十四輪
「────まもなく××です」
無機質な声にはっと意識を引き戻して顔を上げる。慌てて立ち上がると、改札にICカードを通す。鼓膜は無機質な機械音を、なぞるように受け入れていった。
片道二時間の通学は、帰宅する頃にはもう帰宅ラッシュとちょうど重なる時間帯で。人と人の隙間を縫うようにして、自宅方面の出口へと向かう。
橙色の夕暮れが、駅構内をゆっくりと染め上げていって。その様子を見ながら、日が長くなったななんてぼんやりと考えた。
────……もう明日か
進んでいるようで戻っていて。戻っているようで、進んでいるのかなんて本当のところは解らないけど。
自宅方面へ伸びている舗装された道路を歩きながら、緩んでしまう頬に手を当てて伸び始めた髪を耳に掛けた。
四月に鼻腔を擽った柔らかな春の香りは、少しずつ青臭い葉の香りに変化していって。それはまるで、もうどこにもいないあの頃を手放してしまうようで、酷く寂しかった。
「ただいま」「おーお帰り」
バックの中で冷たい鍵の感触を探り当てガチャリとドアを開けると、既に帰宅していた兄がスーツ姿のままでソファーに沈んでいた。
「────兄さん、スーツ皴になるよ。ハンガーに掛けた方が良いんじゃない」
そう言ってハンガーを置くと、「すまん」とソファーから起き上がってハンガーにスーツを掛けた兄が「そう言えば、」と思い出したように言葉を投げた。
「────そう言えば、今日は早いんだな?」
不思議そうに尋ねる声に、「まぁね」と言葉を投げかけて。階段を上って二階の自室へ上がると、鞄を学習机の横に掛ける。その中から今日出た宿題を取り出すと机の上に置き、制服をハンガーに掛けた。
「────っくしゅっ」
着替える途中にくしゃみをしてしまい慌てて着替えを済ませると、小さく伸びをして階下へと降りてゆく。
────今日は早めに寝ようかな
お風呂と今日の復習を早めに済ませて、早めに寝て、明日は元気に「彼女」にお礼を言えるようにしたい。暗い顔でお礼を言ってしまっては、もしかしたら言葉そのものに誤解が産まれてしまうかもしれないから。
誰も傷つけないようにしなくちゃと、呪いのように言葉を紡いで。目の細かいネットで濾すように、伝えたい言葉を選んでゆく。
星花に通い始めてからと言うもの、転がった石の角が少しずつ丸くなっていくように、少しずつ心の奥が温かな気持ちで満たされることが多くなってきて。もしかしたらボクも────なんて、考えてしまった言葉に苦笑した。
────ボクも変われるかもしれないなんて、自惚れすぎか
そもそも変わりたいのかですら、解らないと言うのに。
馬鹿みたいだなぁなんて頭の片隅で考えて。再び包まれたふわふわとした感情にそっと蓋をした。
嗚呼、本当に厭になる。考えすぎだ。五月蝿い、そんなこと自分が一番解ってる。違う、解ってたらこんなに後悔ばっかりしないだろ。五月蝿い、解ってるから────
「────解ってるから、後悔ばかりするんだろ」
先に立たない悔いが後悔なら、先に立つものは戒めだ。戒めて、自分の首を事前に締めて、息を詰めてしまうことでやっと上手に心が呼吸をすることが出来る。それで彼女にしたことが赦される訳じゃないのに、そんなどうしようもないことに救いを見出だしている。そんな自分に、ほとほと呆れてしまった。
ゆるゆると首を左右に振って思考を霧散させてから、入浴用の着替えを持って階下へと降りる。ぱちりと電気を消せば、沈んだ暗闇の中の自分の部屋が、どうしようもなく虚しかった。
「────おやすみ」
入浴とあまり食べなかった夕食、そして家族への挨拶を済ませて二階の自室へと上がる。ぴんとシーツが張られたベッドに倒れ込むと、途端に睡魔が襲ってきて。もう今日はこのまま眠ってしまおうかなんて頭の片隅で考えてから、はっと起き上がっていやいやと頭を左右に振った。
定期考査も近くなっているのだから、あまりゆっくりしている時間は無い。今のところそこそこの成績をキープしているからと言って、それが勉強しなくても良い理由にはならないのだ。
小さく伸びをしてから学習机の椅子を引いて、机の上の明かりをつけてから苦手な国語の勉強へ没頭する。古文と漢文は得意だから、基本的には文章題を重点的に。
「────しっかりしなくちゃ」
しっかりしなくちゃ。真面目にならなきゃ。良い子でいなきゃ。誰も傷つけないようにしなくちゃ。
────誰かを傷つけるくらいなら、傷つけられる方がずっとずっと楽なんだ。
小さく呟いたため息は、ボクにしか聞こえなかった。
────じゅぐじゅぐと膿んだ傷を見つめている。血は止まったはずなのに、化膿して、何とも気味の悪い色になってしまった傷だ。
ボクはそれを見つめながら、どうしようもないなとため息を吐く。傷ひとつでこんなに引き摺ってしまって、情けないと馬鹿にしたように嗤った。
傷つけたから変わりたいだなんて尤もらしいことを言って。ついた傷には見ないふりをして。馬鹿馬鹿しい、ヒーローにでもなったつもりかよなんて、冷たい瞳で傷を見つめているボクに、ボクは声を掛ける。
「どうしていつもそんな風に自分を傷つけることしかしないのか」と問えば、ボクは怒りに燃えた瞳でこちらを振り返る。
────お前のせいだろと、静かに怒りを含んだ声で呟いた。お前のせいで、ボクはこうなってしまったんだろと。
────人を傷付けておいて、よくのうのうと「変わりたいなぁ」だなんて能天気に言えるよな。結局お前はいつもそうなんだよ。他者に寄生する虫と一緒だ
考え方が甘いんだよと吐き捨てるように呟かれた言葉に、「違う」と返して。「質問の答えになってない」と返せば、「五月蝿いな」と向こうも言葉を返す。
────お前のせいだ。お前が自分を傷付けることも、貶すことも、全部全部お前が招いたことだろ
「ボク」はそう言って、冷たい指先でボクの首を締め上げてゆく。理論は酷く滅茶苦茶で、あり得ないことで。なのに、そうかもしれないと思ってしまうのは一体どうしてだろう。
嗚呼、言葉は魔物でボクは人間だ。もとより勝てっこないんだよななんて、首を絞められながらぼんやりと考える。
「何か言ってみろよ」と、「ボク」が呟く。少し泣いているみたいだった。
ボクは指先を外して、ごほごほと咳き込んで。そうしてからゆっくりと、言葉を舌先にのせて吐き出した。
「ボクは────…………」
────耳元で、聞きなれた洋楽が聞こえていた。アーティスト名も、曲名すらも解らない曲。それをダウンロードした理由さえも、何処かぼんやりとしていて思い出せない。
ボクは画面をスライドしてアラームを止める。白く光を放つ朝日が窓から差し込んでいた。
「────勘弁してよ」
スリープモードにはいった携帯の画面に映し出されたボクの顔は、酷いものだった。
────ん。────きらちゃん。────あきらちゃん。
「晶ちゃんってば!」「────え」
ぼんやりとしていた意識を、莉菜ちゃんに名前を呼ばれたことで急速に引き戻す。
しまったと思った時には遅くて。慌てて時計を見れば、お昼休みだった。
慌ててノートを見れば、きちんと板書は書き写していて。けれど、詳しい説明や図解などは何一つ書かれていないままだった。
「────あ」「────大丈夫?何だか今日一日、ぼんやりしてない?」
悩み事でもあるの?と心配そうに尋ねる彼女に、「何でもないよ」と笑って。「テスト勉強で疲れちゃって」と、咄嗟に作り話が口をついて出た。
「そうなの?」と心配そうにこちらの様子を窺う彼女に、ちくりと罪悪感が生まれて。「心配掛けてしまってごめんね」と笑いかけてから、慌てて机の上を片付けた。
コンビニエンスストアのカップサラダを取り出したボクに、莉菜ちゃんは以前と同じように少しだけ眉をひそめて。「晶ちゃん、ちゃんと食べた方が良いよ?」と、心配そうにこちらに言葉を伝えられる。
「────最近、あんまり元気ないよね?」「そうかな?」
────ボクはちゃんと元気だよ。
「だから大丈夫。心配してくれてありがとう」と笑えば、莉菜ちゃんは少しだけ納得のいかない表情で左右に首を振った。
「────晶ちゃん、また明日ね」「ああ、また明日。気を付けてね」
────結局のところ、その後も調子が戻ることはなくて。何とも言えない気持ちを食みながら、白石さんから教えて貰った待ち合わせ場所へ足を進める。
「────………………折角、彼女に逢えるのにな」
昨晩見た夢の残骸が百鬼夜行のように自分の後ろを着いてくるような感覚を引き摺りながら、重苦しい感情を食んで苦々しい気持ちで歩を進める。
「いつだって、関係性の結論と言うものは出逢ったときから既に出ているの」とは、ずっと昔に「彼女」が言っていたことで。ボクはその言葉を聞きながら、「じゃあボクと君の関係性は?」なんて問おうと口を開いてしまいそうになるのを、ぐっと堪えていた。
春の匂いが薄れてゆく。脳の奥にひりつくような香りだけを残して去ってゆくその様子は、泣き出しそうなほど「彼女」に良く似ていた。
「────ええと確か────ここ、だよな」
結局迷ってしまってから、諦めて校内図を取り出して。手元の地図と見比べながら、あの時から少しだけ彩りを深めたその場所を見つめる。
────でもまさか、ここが園芸部の活動場所にもなっているなんて知らなかったな
白石さんから伝えられた言葉を頭の中で反芻して、小さく笑う。つまりは偶然にも、「彼女」との繋がりを持っていたと言うことで。何とも間抜けな自分自身に呆れてしまった。
甘く柔らかな花の香りが、鼻の奥に入り込んで。ゆるゆると脳を融かしてゆくような甘いその感覚が、酷く心地良かった。
彩りに溢れた花壇を眺めながら、「写真を撮りたいなぁ」なんてぼんやりと眺めていれば
「────あの、」
柔らかく控えめで、それでいて少しだけ低く澄んだ声が、ゆるりと耳を撫でて。聞き覚えのあるその声に思わず勢い良く振り返れば、
「────…………あの、塩瀬 晶さん、ですか?」
焦げ茶色の緩い三つ編みを春の柔らかな風がさらりと乱して。戸惑ったような、それでいて何処か怯えたような瞳がボクを見つめていた。
「────はい」
対するボクの声は、情けないほど震えていて。緊張でひりつく喉が、少しずつ言葉を積み上げてゆく。
「────初めまして」
緊張で震える掌をぎゅっと握って。ゆっくりとあの夢を振り払うように掌を開いて、目の前の彼女に差し出した。
「────初めまして。…………川蝉、弥斗さん」
震える声が何とかその言葉を紡いだ瞬間、目の前の彼女────川蝉さんは戸惑ったような瞳でこちらを見つめていた。