで、君を不幸にさせたのはボクだ。────だから、ボクはもう、誰かの特別を望んでしまうことはしてはいけないのだ。
ふと頭の片隅に、川蝉さんのことが思い浮かんで。それと同時に、あの日に自分が言ったこと|を思い出した。
────君が笑ってくれることを、知りたいんだ
────そうだ、あれは単なる友人関係の始まりにすぎなくて。川蝉さんが笑ってくれることも、友人には笑っていて欲しいからにすぎない。
好きになってはいけないと、呪いのように頭の中で何度も呟く。そうしてボクはボク自身に呪いをかけ続けるのだ。
────好きになっちゃいけない。必要以上に、相手に踏み込んではいけない。
────特別を、望んではいけない。
ボクは小さくため息を吐いてから、ジャージ入れを鞄に詰めていて。────だから、気付かなかったのだ。同時刻に、「Aster」がある言葉を投稿していたことに。
鞄にジャージ入れを詰め終えると、鞄を肩にかけて充電し終えた携帯電話をポケットに入れて部屋を出る。「行ってらっしゃい」と言う言葉に「行ってきます」と返して、青臭い葉の匂いを肺一杯に吸い込んだ。
『────光はいつだって、手に入れようとすれば簡単に消えてしまう。だから────』
『────だから私は、光が輝くことを許さない』