十一輪
────例えるのなら、それは小さな蕾のようで。名前も知らないまま、触れれば指先にちくりと微かな痛みを残していくそれは彼女の姿に酷く似ていて。そう思う度に、彼女が居なければ息も出来ないなんて、本当は刷り込みのようなものなんだと自覚する。
掛け算をすれば数が増えていくみたいに、お互いがお互いに理想を掛け続けていたら息も出来ないなんて当たり前だよな、なんて考えてしまう。
傷ついたつもりが傷つけていて。傷つけていたつもりが、傷ついている。
────…………嗚呼、こんな痛みを与えあう関係が恋だって言うのなら、いっそあの時に、首を締めて呼吸を止めてくれれば良かったんだ。
────そうすれば、もう二度と誰かを傷付けることも無いんだから。
カリカリと言うシャープペンシルの音に耳を澄ませて、設問のために開けられた四角い枠の中に言葉を放り込んでゆく。抜き出してゆく言葉は散らかったボクの言葉とは対照的で、理路整然とした物語から紡がれる言葉は酷く冷たくて、そしてどうしようもなく正しかった。
「────はい、そこまで」
国語科教師の加古先生が発した言葉にぴたりと動きを止めて。本当にその答えが正しかったのか、解説が少しずつ黒板の上で展開されてゆく。
────丸、丸、丸、丸、丸、
抜き出した文字と綴った自分の言葉が解答と同じ事を確認して、赤いボールペンで正解の印を付けてゆく。白い紙の上で赤い丸が並んでゆく様子を眺め、一番最後の解答欄へ視線を移す。
────問五、この主人公が他者を遠ざけた理由を十五文字で抜き出して答えよ
そこに付けられた印は────チェックマークだった。
「晶ちゃん、さっきの授業の答え合わせしない?」
授業終了後、ロングホームルームのために机の周りを片付けていると、斎藤さんがくるりとこちらを振り返って微笑む。その笑顔に微笑み返して、「もちろん」と言って。消しゴムのカスを捨ててくるね、と伝えて一度席を離れてから再び席についてノートを開き、互いの解答を照らし合わせてゆく。
問一、丸。問二、丸。問三、ボクは丸。莉菜ちゃんは三角。問四、ボクは丸、莉菜ちゃんは再び三角。問五────
「────晶ちゃん?」「────はは、ちょっと駄目だったみたい」
────問五、この主人公が他者を遠ざけた理由を十五文字で抜き出して答えよ
そこに付けられたチェックマークを訝しげに見る莉菜ちゃんに微笑み返して。いつもの癖で、再びそろそろと首もとに手を伸ばした。
────酷く息苦しかった。どうしようもない、答えの出ない問題をただひたすら解き続けてゆくみたいに。他者を遠ざけて、その癖見えない彼女の姿にいつまでもすがっているようで。
「────恥ずかしいなぁ、ボクは」
嗚呼、本当に嫌になる。こんなことを言われたら、目の前の彼女は否定してくれると頭のどこかで理解しているのだ。理解していて、それでも浅ましいボクの言葉は身勝手に言葉を吐き出し続けて。
そんなこと無いよと声が聞こえて。その言葉に、うんと返す。そんな自分自身にさえ、嫌気が差した。
────ごめん
頭の中で、姿が見えない彼女に何度も何度も謝って。呪いのように吐き出されてゆく彼女の言葉から逃れるように首を掻いた。
────ボクばかり、優しい人に囲まれて。ボクばかり、君を好きになって、
────君を傷つけて、苦しめてごめんなさい
「ごめん」と小さく呟けば、「間違えたって良いんだよ?」と莉菜ちゃんが言って。「嗚呼、本当にその通りだ」なんて、もう一人のボクが呟いて。
────正解も導き出せない癖に、良い子ぶって同情して貰おうとするなよな
不意に頭の中で「ボク」が呟いて。浅ましいんだよと吐き捨てるように呟いた「ボク」は、まだあの夏に立っていた。
ロングホームルームを終えると、重い体を引き摺るようにして写真部の部室へと向かう。運動部に入った莉菜ちゃんは、ロングホームルームが終わると同時に三組から走って来た高野さんに連れられて、部活動見学の際に行ったと言う陸上部へ引き摺られるようにして走っていった。
「────晶ちゃん、また明日ね!」「────…………うん、また明日」
ひらひらと振られる手に、ひらひらと振り返すと一瞬、きつい瞳でこちらを見る高野さんと目があって。どうすれば良いのか解らずに戸惑って頭を下げれば、彼女は心底嫌そうな表情でふいと顔を背けると、莉菜ちゃんを再び引き摺るようにしてその場から立ち去った。
はぁ、と溜め息を吐いて鞄を肩に掛け、椅子を机の中に入れてから教室を出る。頭の奥深くがずきりと痛んで、嗚呼そう言えばずっとうまく眠れないままだなんて考えて。脳裏でちらりと浮かんだ彼女の言葉を打ち消すように頭を左右に振った。
「────…………部活、行かなきゃ」
いつもの鞄とは別に持ってきた、肩掛けのカメラバックに目を向けて。リュックサックを背負ってからカメラバックを肩に掛けて、教室の戸を引いて出る。
橙色が混じった日が廊下をぼんやりと照らして、リノリウムの床がきゅっと微かな音を鳴らした。
春の匂いは少しだけ薄れてしまっていて。校内に漂っていた緊張感は少しずつ緩和されていた。
春の柔らかな日差しは、心の縁をそっと撫でるようにだんだんとその輪郭を消してゆく。そのことが、どうしようもなく寂しかった。
カラカラと引き戸を開けると、真っ先に飛び込んできたのはもふもふとした猫耳だった。薄い茶色の猫耳が、戸が開いた音に反応してぴくりと動く。
────…………猫?
驚いて思わずじっと見つめると、目の前の彼女もまた、人懐っこそうな瞳を少しだけ見開いてじっとこちらを見つめている。コチコチと響く時計の音だけが、しんとした室内にやけに大きく響いた。
「────…………魚、好きですか?」
互いに見つめ合う状況に少しだけ気恥ずかしさを感じそう問えば、目の前の彼女は再びきょとんとした表情をしてから、こてりと首を傾げた。
「──────そんなに?」「──────………………」
お互いに上手く言葉が出てこずに顔を見合わせて。そうしてから、どちらともなく くすりと笑った。
「座っててって先輩が言ってたから。話そうよ」と言われた言葉に頷いて、机の上に鞄を置いて手近な椅子に腰を下ろした。
────猫耳の彼女は、どうやらボクと同じ学年のようだった。猫が非常に好きで、その気持ちが高じてかSNSの世界ではどうやら猫の写真で有名で。写真を見せてもらうと、いくつか見覚えがあった。…………嗚呼そうだ。確か、映像制作の為に作ったアカウントに彼女の撮影した猫の写真が回ってきたような気がする。
「私、猫さんを尊敬してるんだよね」「へぇ、面白いな」
日だまりで目を細めている猫が好きなんだと言えば、彼女はころころとまるで猫が喉を鳴らすような声で笑った。
「この部活あんまり一年生を見ないから。もし良ければ仲良くしてね?」
そう言って再びころころと笑った彼女に、「こちらこそ」と微笑んで。
「────塩瀬晶です」「猫山美月です」
よろしく、と言って繋いだ手は酷く温かかった。
「塩瀬さんはどんな写真を撮るの?」
柔らかく紡がれた言葉に、「晶で良いよ」と言葉を返して。猫山さんがバックを置いている机の上に荷物を置かせて貰ってから、一眼レフからバックアップの為にクラウドに移した一部の写真をスクロールする。
「フォトコラージュとか短い映像を作るのが多いんだ。人は苦手だからあまり撮らないんだけど」
そう言って携帯の画面を差し出せば、「あっ、これ見たことある」と彼女が小声で呟いて。そう言ってから、くすくすと笑った。
「────何だか変な感じ。普段は作品を見てるのに、作品を通した作者に会うなんて」「はは、ほんとにね」
不思議な感じだなんて返して。互いに顔を見合わせてくすくすと笑っていれば、ガラガラと部室の引き戸が開いて。写真部の部長が、ボク達の様子を見て「あれ」と呟いた。
「────あれ、もう友達になったの?」
凄いなぁと微笑む彼女に、猫山さんとボクは一瞬 顔を見合わせて。けれども、出逢ったばかりで失礼かなと「いえ────」と口を開けば、
「────はい、そうです」
にこにこと微笑んで告げられた言葉に、思わず目を見開いてそちらの方を見れば、「ね?」と微笑まれて。その笑顔に押し出されるようにして、小さく言葉を吐き出した。
「────はい」
何ともくすぐったい気持ちで言葉を返してから、微笑み返して。「友達なんです」と言えば、胸の奥が擽られるように恥ずかしくて、けれどどこか甘い柔らかな感情になって。そして、そして、そして────
────アキはあたしのことが大好きでしょう?
頭の中で響いた声に、びくりと肩を震わせて。「寒い?」と訊ねられた彼女の言葉に、曖昧に笑って首を横に振った。
「────大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」
────ボクは大丈夫だから
繰り返した「大丈夫」と言う言葉は目の前の彼女に対して告げたのか、それとも彼女に対して告げたのかは曖昧で。嗚呼でも、彼女はボクが大丈夫だなんて言ったら傷付いてしまうかななんて頭の中で考えて。それならいつまでも、「大丈夫」じゃない方が良いんだろうななんて。それはまるで、答えの出ない問題をぐるぐるとひたすらに考えて、言葉を紡いでいくことがやめられないような感覚で。
ふと意識を視線を部室に戻せば、十一人以上の人数が部室に集まっていて。それを見て、「ああ、顔合わせには皆集まるって言っていたな」なんてぼんやりと思い出した。
「────晶ちゃん、ほら」「────うん」
猫山さんに名前を呼ばれて立ち上がると、椅子はキイッと高い音をたてた。桜の花の薄い香りは、いつの間にかその存在を消してしまう。その代わりに、青臭い葉の香りは少しずつその存在を主張してゆくのだ。
「────塩瀬晶さん」
名簿に載っている順番に呼ばれた自分の名前に、「はい」と答えて。篠原舞さんと続く名前に、ゆっくりと意識を向けた。
「────猫山美月さん」
猫山さんも呼ばれた自分の名前に明るく返事を返して。翡翠蓮華さんと呼ばれた名前に、また「はい」と声が聞こえる。上級生から順に名前を呼び終わると、部長は流石に疲れてしまったのか溜め息を吐いてから微笑む。
「────以上が今年の中等部、高等部を合わせた写真部員となります。宜しくお願いします」
柔らかな言葉と、それぞれがばらばらのタイミングで「宜しくお願いします」と言葉を紡いで。顔を上げる途中にかちりと猫山さんと目が合うと、彼女はへらりと笑った。
その笑みに、同じように笑みを返して。そうしてから、頭の片隅で「傷付けないようにしなくちゃ」と呟いた。
────誰も傷付けないようにしなくちゃ。猫山さんも、翡翠さんも、篠原さんも、誰のことも。
────傷付くよりも傷付ける方が、ずっとずっと怖いんだ
呼吸を小さく吐き出して、ぴくりと痙攣する瞼を閉じてから再び開ける。オレンジ色に包まれた室内は、泣きたくなるほどに優しい色に染まっていた。