表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

多分、これは、きっと

作者: ツギ


 あ、これ詰んだわ。


 頼れる味方は皆方々に転がっており、視界の端で時折ぴくぴくしているので死んではいないだろう。

 だがしかし、前方に三人、後方に二人。対するこちらは一人きり。


「残るはお前一人だ!」

「観念するのね!」


 眼前には剣の切っ先が向けられ、その奥では弓矢がこちらを狙っている。

 そして後ろの連中の武器は銃と斧。前後ともに近接遠距離揃っている上にこの距離で囲まれているのである。何をどうやっても逃げ切れるビジョンが見当たらない。


 ああ、お母さんお父さん、お姉さんお兄さんついでにペットのキティ……不孝者でごめんなさい……

 祈る神を持たない自分がこの時に思い浮かべたのは、田舎に残してきた家族の顔だった。

 最後に帰ったのは一体いつだっただろう。去年の暮れもお彼岸もお盆も仕事を理由に短いメッセージを送っただけだった。

 顔を合わせられないにしても、せめて電話くらいしておくんだった……それだけが心残り――いや待てよ。


 頭の隅に僅か残っていた冷静な部分が警鐘を鳴らす。

 このまま負けてしまったら。

 さあ、と血の気が引く音が聞こえた気がした。


 上京してから早数年、一人暮らしなのをいいことに自分の趣味をこれでもかと詰め込んだあのアパートに、身内ですら入れたことのないあの部屋に、他人が入る?

 それも、今の仕事からすれば間違いなく部屋の隅々まで調べられるだろう。

 そうしたら……ベッドの下のエロ本はどうなる?パソコンの履歴は?某通販サイトで頼んだ余所様に見せられないあれやこれやの到着予定はいつだった?

 ぐるぐると起こりえる未来が頭を巡り、最悪の想像を導き出す。


 負けられない。

 この戦い、絶対負ける訳にはいかない。


「うおぉおおおおお!!!」


 雄叫びを上げながら正面の赤い奴に突っ込む――と見せ掛けて、全速力で横に跳んだ。

 着地などは端から考えていない体はゴロゴロと転がり、勢いのまま身を起こすと共に走り出す。

 待て!という言葉が聞こえたと思えば、乾いた音とともに腰の辺りに衝撃。思わずたたらを踏みそうになるところを気合いでねじ伏せ、背中を向けたままただひたすら脚を動かした。


 あいつぅううう!こめかみの辺りがひくひくと動く感覚がする。

 今の攻撃は絶対銃の奴だ。こちらが支給品の特殊繊維を使ったスーツを来ているから衝撃程度で済んだが、間違いなくこれは痣になるだろう。というか、スーツの性能が低かったら下手したら流血沙汰では済まなかったやつだ。

 こちらの技術力を信用しているのかそれともうっかり殺してもいいと思っているのか。何度かやり合っている経験からすると、後者っぽいのが本当に嫌になる。

 誰だあんな奴採用した奴は!向こうの人事に対してクレームを入れたいが、あちらもまた内情は公表されていない秘密組織。お客様センターなんか設置されている訳もない。


 銃と弓の攻撃を躱す為に、岩場の陰から陰へ。できれば一息吐きたいところだが、前衛組、特にほぼ無手で足の速い緑がすぐに追いかけて来るに決まっている。

 戦いの場に選ばれた時点で下調べをしている分、地の利はこちらにあると言えるが、それでも個々のポテンシャルは向こうの方が高い上に、多勢に無勢。


 それでも救援が来ることを信じて逃げ回っていたが、とうとうその運も尽きたらしい。

 じり、と後退ったところで踵が大岩にぶつかる。


「ここまでだな」


 マスクで見えないが、恐らくこちらを見据えているだろう視線。

 緑の向こう側には、遅れて赤とピンクが走って来る姿も見える。

 相手は連中の中で最も近接戦闘に長けている緑だ。初見ならまだしも、先程のようなフェイントはもう使えないだろう。


 詰んだ。

 これは完全に詰んだ。


 今度こそどうすることもできない終わりを悟り、自分は心の中で願った。

 叶うならば、もう二度と帰ることのできないだろうあの部屋が今すぐ火事にでもあって全て燃え尽きますように――




「それはどうかしら」




 緊迫した雰囲気を鎮めるような流麗な声。

 はっ、と背にした大岩を仰ぐと、逆光によりよく見えない口元が弧を描いた気がした。

 羽のようにふわりと舞い降りた影は、小さな靴音だけを鳴らして姿勢を正す。


 濃紺を基調としたローブ。

 銀の十字架が飾られたとんがり帽子。

 そして彼女の周りをふよふよと漂う幾つもの水球。


「い、イーストウィッチさまぁあああ!!!」


 来てくださると!来てくださると信じてましたぁあああ!!

 先程までの諦念が吹っ飛んだ瞬間である。


 我が職場である秘密結社『ウィッカ』。その最高戦力が一人、水を操る能力を持つ東の魔女。

 四大幹部の中で最も強いとさえ言われる実力者で、実際今までに救われてきた窮地は数知れない。

 その強大な力と部下思いな性格と、そんでもって麗しいご容姿から職場には隠れファンクラブがあるくらいだ。なお、組織非公式の愛称はいーさまである。

 勝利フラグキタコレ!これで勝つる!


「イーストウィッチ……!まさか四大幹部自らお出ましとはな!」

「私の部下達を随分と苛めてくれたみたいなのだもの」


 ねぇ、緑の坊や?

 ああああ!ウィスパーボイス頂きました!

 自分の位置からは背中しか見えないが、きっと蠱惑的に微笑んでいらっしゃるのだろう。おいちょっと緑そこ代われ!


 緑は言葉こそ強気だが、いーさまを警戒する姿からは先程の余裕は完全に失われている。

 追い付いてきた赤とピンクもまた、いーさまの存在に気付いたのだろう。動揺を隠しきれないまま、けれども自らの使命の為に戦闘体制を取る。

 いーさまもそれに気付いてはいるのだろうが、特に気にした様子はなさそうだ。これが強者の余裕……素敵!抱いて!


「このまま遊んであげてもよいのだけれど」


 くるり、とこちらに体を向けるいーさま。えっ、ちょ、いーさま!流石に敵に背を向けるのはどうなんですか!?

 案の定それを好機と見たのか、踏み込んでくる緑。いーさま危ない!

 言葉より先に体が動いた。いーさまの腕を引き、庇うように緑との間に出る。無理矢理な動きに足首に走る痛み。


 岩をも叩き割る緑の拳が、まるでスローモーションのように近付いてきたように思えた。

 スーツの特殊繊維、がんばって。それだけ心の中で呟いて目を瞑る。


 ……予想していた衝撃は、余りにも少なかった。


「グリーンっ!」

「え?わっ!?」


 打撃の威力とピンクの悲鳴を疑問に思って目を開ければ、眼前では頭部を水球にすっぽり包まれた緑の姿があった。

 ごぼごぼと耳障りな音が立つ度に、緑の口元と思われる部分から気泡が溢れ出す。

 呼吸を確保しようと両手で水を薙いではいるようだが、僅かに辺りに散らばるだけで、水球はその体積が減っているようには見えない。


「え?え?これ、もしかしていーさ、じゃない、イーストウィッチ様が?」

「撤収よ。目的は達したと報告があったわ」

「え、あ、はい」


 上げた疑問は静かな声と引かれた腕に封じられた。いやまあ、もしかしても何も普通に考えていーさまなんだろうけど。

 いーさまの言う通り、目的が達成されたのであればここに留まる理由はない。


 我々『戦闘部隊』は、あくまで『実行部隊』の任務が完了するまで連中――『正義戦隊・マスクレンジャー』を足止めすることが任務なのだから。




◆◇◆




「戦闘第二、第三部隊の回収、完了しました」

「ご苦労様。被害状況は?」

「支部内施設でのメディカルチェックでは、軽症八名、重症が一名ですが、こちらは転倒時の体勢が悪く腕の骨に罅が入ったようです」

「提携先の医療機関に回しなさい。必要に応じて入院の手配を」

「了解です」


 今回の戦闘責任者である分隊長が、いーさまに報告をする様子をぼーっと見る。

 というか、自分はここにいていいのだろうか。

 自分はあくまで戦闘員八○一号。班長でもなければ所属が特に長い訳でもない下っ端の下っ端だ。

 いつもであれば、他の一般戦闘員と共に戦闘後のメディカルチェックに受けている筈なのだが、いーさまに引っ張ってもらってたら気付くといーさまの執務室まで着いてきてしまった。


 今はあんまり痛くないけど、一応自分撃たれたしなあ。湿布とか貰えないかなあ。

 あと早く戦闘服着替えたい。丈夫だし軽いし伸縮性も抜群の特殊素材なのだが、如何せん通気性がイマイチなのだ。フルフェイス型のマスクは外しているとはいえ、ぴたっとした素材は何となく息苦しい気がする。


 あと段々下っ端が聞いちゃいけない……とまではいかないけど、知る必要がない話題になってきてませんかねえ。繰り返すが、あくまでも自分は一般戦闘員。出された命令をこなすだけです。


「あのー」

「お?八○一号、何でお前がいるんだ?」

「えっ、自分の存在感ってそんな薄いですか」


 意を決して手を上げれば、不思議そうな顔を返してきた分隊長に思わず繰り出してしまったツッコミ。ちょっとこれ本気で気付いてなかったんじゃね?

 原因が自分と分隊長のどちらにあるか考えるのはとりあえず置いておくとして、言葉を続ける。


「自分お邪魔だと思うんで、退室していいですか」

「おー、ちゃんとチェックも受けてくるんだぞ」

「了解でーす」


 よっこいしょ、と、いーさまの執務室に相応しい(と自分は思う)ふっかふかのソファから立ち上がる。と、足首につきりとした痛み。

 そういえば緑とやり合いそうになった時に足捻ったっけ。とはいえ、これくらいの痛みなら二、三日もすれば気にもならなくなるだろう。

 湿布を多めにもらっておけばいいかな、なんて考えながら、いーさまと分隊長に頭を下げて退室の挨拶をする。


「八○一号」


 静かな声が自分を呼ぶ。

 驚いて頭を上げれば、青みがかった濃灰色の瞳とぶつかった。


「今日はご苦労様。でもあまり無茶はしないこと」

「……はい」

「今日の功労者は、間違いなくあなたよ」


 そうして、いーさまはふわりと笑った。


「これからも期待しているわ」




 その後はよく覚えていないが、気付いたら自分はロッカールームの床の上でごろごろ転がっていた。

 顔が熱い。これ絶対真っ赤になってる。


 期待しているだって。

 いーさまが、期待しているだって。


 優しいいーさまだから、きっと誰にだって同じことを言ってくれるのだろうけど。

 冷たい床にくっつけた額はまだ当分離せそうにない。




 あなたの一言だけで、こんなにも嬉しい。







◆◇◆







「って思ってたのによぉおおお……」 


 頭を抱えながらベッドの上でごろごろと転がる。最も、狭い部屋に見合ったシングルサイズのベッドでは一回転できるだけの余裕はないのだが。

 大人しく仰向けになって右足を上げれば、視線の先にはテープでガチガチに固定した足首。




 捻挫である。

 それも全治三週間。可能であれば十日間は安静が望ましいとのこと。

 支部の常駐医に言われた時には冗談だと思った。いやだってそんな痛くなかったんだよ?歩きづらいとかもなかったんだよ?

 そう主張するも、医者は一言「アドレナリンが過剰分泌されて気付いてないだけだ馬鹿」と言いながら、実に手際よくぐるぐるのガッチガチにテーピングを行ったのである。


 いやでも捻挫で三週間ってねぇだろヤブ医者!と叫んだ自分を、ベテラン戦闘員よりよっぽど恐い面をした医者が冷たい目で見下ろしてきた時は流石にちょっとビビった。

 そうして渡された医療用のテープと湿布と鎮痛剤。戦闘員としての研修の際に教わった中には応急処置についてもあったから、プロ程とは言わずともテーピングくらいなら自分もできる。

 でもその時の自分はそれほど重大だと考えていなかったのだ。


 戦闘任務のあった日だ。汗も掻いたし立ち回りであちこち砂埃だらけである。流石に風呂は無理としてもシャワーは浴びなければベッドに入れない。

 狭いユニットバスの中、ぬるめのお湯で頭を洗い、体を洗おうとして左足を上げた瞬間。

 激痛ですっ転んだ。


 そこで自分はやっと気付いたのである。

 あれ、これ思ったよりやべぇんじゃねぇの?と。


 とりあえず泡を流して何とか着替えるまでにも、血行が良くなったせいか酷くなり続ける痛み。

 できるだけ右足に負担をかけないように歩けば、今度は腰がぴきといってその場で悶絶した。

 そ、そういえば青い奴に銃で撃たれてた……


 蛍光灯の下で改めて見た足首は、色こそ若干青みがかってはいるものの、明らかに左足と太さが違った。ヤバい。

 いつだかケーキを買った時にもらってから冷凍室の奥底に眠り続けていた保冷剤を取り出し、何枚かハンカチで包んで足に括りつける。シャワーで火照った体にはひんやり感覚が気持ちよく、気分的な部分でも痛みが軽減した気がした。


 汗が引く頃には感覚もいい感じに薄くなったため、手早くテープで固定する。戦闘員をやるようになってから、テーピングと包帯を巻く技術がめきめきと上達したのは自慢するべきか自虐するべきか。

 布団を適当に丸めて足を乗せれば、簡易的なPRICESの完了だ。捻った時間からすれば今更ではあるが、これをするとしないとでは予後が大違いなのである。


 そうして一応の処置を終えたところで今に至る。


「うー……期待してるって言われた直後にこれってさぁ……」


 呆れて物も言えないとはこういうことだろう。自分がいーさまの立場だったら即行で見限る。

 せめてのもの救いは、自分が数いる戦闘員の中でも本当に下っ端なことだろう。いーさま程の大幹部となれば、隊長レベルならまだしも下っ端戦闘員の名前(というか番号)など覚えていないだろうし。


 だからこれは、自分自身の問題なのだ。

 自分がいーさまの期待を裏切ってしまったと落ち込むのも自分の勝手。


 仕事終わりの発泡酒でも飲んでぱーっと気分を晴らしたいところだが、炎症を起こしている足にアルコールは厳禁である。

 もう寝よう。生活を行っていく上で細々とした家事はせざるをえないが、暫くは傷病休暇だ。大人しくして、さっさと治して職場復帰することくらいしかできることがないのだから。




「あれ、お前怪我して休みじゃなかったっけ?」

「うるせぇ童貞野郎」

「どどど童貞ちゃうわ!」


 特に理由のない暴言が俺を襲う!と叫ぶ同僚にワロスワロスと返せば、雑っ!と顔を覆う姿に生温い視線を向ける。

 傷病休暇初日。早速自分は職場にいた。


 怪我して一日目くらい家に篭っていたかったのだが、タイミングが悪く冷蔵庫の中身は空っぽ。備蓄の袋麺すら見つからない状況に、流石に買い物に出かけなければと起き上がったのが朝八時のこと。

 足首が固定されているため緩めのパンツに穿き替え、スマホをポケットに突っ込み、念のため財布の中身を確認しようと鞄を漁った。


 財布が、ない。


 念のため鞄の中身を全部取り出したが、財布がない。帰宅時に投げた際、鞄から出たのかと周辺を探したものの、財布がない。

 まさか……と思い、支部に落とし物がないか確認を入れたところ。


「ああ、はい。支部内の廊下で拾われて届いてますよ。免許証入りで」


 始末書が確定した瞬間である。


 なんで財布と免許分けてなかった自分……!いや、キャッシュカードが入っている時点でそう変わらないのだが、顔写真入りの個人情報紛失は、秘密結社として重大事故である。

 落としたのが施設内だったのは、はたしてよかったのか悪かったのか……その場にくずおれたまま通話先の職員に、取りに行きます、と小さく応えたのは八時半のことである。


 電車で職場の最寄り駅まで行き、近くに契約してある駐輪場で自転車に乗り換え二十分。

 職場についた自分がそのまま事務室に行こうとしたところ、同僚である戦闘員七九二号に出会ったのである。


「えっ、お前財布落としたの?ばっかじゃねぇの?」

「うるせぇホモ野郎」

「お前言っていいことと悪いことがあるって知ってるか」


 さっきとは打って変わって低い声で詰め寄る同僚に、あれ自分もしかしてなんか地雷踏んだ?と内心冷や汗を掻きながらメンゴメンゴと返す。こちらをジト目で睨んでいたかと思えば、ちらっと右足に視線を向ける辺りが笑えない。


 そんな風に軽いやり取りをした後トレーニングルームに向かう七九二号を見送り、事務室に向かった。

 予め連絡してあったこともあり、本人確認はスムーズに済んだ。というか、身分証明書自体が財布の中にあるので顔と比べるだけである。財布を渡され、一応中身を確認し、特に問題もなかったので鞄に入れる。

 始末書の件は、傷病休暇中であることもあり休暇明けに再度詳しい説明があるということだった。早く治ってほしいと思ったら始末書が待ってるってマジか……

 既に休暇明けが鬱になっている自分に、事務員は更なる追い討ちをかけてきた。


「ああ、そうそう。それ拾って下さったのイーストウィッチ様ですよ」

「………………え」


 え。




 爆弾発言のダメージも冷めやらぬまま、とぼとぼと来た道を戻る。

 もうお仕事行きたくない。一生足痛いまんまでいい。頭の中で大人になりきれない自分が駄々を捏ねている。


 はあ、と溜め息を吐いたところで、話し声に気付く。流麗な、落ち着いていて優しげな声。

 いーさまだ。

 会えたら嬉しくて、でも今一番会いたくない人が思い浮かんで、思わず別の道に隠れる。


 話し相手はどうやら参謀様らしい。今度の作戦についての話だろうか。

 参謀様もまた、頭脳明晰容姿端麗と『ウィッカ』内では人気のあるお方だ。いーさまより頭一つ分とちょっと高い長身が並ぶと、とてもお似合いである。


 ああいう人が。気分が更に落ち込むのがわかった。ああいう人が、いーさまの隣に立てる人なんだろうな。

 少なくとも、敵から逃げ切ることもできなくて、助けてもらって、足を捻って、財布を落とすような奴ではないということは間違いない。

 ずりずりと壁を背中に付けたまま座り込む。

 あの時から、自分は何一つ変わっていないのだ。




◆◇◆




「うう…………」


 仕事をクビになった。

 高校生らしき不良グループにカツアゲされた。

 終電を逃した。


 意味がわからないくらいの厄日だ。今日の占いは絶対最下位だ。テレビなんて、疲れ過ぎてここ半年近く見れた覚えがないけれど。

 この時間でもきらびやかな大通りを外れて、路地に一本入ればそこはゴミだらけで臭いし暗い。路地の入り口にぶちまけられた吐瀉物を避けて奥に進むと、逃げるようにかさかさと聞こえてきたのは鼠かゴキブリか。

 ゴミ箱と階段の間にいい感じの隙間を見付けたので、腰を下ろす。スーツが汚れるのも気にせず、抱えた膝に顔を埋める。


 もう、帰ろうかな。


 上京してから二年。学校を卒業してから初めて入った会社で自分なりに頑張ってきたつもりだったが、求められているだけの結果も出せていなかったらしい。

 昼休憩に入った直後に呼び出され、罵詈雑言を捲し立てられた後、明日からもう来なくていいと言われ、言われるがままに出された書類にサインをした。

 そして昼飯を食いっぱぐれたまま午後の業務に入り、いつも通りにサービス残業を行って……今日はいつもと違って会社のポストに鍵を入れてきたのだ。


 ぐーぐーと鳴る腹を腿に押し付けて、こんな終わり方なのかな、と思った。

 仕事のこともそうだし、人生も、こんな風に。

 とにかく、もう頑張れないことはわかった。頑張ったって意味がない。頑張る理由がない。疲れるだけだ。


「大丈夫?」


 優しげな声に顔を上げると、一人の女性がこちらを覗き込んでいた。

 暗がりでわかりづらいが、白い肌にほんの少し薄い色の瞳。ハーフとかだろうか。

 ぼうっとそんなことを考えていると、女性の形のよい眉が困ったように下がった。


「立てる?」

「それは」


 無理かもしれない。

 だって、もう疲れてしまったのだもの。


 言えない言葉の代わりに、腹が大きくぐう、と鳴った。

 それに目を丸くした女性は、鞄に手を入れると何かを取り出し、こちらに手を出す。

 その様子をこれまたぼうっと眺めていたら、痺れを切らしたように手を掴まれ、拡げられた掌にぽとりと何かを落とされる。


「それを食べたら」


 飴かチョコか、個包装にされた濃紺色のパッケージ。


「立ち上がって、お風呂に入って、ぐっすり眠るのよ」


 月が出てきたのか、立ち上がった女性に当たる光がほんの少し強くなる。


「そうしたら、また頑張ればいいのだから」


 そうして女性は、ふわりと笑った。




◆◇◆




「八○一号?」


 はっ、と顔を上げれば、こちらを覗き込むいーさま。

 その麗しいお顔を直視してしまった自分は、思わず距離を開けようとして後頭部を壁に強打した。痛い。


「大丈夫?」

「大丈夫、です」


 情けない姿を見せている現状に比べれば。

 更に情けない言葉は心にしまって立ち上がる。いつの間にか話は終わったようで、参謀様の姿は見当たらなかった。


「暫く休暇ではなかった?」

「いえ、ちょっと……忘れ物を取りに」

「ああ、お財布」


 バレてる……頭を抱えて蹲りたい気持ちを必死に押し込める。というか、もしかして中見たんですかいーさま……

 恐る恐る見上げる視線に気付いたのか、いーさまは悪戯っぽく笑うと、白々しく言葉を紡いだ。


「落とし物を拾ったら一割貰えるのよ。どれくらい貰えるのか気にならない?」

「いや自分らより絶対お給料いいですよね?」

「それはそれ、これはこれ」


 歌うように言う姿もまたお美しい。それをこんな特等席で見られたのだから、なんかもういいやという気もしてきた。始末書くらい……!……始末書くらい……

 楽しそうないーさまだったが、きゅ、と顔を引き締め、少しだけ声を低くして言う。


「本当に、無茶はするものではないわ」


 その真剣な顔に、何を言っていいのかわからなくなる。

 確かに休暇中ではあるが、財布を取りに来るくらいで大袈裟では。


「どうしてあの時、私の前に出たの?」


 言われた言葉に、頭の中に浮かんだクエスチョンマークが数を増す。

 前に出た?それは違う。いつだって前にあるのはいーさまの背中だ。

 戦闘の初めは一般戦闘員から幹部、というように出動するという意味では前に出ているが、恐らくそういうことではないだろう。


 いーさまの言っている意味がわからなくて、あと麗しのお顔が近いのも落ち着かなくて、視線をあちこちに向け――右足を見た時にあ、と気付く。


「ええとですね、気付いたら体が動いていたと言いますか……」

「私が負けると思った?」

「そんな訳ないじゃないですか!」


 自分で出した声なのに、その大きさにびっくりした。目の前で叫ばれたいーさまは更に驚いただろうし煩かっただろう。近付いていた身を引くのが見えて、心の中で土下座した。


「す、すみません……えと、あの、そうじゃなくってですね、いや、いーさまが負ける訳ないっていうのは本当なんですが、」

「大丈夫よ、落ち着いて」

「あの、だから……本当に、何も考えてなかったんです。いーさまが危ないって思ったら、動いてて」


 今思い出しても本当にそれしか言えない。なんならその後は自分のことしか考えていなかったように思う。

 けれど後悔はなかった。


「だから、理由があるとしたら、いーさまが危ないかもしれないのが嫌だったん、です。多分」


 だからいーさまのことを考えなかったのだ。考えなくても大丈夫だと思ったから。

 本当は、自分が庇わなくても大丈夫だったということは自分でわかってる。だからこそ、あの行動には本当に意味がなくて――寧ろ、いーさまにこうして気にさせてしまったのだから、寧ろ悪手であったと言うしかないだろう。


 でも嫌だったのだ。いーさまが危ない『かも』しれない状況が。

 最高戦力であるいーさまが危ない状況なんて他にも沢山あるだろう。それこそ、一般戦闘員クラスでは動員されないような危険な作戦にも参加している筈だ。

 でも自分を助けに来たせいでいーさまがそんな状態になるなんて嫌だ。絶対に嫌だ。子供の駄々と言われてもいい。それでも嫌なのだ。


 だから自分はあの時頑張れたのだ。


 自分でも纏まらないまま出した答えを聞いたいーさまは、目を伏せたまま何も言わない。綺麗な扇形の睫毛が長い。

 沈黙が続くに連れ、だんだん焦ってきた。あれ?自分とんでもないこと言った?不敬罪はうちの組織導入されてなかったと思うけど、上司に対する態度じゃなかったよね!?


「八○一号」

「はい!?」


 動揺がピークに達しそうなところで放たれたいーさまの言葉に、声が裏返った。びしっと組織流敬礼が出たのは反射である。


「先にも言ったけれど、無茶はするものではないわ」

「はい」

「それでも無茶を通したいというのであれば、強くなりなさい」


 強くなる。

 それは決して簡単なことではない。

 けれど。


 かつて、汚れた路地裏で立ち上がれなかった自分を、もう頑張れないと諦めた自分を、連れてきてくれた力があった。


「あなたには、そうなれるだけの力があるのだから」


 そう言っていーさまはこちらに背を向けて歩いていった。

 動きの悪い頭が、少しずついーさまの言葉を咀嚼し――そして答えを出す。


 どう頑張ったって自分がいーさまの隣に立てるような人間になれるとは思ってはいない。

 それでも頑張るのは自由じゃないか。頑張りたいって思う気持ちは、悪いものじゃない筈じゃないか。


「いーさま!」


 自分が突然上げた声に、いーさまは驚いたように振り返る。


「自分!頑張りますね!」


 それは取り柄もない、一般戦闘員の、ただの独り善がりな決意でしかなかったけれど。




 あなたの笑顔が、いつだって自分に力を与えてくれる。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ