一輪
────あたし、アキが世界で一番好きよ。男の子よりも、他のお友達よりも、家族よりもずっとアキが一番好き
夏の匂いが教室の中に残っていた。夕暮れの橙色の光が教室の中に射し込んで、遠くでは運動部の掛け声が聞こえているだけの、酷く静かな空間で。どこか非現実的な光景を思い起こさせるそんな空間に、まるで世界にはボクと彼女だけしかいないんじゃないかなんて馬鹿みたいな錯覚をしてしまう。そんなボクの思いなんて露知らず、彼女は終業式が終わった後の閑散とした教室の中でボクの前の席の椅子に跨ったまま酷く綺麗に笑ってそう言った。
薄桃色の形の良い唇から自分の名前が呼ばれる様子を見たく無くて、「行儀悪いよ」と返しながら彼女と目を合わせない様に俯いて帰り支度を続ける。その態度が不満だったのか、彼女は「ねぇ、アキってば」と手をこちらに伸ばす。伸ばされた白い手を「はいはい」と言って微かな力で払えば、彼女は酷く不満そうにその形の良い唇を尖らせた。ボクはその様子を横目に熱を持つ頬に気付かれない様にと願いながら、配布されたばかりの夏季休暇課題をクリアファイルにしまう。
────またそんな事ばかり言って。そんな事言われても、夏休みの宿題ボクは手伝ってあげないよ
ふと気を抜けば「好きだ」なんて衝動のままに伝えてしまいそうな自分の感情に蓋をして、努めて冷静に彼女に言葉を返せば、彼女は「えぇーっ」と不満そうな声を上げて。そんな様子も可愛いだなんて頭の片隅で考えてしまう。そんな自分自身に、酷く呆れてしまった。
────っ、大体、君は何でもボクに頼り過ぎなんだよ。小学校三年生の時の図書委員だって、ボクはやりたくなかったのに君が勝手に、
もう何年前の話なんだと冷静な自分が頭の中で呟く。それでも沸騰した脳は勝手に言葉を吐き出し続けてゆく。すると、ボクの小言に嫌気が差したのか彼女は「あぁ、もう。はいはいはいはい」と適当に返事を返す。ちゃんと聞いてるのと言えば、えぇ? と苦々しい表情で言葉を返される。
────アキ、お説教長いのよ。先生みたい。て言うかそれもう何年前の話よ。十年くらい前なんじゃないの?
────そんなに前じゃないよ。大体、小言が嫌だって言うなら君がもっとボクの話を聞いてくれれば、
再びくどくどと小言を始めたボクにうんざりしたように、「あぁもう、面倒臭いなぁ」と彼女が頭を掻く。
────アキ
突然呼ばれた自分の名前に、反射的にお説教を止め、「何?」と返す。すると、彼女はぐいとセーラー服のスカーフを掴むと、こちらに顔を近付ける。反射的に彼女の薄桃色の薄い唇を手で塞げば、彼女は驚いた様な表情をしてこちらを見つめていた。
────っ、ばっ!何やってんの、君は!
彼女は「えぇ?」と不服そうな表情をすると、「なんで?」と尋ねてくる。
────なんでって、だって君、彼氏、
自分で言った言葉に、反射的に俯いてしまう。すると、彼女はボクのその様子を見て、楽しそうにくすりと微笑む。
────ね、アキ。あたしに彼氏が出来たって聞いた時、アキは悲しかった?
楽しげに呟かれたその言葉に、ぴくりと肩を震わせる。すると、彼女は楽しそうにふわりとその笑みを深くする。
────ね、アキ。アキはずっとそのままでいてね?あたしが彼と同じ高校に行っても、社会人になっても、大切な人と結婚して、愛する子供が産まれても、アキはずっとあたしだけを好きでいてね?誰とも愛し合わないで、誰とも結婚しないで、誰の愛も拒んで、ずっとあたしだけを好きでいてね?
────だってあたしは、「あたしのことを大好きなアキ」が大好きなの
風景がぐにゃりと歪んでゆく。歪になったその世界は、吐き出してしまいたくなるほどに気味が悪くて。微かに遠くなる意識が、ゆっくりとボクをその場所から剥がしてゆく。覚醒してゆく意識の中、歪んだ「彼女」の表情は────息を呑むほど、綺麗だった
はっと目を開ければ、耳元でアラームが鳴っていた。喧しく存在を主張するその音量に反射的に眉間に皺を寄せながら、画面をスライドしてアラームを止める。
三月に合格通知を貰ってから、片道二時間をかけて通うことになった高校を頭の中に思い浮かべながら天井、学習机、足元へと視線をスライドさせて、ひやりとしたフローリングに素足を落とした。床の感触を両足に感じると同時に、未だに「彼女」の夢を見てしまう自分自身に呆れてつい溜め息が出る。
「……っ、ごめん」
────好きになって、ごめん
呟いた言葉は、朝日が差し込む部屋に静かに吸い込まれて消えていった。
ボクは、微かに溜息を吐いてぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。彼女に拒まれてしまった日からずっと伸ばし続けていた髪は、もうあの頃のショートカットを通り越してしまって。何だかそれが、時間の経過を表している様で酷く苦しかった。
「……はぁ」
微かに溜息を吐いてから、ゆっくりとベッドから立ち上がる。ハンガーラックにかかった真新しい制服をちらりと横目で見てから、再び溜息を吐いた。
今年の春から通う私立星花女子学園は、人口約二十六万人程度の規模の空の宮市に建つ中高一貫型の私立学校だ。温暖な地域ゆえに降雪を観測するのは非常に稀で、受験をしに高校へ行った際にも今住む自分の地域よりも暖かな気候だった事に驚いたほどだった。
しゅるりと真新しい制服に袖を通す。生地の冷たい感触に初めて「制服」と言うものに袖を通した中学一年生の時を思い出した。
あの時は「彼女」と制服の採寸を頼んでいた店まで自転車で一緒に行って。持ち帰りの時に貰うビニール袋だけだと心許ないから、大きな袋も持って行こうと彼女が前日に電話を掛けて来て。それなのに翌日、待ち合わせ場所に来た彼女は袋の事なんてすっかり忘れていたな なんて。おまけに袋はとても丈夫な素材で呆れてしまったっけ、なんてことをぼんやりと思い出した。
「彼女」はちゃんと新しい環境に馴染めるかななんて考えてから、そんなのはもう余計なお世話かと思い直す。いつまで保護者気取りなんだなんて、自分に舌打ちをしたい気持ちを堪えて制服の着替えを続けた。
洗面所で歯磨きと洗顔を終えてタオルで顔を拭いていると、のそのそとこちらへ近付いてくる人影が見えた。昨年の夏から就職活動を始めた兄は、既にその厳しさに精神が疲れ切ってしまっているようだった。
「……おはよう」
普段よりも大分疲れ切った表情の兄は、「おはよう」と返すとぼんやりと虚空を見つめながら無心で歯磨きを行っている。シャカシャカと言う一定の音が、微かに洗面所に響く。その姿をぼんやりと見つめながら、兄さんと声を掛ける。「おー」と歯ブラシをくわえたまま返事をする兄に、「ありがとう」と呟けば、兄はひらひらと空いた左手を振った。
その様子を横目で見ながら髪を櫛に通せば、「晶」と兄が呼び止める。「なに」と返せば、口の中をすすいだ兄はタオルで口元を拭きながらこちらを見る。
「朝飯どうする? 父さんも母さんも昨日遅かったから、ゆっくり寝かせてあげたいし。お前が食べるなら用意するけど」
兄からの言葉に、ゆっくりと首を左右に振る。就職活動で疲れている兄にそこまでの負担を掛けるのも申し訳なくて、「大丈夫」と返す。
「大丈夫、ありがとう」「おー」
兄はそう答えると、ひらひらと手を振ってキッチンへ向かう。コンコンとテーブルの角で卵を割る音を聞きながら寝癖を直した。
────アキは短い髪が似合うよ。格好良いし、あたしはアキの短い髪が大好きなの
頭の裏で、もう隣に居ない筈の彼女の声が反響して。掻き消すように頭を左右に振って、髪を整えてから洗面所を出る。
廊下を通って二階の自室へ向かうと、昨晩準備を終えた鞄を持って階段を降りる。その気配に気付いたのか、兄が驚いたように顔を覗かせる。
「もう行くのか?」「うん。二時間は掛かるから」
ローファーにするりと足を入れて、爪先を軽くとんとんと直しながら言葉を返せば、兄は「ふぅん」と呟くと「気を付けて行ってこいよ」と言って再びキッチンへ戻る。その言葉に「行ってきます」とだけ答えて、玄関の扉を閉めた。
最寄りの駅から星花女子学園へのアクセスは、乗り換えと最寄りから学校までの徒歩の時間を含めて二時間と少しだ。なかなか遠いとは思うけれど、だからと言って取り立てて騒ぐほど遠い訳でもなく、何処か微妙なこの距離感が何となく心地好くて好きだった。
────けど、やっぱり朝は早いなぁ
無事に乗れた電車の車内は早い時間帯の為かだいぶ空いていた。誰も立っている人が居ないことを確認してから、空いている席へと座る。隣にいない熱に身勝手な違和感を抱くとともに、同時に急激な眠気に襲われて。小さく欠伸をしてから、鞄に顔を埋めるようにして俯く。
期待と不安に満ちたこれからの高校生活に想いを馳せながら、ボクはゆっくりと目を閉じた。
「初めまして。S中学校から来ました、塩瀬晶です。写真を撮る事が趣味で、写真部に入部したいと考えています。一年間、どうぞよろしくお願いします」
無難に挨拶を終えると、席について小さく息を吐いた。思っていたよりも優しそうな人が多そうだなんて頭の中で考えながら、ぼんやりと窓の外に目を向ける。
────髪の長い人が多いな
夢の中の「彼女」は、いつも黒いロングストレートだった。夢の中で風に揺れるその髪をいつもぼんやりと見つめていた所為か、何と無く髪の長い女の子には気後れしてしまう。
でもボクはもう高校生で、「彼女」はボクと同じ高校にはもう居ないのだからと小さく深呼吸して教卓に視線を向けた。
────また、あんな風に誰かを傷付けるのなら。恋愛感情なんて、そんなもの持たない方が良いんだ
伸び始めた髪の毛の片方を耳に掛けて小さく呼吸をしてから、自分の次に自己紹介を行っているクラスメイトへと意識を向ける。
─────アキはあたしのことが大好きでしょう、なんて。ボクにしか聞こえないその声が、そっと呟いたような気がした。