十二輪
────優しくしたい。愛したい。君が必要なんだって、その言葉に救われるのならば何度だってそう言いたい。何度だって言える、はずだ。
それでも、その言葉の効力なんて一時のものでしかない。小さな言葉にすがって寄り掛かって生きていれば、きっと何処かで綻びが生じてしまう。もっと、もっと、もっとって、再現なくその言葉を求めてしまう。
公園のベンチ。三丁目の田中さんが飼っていた、よく通行人に吠えるブルドッグ。ボクがその大声に驚いて転んでしまったから、君は酷くその犬を怖がっていたっけ。
真夜中に星を見たときの静かな水色の匂い。…………彼女のよく使っていた、花のシャンプーの匂い。「君の名前も花の名前なんだよ」なんて言って一緒にインターネットで調べれば、秋の花だって知ったときに君は酷く喜んでいたっけ。
ボクの世界はあまりにも彼女で一杯になってしまったから。根こそぎそれを取り出すだなんてあまりにも難しくて、最後は結局呼吸を止めることしか思い付かなくて。
────嗚呼、それでも。生まれて初めて星花を自分で選んで、優しい人に触れて、話をしたいなんて強烈に思う感情に触れて。少しだけ、変わりたいだなんて思ってしまったんだ。
君が居なくなってしまっても、映る景色があまりにも優しい色をしていたから。だから、だから少しだけ────
────君が居ない世界を、愛していきたいだなんて思ってしまったんだ。
「────…………じゃあ、少し早いけど顔合わせと説明はこれくらいにして、今日は解散にしようか。基本的には自由だから、空いているときにいつでもおいで」
部長さんの声にそれぞれが「はーい」とまばらに返事をして、ぱらぱらと解散の雰囲気が室内に流れる。────とは言え、部長さんを含めた上級生は片付けがあるとのことで残っていたのだけれど。
「────晶ちゃんはこの後どうする?私は特に用事も無いし、帰ろうかなって思ってるんだけど」
ぼんやりと一人でいたボクを気遣ってくれたのか、猫山さんはへらりと笑って。その表情に小さく笑い返してから、「うーん」と言葉を続ける。
「────気遣ってくれてありがとう。ボクも帰ろうかとは思ってるんだけど────」
ボクは小さく鼻を触って、指先でその鼻先を小さく掻いた。出来るだけ誠実に、彼女に言葉が伝えられるように。
「────折角だから、校内を色々と見て回りたくて。その、恥ずかしい話、ボクはよく校内で迷ってしまってね。このままだと誰かに迷惑を掛けてしまうから、時間が出来たらなるべく校内を歩いて把握しようと思ってるんだ」
この通り地図もあるしと手元のポケットから校内案内図を取り出せば、その書き込みに驚いたのか猫山さんは目を丸くする。
「────晶ちゃん、もしかして全部書き込みながら校内を回ってるの?」「うん、まぁ……。目印を書き込んでいった方が解りやすいって、ある女の子に教えて貰ったから」
何となく彼女の方を見れば、猫山さんは驚いたような表情をして。「一人で大丈夫?」なんて言う言葉に、急に恥ずかしくなって「大丈夫だよ」と言葉を返した。
「────まさか、校内がこんなに綺麗なのに放課後にお化けが出るなんてこともないだろ?」
すると猫山さんは、「あはは、そんな訳ないよ」と微笑んでから────すっと目線をそらした。
「…………?」「……いやっ、あの、ええっと……と、とりあえず下校時刻は過ぎないほうが良いと思うよ。きちんとした届けを出さないといけないって決まりがあるから」
なるほどそう言った決まりがあるのかと頷いてから、「教えてくれてありがとう」と言えば、彼女は「いいよ」と微笑んで。ずりと下がった鞄を肩にかけ直して笑う。
「────じゃあ私は帰って猫さんの写真を撮りに行こうかな」
またねと言う声にまたねと返して。彼女の姿が見えなくなってから、ぐいと体を反らした。
ぽきりと微かに骨が鳴る音がする。じわじわと広がる熱を感じながら小さく息を吐いた。
「ありがとうございました。失礼します」
挨拶をすませてから、鞄を肩に掛けて部室を出る。薄く消えてゆく花の香りを心の中で小さく食んで呑み込んだ。
────下校時刻までまだ時間があるな
教室から写真部までの道順はだいたい把握したから、今日は移動教室の道順を確認しようとくるりと向きを変えた────時だった。
突然、廊下の窓枠がびりびりと震えた。春風をつんざくような、お腹の中から沸き上がるような声。風にのって、どこまでも伸びやかに言葉が飛んで行きそうな声。
「なっ、何」
思わず窓の外を見れば、どうやらその声は一年三組の美滝 百合葉さんのもので。クマさんのぬいぐるみとか断片的な言葉が聞こえてくる────と、少ししてから校舎の中から勢いよく長い髪の少女が飛び出してきて。なるほど彼女が柳橋さんかと、二人の様子を見て考え至る。
────あまりじろじろ見るのも失礼か
ぼんやりとその様子を眺めてからはっと意識を引き戻して。地図と教室の位置を照らし合わせながら、少しずつ校舎の中を進んでゆく。
────友達になりましょうなんて、羨ましいな
真っ直ぐで優しくて、そしてどうしようもなく目映く輝いていて。あんな女の子になりたかったなんてつまらないことを考えては自嘲してしまう。もうそんなこと、考えたって意味がないのに。
「────…………もしも」
────もしも、ボクがもう少し明るい人間だったら。もしも、ボクが男の子だったら。もしも、もしも、もしも────
もしも────ボクがもう少し、彼女の痛みに寄り添っていられたなら。もしかしたらもう少し違った結末があったかもしれないなんて、馬鹿馬鹿しいことを考えてしまう。
考えたって意味がないことは、自分が一番よく解ってるのに。なのに、どうして────
「ぶっ」
ごちりと冷たい何かに顔を思い切りぶつけて。生理的に滲む涙に、はっと意識を引き戻した。
「わっ、すみませんでした。怪我は────」
慌てて謝ると、そこにあったのは冷たい灰色の壁で。何とも馬鹿馬鹿しい自分自身の行動に呆れて、「はは」と乾いた笑い声が出た。
情けない。馬鹿みたいだ、ボクは。他人と自分を比べたって、何一つ良いことなんてないって理解しているはずなのに。
物分かりばかり良くなって、感情は何一つそこに追い付けないままで。良い子ぶって常識人の振りをしたって、結局何一つ変わってないままだ。
首を掻いて血が出たって、彼女が救われるわけじゃない。首を絞めて呼吸を止めたって、あの日が巻き戻るわけじゃない。起こったことも、してしまったことも何一つ戻ることはない。そんなこと、解っているのに。
────解っていた、はずなのに。
頭を左右に振って思考を霧散させる。考えたって仕方のないことは、もうきっとどうにもならない。そう言って割りきらなければ、いつまでもボクはこのままだ。
「────大丈夫、だから」
────大丈夫。大丈夫。ボクは────……ボクは、大丈夫。
気休め程度の、自分自身にとって耳触りの良い言葉を小さく言葉を吐き出して、胃の辺りを優しく擦る。あまり食事を摂らなかったあの頃だって、変わらずに栄養を運んでくれた。
「────……大丈夫。大丈夫、大丈夫、大丈夫────」
ぶつぶつと呟きながら胃の辺りを擦り続ければ、複雑に絡んだ思考は煙のように消えて行って。そのことに、どうしようもなく安心した。
帰ろうと呟いて、もと来た道を引き返す。くるりと踵を返せば、まだ真新しい上履きはきゅっと微かな音を鳴らした。
その日の晩、風呂上がりに髪を乾かして、家族に挨拶を終えてから自室へ戻ると、メッセージの受信を知らせる白いランプがチカチカと点滅していた。何の気なしに手に取れば、パッと画面に浮かんだ名前に思わず息を呑む。
メッセージアプリが告げた送信者の名前は────白石 結さんの名前で。画面に浮かんだ言葉は、『夜分にすみません。今、お時間宜しいですか?』と言う文字だった。
こくりと息を呑んでから、携帯のロック画面を手に取ってスライドした後、パスワードを打ち込んで解除する。そうしてからメッセージアプリを立ち上げ、返事を打ち込んでゆく。
『返信が遅くなってしまってすみません。大丈夫です』
そう送れば、画面の左端に既読を示すマークが付いて。『ありがとう』と猫が嬉し泣きをしているスタンプが送られてくる。こんな一面もあるのかとくすりと笑えば、次に送られてきた言葉に息を呑んだ。
『明後日の待ち合わせの件ですが────』
その後に送られてきた言葉に、こくりと息を呑んで。冷たい画面の上で、指をスライドして返事を打ち込んだ。
『────わかりました。沢山手助けして頂いて、本当にありがとうございました』
少ししてからついた既読のマークで、会話が終了したことを確認して。アラームの設定を確認してから、かちりと電源ボタンを押す。画面が暗くなったことを確認してベットサイドに携帯を置いて。次第に暑くなってきた気候に寄り添うように薄くなった毛布を肩まで掛けた。
眠りに落ちる数秒前はどうしようもなく寂しい。暗い夜の中に一人ぼっちで落ちてゆくような感覚がして、酷く虚しくなる。────ああそう言えば昔、彼女もそんな事を言っていたななんて。再び彼女を軸に物事を考える自分自身に嫌気が差す。
────優しくしたい。愛したい。君が必要なんだって、その言葉に救われるのならば何度だってそう言いたい。何度だって言える、はずだ。
それなのに、ボクが生み出して吐き捨てる言葉はいつだって対照的で。優しくしたいのに、傷つけてばかりだ。
考えたって意味がない過去にばかり目を向けてしまうのは、本当は彼女のためなんかじゃなくて。傷付けてしまった事実から逃れたいだけなんじゃないかって、そんな事を考えれば再び罪悪感が鎌首をもたげてボクを呑み込んでゆく。
傷付きたいから傷付けるのか、愛したいから傷付けるのか。目的は違えど傷つけている事実は変わらないなんて、何とも滑稽で笑ってしまう。
苦しくて、悲しくて、寂しくて、そしてどうしようもなく痛い。だけどきっと、ボクじゃない「誰か」はもっと辛い。ボクが傷つけてしまった「彼女」は、もっと痛かっただろう。もっと苦しかっただろう。
ごめんと小さく呟いて、手の甲を瞼に押し当てる。
────ごめん、ごめん、ごめんなさい、シオン
君と幸せになりたかったなんて、君と新しい世界がみたかったなんて。そんな願いが全てが君を傷つけてしまうかも知れないなんて思わなかったんだ。ボクはただ────
ただ────君に、両手に持ちきれないほどの幸せをあげたかった。ボクが君によって肯定されたように、ボクも君の肯定の一部になりたかった。
「これは依存だ」ともう一人のボクが呟いて。「そうだよ、何が悪いんだよ」とまたボクが吐き捨てる。
嗚呼、こんなのはきっと依存にしかすぎなくて。だけど、彼女から貰ったものの全てが痛みだけではなかったから。捨てきれないまま、傷はぐじゅぐじゅと化膿していって、とうとう取り返しがつかなくなってしまった。
カリカリと首を掻いて、首に走った痛みにほっと息を吐いて。逃避のように痛みに思考をずらしてから、でも、と呟いた。
────シオン。でも、ボクは────
────ボクは、変わりたいんだ。変わるんだよ、シオン
ごめん。ごめんね、シオン。君を傷付けて、君を悲しませて、結局はこうして君を幸せになんて出来なかったままで。だけど、だけど、だけど────
────だけどボクは星花に行って、優しさに触れて。同じ優しさを返したいって、そう思ったんだ。
────貰った幸せを返したいって、そう願ってしまったんだ。君だけじゃない世界を見てみたいって、そう思ったんだ。
吐き出してゆく呼吸と、目を閉じたことにより霧散してゆく意識の隙間を食んで。そうしてから、ゆっくりと意識を手放してゆく。
沈んでゆく暗闇のなかで描いた彼女の表情は────どうしようもなく、綺麗だった。
このお話は百合宮 伯爵様作「∞ガールズ!」と一部重なっております。明るく優しく、そして少し切ない素敵な物語です。どうぞ拝読下さい
「∞ガールズ!」/百合宮 伯爵様
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