閑話 シオン①
────「あの日」から、同じだけの傷を抱えて生きているのだと思っていた。あの子は優しくて、だけど他者とコミュニケーションを取ることが苦手な子だから、結局最後はあたしのところへ戻ってくるのだとそう思っていた。……そう信じて、疑わなかった。
だから、彼女のために作った彼氏との別れ話も、水面下で円滑に進めようとしていたつもりだった。受験に集中したいからなんて尤もらしい理由をつければ、簡単に関係を解消出来るのだと思っていた。
今振り返れば、思春期らしい何とも浅はかな理由で簡単に恋人関係なんてものを結んでしまったものだ、なんて思う。
あたしは、丸い折り畳みテーブルを挟んだ向かい側で真剣な表情をしながらノートへシャープペンシルを走らせる彼氏の姿をそっと盗み見て。そうしてから、心の中で「恋人ごっこみたい」と呟いた。
きっと、付き合う人なんて切っ掛けにしか過ぎなくて。ただ、彼女をこれ以上無いほど傷つけられるのなら、その心に傷跡として残ることが出来るのなら、それで良かった。だから────だから、誰でも良かった。
小さく息を吐いて、「休憩しよっか」と彼に伝えれば「そうだね」と言って彼は柔らかく微笑んで。「目が疲れた」と言って、眼鏡を外して目頭を抑える。
すっとした鼻筋に、薄い唇。二重の涼やかな目元は、笑うと途端に幼くなった。中性的な整った顔をぼんやりと眺めてから、どうしようもなく彼女に似ているその顔に向かって、「眼鏡」と呟く。
「────眼鏡、相変わらず似合わないわね」「君、そう言うところははっきり言うよね」
傷付くなぁなんて肩を竦める子供っぽい仕草にくすりと笑みを溢して。「ごめんね、冗談よ」と言ってから、部屋を出た。
(あたしはいつまで、こんな恋人ごっこを続けて生活していくのかしら)
いつまであたしは────彼女の影を、追い求めていくんだろう。
アキと喧嘩別れをする数日前、校舎裏と言う何ともベタな場所にこれまた下駄箱に入っている手紙で呼び出されると言うこれまた輪をかけてベタな方法で呼び出された私を待っていたのは、特別話した記憶の無いクラスメイトだった。それでも、整ったその顔に見覚えがあって「あっ」と小さく声をあげる。
すると、向こうもその声に気が付いたのか「あっ」と同じ言葉を発して。微かに朱色に染まるその頬に、気付かれないように小さく溜め息を吐いた。
────遅くなってしまって本当にごめんなさい。まだ暑いのに
とは言え、真っ白な彼は汗ひとつかいている様子は無くて。むしろ慌ててきたあたしの方が、汗だくな程だったけれど。
────良いよ、来てくれて良かった。本当はちょっと心配だったんだ
目の前の「彼」は、そう言って柔らかく微笑んで。やけに目につく喉仏の突起に少しだけ残念な気持ちを食んだまま、再び「ごめんなさい」と同じ言葉を繰り返した。
────ええと、それはどっちの意味?
戸惑ったような声に特別どちらと断定するわけにもいかなくて言葉を濁して。そうしてから、「誰かを好きになったこと、なくて」なんて無難な答えを選びとって伝えれば、目の前の「彼」は酷く意外そうに目を見開いて。「嘘だろ?」なんて言いそうな声で────
「嘘だろ?」「……君、馬鹿正直って言われない?」
少しだけ不愉快げに眉をひそめれば、彼は慌てたような様子で「ごめん、そう言うつもりじゃなかった」と言葉を続けて。そうしてから、ふっと口元を緩めて。
「君って、思っていたよりも真っ直ぐなんだな」
羨ましいよと彼が笑って。私は、どこか白けたような気持ちで彼を見つめて。そうしてから、気付かれないように小さく溜め息を吐いた。
「褒めてくれてありがとう。待たせてしまって本当にごめんなさい。それと、君とは付き合えない。手のかかる、置いておけない人がいるから」
ごめんなさい、と言って頭を下げれば「それって」と言葉を返されて。返された言葉に、小さく息を呑んだ。
「それって────塩瀬のことだろ?」
君達はいつも一緒にいるからと呟いた言葉に、「そうよ」と返して。「なのに、」と言葉は勝手に飛び出してゆく。
「……なのに、アキは他の子を優先するの。「ちょっと待ってて」って「ごめんね」ってそればっかり。まるであたしが聞き分けの無い子供みたいに、いつも、いつも、いつもいつもいつも────」
吐き出してゆく言葉は、いつの間にか粘り着くような呪詛へ変わっていって。「だから、」と続けて吐き出した言葉に驚いて、はっと口元を押さえた。この男にそれを話したところでどうにもならない。余計なことを言ってしまった、と舌打ちをしたい気持ちを抑えながら小さく息を吐くと、無理矢理笑顔を作って「だからね」と続ける。
「だから、君の面倒まで見ている余裕は────」
余裕は無いから、と続けようとした言葉は「良かった」と言う言葉に遮られて。安心したように微笑む表情に「は」と声が出た。
「良かった。ますますちょうど良いよ」「は、」
訳が解らない、と顔をしかめた私に「折角可愛いのに勿体無いなぁ」と微笑んで。「実を言うと、僕もたいして君のことを好きな訳じゃないんだ」と続けた。
ますます訳が解らないと眉間に刻まれた皺を深くすれば、「ちょっと確かめたいことがあってね」と微笑んで。するりと鼻先に触れてから、にこりと微笑んだ。
「実は僕もずっと好きな人がいてね。ああ、この学校じゃないし同学年でも無いんだけど。どうにもこうにも脈が無さそうだから、ちょっと揺さぶりを掛けてみたくて」
────だから、と呟かれた言葉にこくりと息を呑んで。その甘い誘惑に、思わずたじろいだ。
「だから君も僕も、お互いを利用し合わないか? そうすれば、きっと────自分に対しての相手の気持ちが解るかもしれないだろ?」
悪くない提案だと思うけどと言って微笑む彼に、暫く言葉が返せなくなって。耳が痛くなるような静寂が続いてから、「もし」と言葉を吐き出す。自分の声が、期待と動揺で酷く上ずっているのが解った。
「────もし、伝えたあとに恋人になりたいって言われたら?」
そう言えば、彼はにこにこと微笑みを崩さないまま「決まってるだろ?」と言葉を続けた。
「その時は、お互いのことなんて切り捨ててしまえば良い」
やけに冷たく響く言葉に瞬間、呼吸をとめて。迷うように視線をさ迷わせてから、小さく息を吐いた。
くだらない提案だと解っていた。それでアキがあたしを無理矢理奪おうとするほど、度胸のある人間ではないことも解っていた。だって、あたしはアキの一番の理解者だから。あの子はあたしがいないと何にもできない子だから。……けれど、それと同時に欲が出た。あの子が、あたしのことを大好きなアキが、このことを知ったらどうするんだろうって。もしかしたらはずみに告白をしてくれるかもしれない。そうでなくとも、少なくともあたしと彼女のこの互いの様子を窺い合う関係を、進められるかもしれない。あたしが一番だって、そう言ってくれるかもしれない。……あたしを、愛してくれるかもしれない。
あたしはコクリと喉を鳴らす。口腔が酷く乾いていたのに、同時に腹の底から湧きあがるような酷く気持ちのいい高揚感があった。
「────わかった。付き合いましょう」
そう言うと、ゆっくりと右手を差し出して「よろしく」と言えば、彼は嬉しそうに微笑んで「こちらこそ」と言って左手を差し出した。
「こちらこそよろしく。……紫音」
手を握った瞬間、同年代の男の子にしては華奢だと思っていた彼の手は、それでもあたしの手よりもずっと大きくて。ああ、やっぱり彼は「アキ」じゃないなんて、頭の中で溜め息を吐いた。しおん。音は同じでも、紡がれた漢字はまるで違うものだ。その言葉に込められた意味も、きっと。
あたしは小さく息を吐いて、その息に乗せるようにして「あなたの」と言葉を続けた。
「あなたの名前は?」
そう尋ねれば、目の前の男は伝えるのを忘れてたよなんて笑って。目線を反らしてから、小さく呟いた。
「僕の名前は────」
────カランとコップの中の氷が涼やかな音をたてた。その音に、はっと意識を戻して慌てて二人分の麦茶を注いでトレイにのせ、脇の方に麦茶のペットボトルを置いて再び二階の自室へとあがってゆく。すると、階段を上がる音に気が付いたのかガチャリと自室のドアが開いて。「ごめん、気が利かなかった」と、申し訳なさそうに微笑む彼がそこに立っていた。
「良いわよ、別に。そろそろ休憩しましょ?」
僕が持つよとトレイに向かって差し出された手を有り難く辞退して、カタリとテーブルの上にトレイを置いた。
「……ね、アキ」
彼はあたしの言葉を聞くと、少しだけ驚いたように目を見開いてからにこりと微笑んで、|あたしの《・》名前ではない名前を口にする。
「────そうだね、紫音」
彼は嬉しそうに微笑んで、あたしを通した誰かを見つめている。憎らしいほどに似ているその顔に、「ね、アキは」と言葉を吐き出してゆく。
「アキはあたしのもの、でしょう?」
────高校も、彼と同じ所に行くの。進学校で、制服も可愛くて。……彼が、「一緒に行きたい」って言ってくれたの。あたしと一緒に高校生活を送りたいって、そう言ってくれたの。……あたしのこんな汚いところも大好きだって、そう言ってくれたの
あの日、アキに伝えたことは全部が本当のことではなかったけれど。本当は少し、期待をしていたのだ。「駄目だ」って、「いかないで」って、そうすがり付いてくれることを。「一緒の高校へ行こうって約束したじゃないか」って、あたしを詰ってくれることを。力ずくでも、あたしを選んでくれることを────だけど、結局アキは呑気に「おめでとう」なんて憎らしいほど綺麗に笑って。整ったその顔は、やっぱり苦痛になんか歪まなかった。
目の前の「アキ」は、一瞬だけ驚いたように目を見開いて。そうしてから、まるで慈愛に満ちた表情で、「そうだよ」と言葉を吐き出してゆく。
「そうだよ。今この瞬間だけはアキは君のもので、紫音は僕のものだ。だから────」
────だからもう少しだけ傍に居て、紫音
ぎこちなく抱きしめられる身体に、応えるようにそっと腕を回す。静かな室内に、コチコチと響く時計の音が響いていた。
────アキ
染み込んでくる他人の熱に、「アキはもっと体温が低かった」だなんてぼんやりと頭の片隅で考えて。そんなことを考えても、もうどうしようもないかなんて、射し込んでくる穏やかな光に息を吐いた。
────ごめんね、アキ。……だけど、どうかあたしのことをずっと赦さないでいて。
吐き出した呼吸と知らない他人の熱が、頭の中を掻き回してゆく。ああ、願わくばどうか、アキが高校で誰とも上手に付き合えませんように
ずっとずっと、アキを思い出しては心の中に新しい傷を作るように。アキもあたしを思い出しては、生のままの傷を抉るような痛烈な痛みを感じていて欲しい。そうしてそのまま、独りぼっちでいて欲しい。
最低な願いを胸の中で呟いて、視線をふと写真立ての方へ移動する。写真立ての中には、あの頃のアキとあたしが、まるでこちらを責め立てるようにただ静かに見詰めていた。
────アキ。アキ。大好きよ、アキ
寄りかかる他人の熱で、やっと足元が安定してゆくみたいに。もうここにはいないアキを想うことで、心のバランスを均一に保っているみたいに。ぽっかりと空いた穴を無理矢理にでも埋めなければ、あたしや彼のような人間は呼吸すらままならないのだから。
愛したいから愛して欲しい。優しくしたいから優しくしてほしい。傍にいたいから傍にいて欲しい。だけど本当は、本物のあなたにあたしが一番だってあの少し困ったような顔で笑って欲しい。そして同じくらい、どうしようもなくずたずたに傷つけたい。あたしの手で、あたしのせいで、呼吸すらままならないアキを見ていたい。
こんな関係は狂ってる。自分の身体にきつく回された彼の腕を感じながら、あたしは罪悪感から逃れるようにその肩に顔を埋める。もういっそ窒息してしまえば良いとさえ思いながら。
────アキ、あたし、あなたのことが気が狂いそうなくらい大好きよ。それは、本当なの
この関係は全部嘘っぱちだけれど、あなたに対する気持ちは本当なの、なんて。詭弁にもならない言葉をそっと胸の中で呟く。浸み込んでくる知らない人間の体温とは対照的に、「君はどうしようもなく我儘だ」なんてアキがあたしを詰っているような気がした。