たそがれ磁石
姫野結衣はまたバックレた。
今回で八回目である。
俺は呆れていた。
椅子に座っていた俺はベッドに身を倒し枕に顔を埋めた。
スマホを取り出し、ロックを解き、メッセージアプリを開き、結衣宛てにバックレた理由を訊く。
腹立たしいことにメッセージの送信ボタンを押した瞬間に結衣の既読がつく。
その数秒後返ってきたメッセージはこうだ。
『こわい。むり』
俺は舌打ちしてスマホをスウェットのポケットに突っ込んだ。
「ならもっと早く連絡してくれよ……」天井にボソッと言い放った。
昨日、俺と結衣は、結衣の左耳たぶにピアス穴を開ける約束をした。
開けるくらいピアッサーを買って一人でやればいい。
不器用な俺でも昨年ピアッサー買ってから三分と経たずに左耳たぶに一つ開けたのだ。
もしそれが嫌なら医者にでもかかればいい。
そう言うと結衣は決まって「一人は論外、医者も無理。あの慣れた手つきは優しさのカケラもないのよ!」
と言う。
友達もだめ、あの人もこの人もだめだめ。結局最後には長い付き合いである男友達である俺に「最後の頼みの綱はあなたよ!」と頼みこんできたというわけだ。
で、最後の頼みの綱であった俺ですらこの通りだ。
耳に穴が開くのが怖いらしく俺の家から逃げ出したのが一回目のこと。
いや、正確には俺の家にすら来なかったのである。
つまりバックレたのだ。
そんな出来事がもう八回も続いた。
信じた俺がバカだと皆は思うだろう。
それが結衣の頼み方に問題がある。
幼気があるというか可憐というか、とにかく甘やかされた愛らしい少女のような、引っ掛かりのない美しさが結衣にはある。
そんな女に懇願されたら俺だって、いや、誰だって首を横に振れないだろう。
はっきり言うが、俺は結衣が好きだ。
結衣は「姫野総合製作所」という言わずと知れた大手製作所の社長令嬢だ。
たまたま親同士が昔からの仲という事で、十歳の頃結衣と出会った。
そして現在大学生に至るまで俺はずっと結衣が好きだった。
何度も告白を試みた。
けれど、お嬢様という所からなのか。
結衣の可愛さという皮の中に、秘められた凛々しさがあり、それに圧倒されて、いつも俺の気持ちをくじけさせた。
約束を破るという欠点を除いては才色兼備の結衣である。
なにより俺は失うのが怖かった。
生活レベルが違うとか、幸いそんなの眼中になかった。
恋仲になりたい気持ちはあるが、親しい友という間柄から一歩踏み出すことが、今日までどうしても出来なかった。
それにもし一度フラれてしまえば、もう二度と元に戻れない気もした。
このズルズルと引きずって九年の恋にけじめをつけたいという気持ちに悶えていた。
この"ピアス八回目バックレ事件"には流石にうんざりさせられるが、俺にできる結衣の希望は叶えてやりたい。
次の日俺は大学で早速結衣を見つけて尋問した。
結衣は購買で昼食のパンを選んでいる最中だった。
お嬢様という割には結衣の食事は庶民的である。
早速なぜ来なかったのかと問えば、結衣は「怖いんだから仕方ないじゃない」の一点張りだった。
相変わらずツンツンしてるな。
長い黒髪がサラサラとふれる頬がお餅のごとく膨らんでいたから、約束を守る大切さを優しく、且つ懇々と説明してあげた。結局結衣の頬は元に戻らなかった。
「別に無理して開けなくても良いんじゃないか?」
「いやよ。次こそ開けてちょうだい。週末空いてるでしょ。ユウくん」
「空いてるけどよ。またバックレるだろう。結衣ならフェイクピアスとかでも良いんじゃないか?」
「いやよ。大学生になってもそんな挟むやつなんて」
結衣はキッと怒りを孕めて俺を睨んだ。
それに怯んだ俺は結衣の手に持っているパン見て話題を転じた。
「メロンパン好きだね」
「ああこれ?うん。パン全般好きだけどメロンパンは格別なの」
「昼パンなら朝何食べるんだ?」
結衣は即答し、
「パン」
「夜は?」
「パン」
また即答。
「間食は?」
「パン。ずっとパン」
「白と黒色の動物は?」
「シマウマ」
「ワザとボケてるよね?最初から。ねぇ?」
思わず吹き出した。
そこはパンダだろ。
それに結衣は出るところは出て、へこむところはへこんでいる、そんなスタイルの持ち主だから、三食全てパンをかじってるなんてあり得ない。
「変なこと聞かないで。授業始まるからまたね」そう言い、スッと俺の左側を抜けて行ったその時だった。
「痛っ…!」
突如左耳を引っ張られるような痛みがじわりと走った。
なんだ今のは。
結衣の仕業か?いや、結衣は今俺の横を通り去っただけで何もしていない。
そもそも人に耳を触れられるような感覚は一切なかった。
ピアス穴痛めたのかな。俺はそう思った。
自分の耳たぶを優しくさすった。
空気中をふわりと漂っていた結衣の石けんの香りと共に、いつの間にか耳の痛みも消えていた。
※※※
「美味ーい!美味しいね」
「あのーお嬢さん、昼間に言った結衣の三食パン説が一日でかき消された件について一言どうぞ」
いや、分かってたけどね。
それだけスタイル良い身体が三食全てパンで構成されているワケがない。
「三食パンよ。これ二.五食目。あとお嬢様って呼ばないで」
「まだ言い張るつもり?一日何食食べんのよ?あと様はつけてねえ」
結衣と再び会ったのは今日の昼間に大学で会った日の晩だった。
『今日19時半に日吉駅の改札出て左側に集合。時間厳守よ。』
と放課後に結衣からのメッセージが来ていた。
結衣より先に授業が終わって帰宅してのんびり部屋 でゲームやっていた俺だったが、自由が丘に住んでいるため、待ち合わせの時間には余裕で間に合った。
結衣からの誘いはこの上なく嬉しかったが、メッセージに「時間厳守」書かれていて何か大事な用があるのではないかと少し不安な気持ちも混じっていた。
日吉で結衣と落ち合ってすぐに、この焼肉屋に連れて行かれた。
肉を網の上に置くと即座に「ジュッ」という音がした。
俺は、肉が泡を表面にちりちりと浮かべながら徐々に縮んでいく様子を観察して、一枚一枚裏返していった。
ピンク色で少し血混じりだった肉が次第に両面うすだいだいになってきたのを見ると、トングで肉を押してみた。肉の弾力がしっかり伝わってきた。
中もしっかり焼けているようだ。
「もう食べられるよ、結衣」そう言って肉を一枚掴み上げると、結衣は自分の取り皿をちょこんと持ち上げた。
そこに肉を置いてやると「ありがとう」と子供っぽく笑った。
「結衣って飯の時だと丸くなるのな」学校じゃあんなにツンツンしてたのに。今はまるで純粋無垢な少女のようだ。
「別に態度とか変えてないし……んー!美味しい!さすが焼肉奉行のユウくん」
「そんなんじゃないよ。ここよく来るの?」
「結構来るよ。誕生日もここでお祝いしてもらったことあるし」
「へぇ、焼肉好きなんだ?」
「うん……大好き」
結衣は頬を少し赤め頷いた。
女の子は焼肉が好みと言うには少し抵抗があるのだろう。
思えば、結衣と長い付き合いなのに、結衣の好物なんてろくに知らなかった。
当たり障りのない話をしながら肉を焼き、腹も少しずつ満たされたところで俺はだんだん焦れてきた。
ついに先程から気になっていたことを結衣に訊いた。
「なぁ、なんで今日飯に誘ったんだ?」
「なんでって?」
結衣は首を傾げた。
「だって一緒に晩飯行くなんて滅多にないじゃん。何か俺に用があるのかなって思って」
結衣と飯に行ったのは大学の入学祝いをファミレスで済ました四月以来だ。
「んー……」
結衣は何か考えてる様な素振りを見せて、肉のかけらを1つ口に入れ、ゆっくりと咀嚼してからこくりと飲み込んだ。
「特に意味ないよ」
「なんだよ。今絶対何か考えてたろう」
「そうだなぁ……強いていうなら、バックレた事に対してのお詫び?」
「何を今更……」
俺は苦笑してグラスに入った緑茶に口を付けた。
結衣はお詫びと言っていて今回の焼肉代を全額負担すると言ったが、さすがに申し訳なく感じたので、割り勘することにした。
結衣は割り勘をお会計の直前まで全く納得しなかった。
不満げにぶうぶう言い出し、終いには俺の財布を奪い俺が出した金を再びしまい込もうとしたが、隙を見て財布を取り返してお会計を済ませた。
「私がせっかく奢ってあげようと思ったのに」
結衣は店を出ても不機嫌なままだった。
「お嬢様にたからないよ。反省の意があるなら週末は必ず来いよ」
「行くわよ。行く。絶対に開けてもらうんだから」
「はいはい、じゃ家まで送るよ」
結衣の家は、この焼肉屋のある、放射線状に広がる賑やかな商店街のさらに奥にある。
街灯が多いため夜でも比較的明るいが、怪しい店のキャッチやナンパがいるから結衣1人で歩かせたくはなかった。
腕時計を見るともう9時をまわっていた。
結衣の家に歩を進めた瞬間、「待って」と結衣から発せられた声がかかった。
「食後の運動としてさ、ちょっと学内散歩しようよ」
「散歩?いいけど、こんな時間じゃ教室とか閉まってるぞ」
「いいのよ。ちょっとふらっと行って帰ろ」
散歩へ行くと決まると俺たちは、日吉駅を挟んで向こう側にある、俺たちが通う大学へ足を運んだ。
「うう…寒ぅ……」
「もう12月だしな。ここん所すっかり冷えてきた」
「見て。銀杏の葉も殆ど散ってる」
「本当だ。この景色にも見慣れちゃったせいか登校の時もあまり意識して見てなかった」
そう、普段はこの景色にも見慣れて落葉なんてあまり意識してない。
視覚的に落葉に気づきはするものの大して気にも留めない。
不思議だ。
もう長いこと結衣といるのに、同じ景色を何度も共有しているのに、結衣と見る景色は、どんなものでも、たとえ見慣れた景色でさえも新鮮味があり、美しく感じる。
なんで?なんでってそんなこと分かりきってる。何を今更。
星が音もなくまたたき、月は冴えに冴え切っている。
今しかない。ここで結衣に思いを伝える。
九年溜め込んできたこの気持ちを全て結衣に。
「結衣」
星空を見上げながら歩いていた結衣は振り向いた。
「あのさ、話があるんだ――」
「ねえユウくん、そのピアス、人にもらったやつでしょ?」
こっちを振り向いた結衣は俺のシルバーのフープピアスに目を向けた。
――身体の力が抜けた。胸に手を添えなくてもドッドッと鳴る鼓動が感じ取れるくらい緊張していた。
そんなどうでもいい事なぜ今聞くんだ。
「忘れた」
俺はしぶしぶ答えた。
「……え?」
「人にもらったかどうか憶えてない。ただこれ、気がついたら家にあって、付けてるんだけどもうボロいよな。サビかかってるし。近々新しいの買うから、それまでつけてるんだ」
「憶えて……ない……?」
「ああ。何か知ってるのか?まぁそれはさておき、伝えたいことがあるんだ」
今度こそ。
「ユウくん」
俺の名前を呼ばれた瞬間、俺は凍りついたように固まってしまった。
焼肉屋で見せた明るくて可愛い結衣の笑顔が嘘のように変わっていた。
結衣は続けて小さな声でなにか
言ったようだが、同時に車が通ったため掻き消された。
けど、唇の動きで何を言ったのかは分かったんだ。
結衣は最後に涙を浮かべ、確かにこう言ったのだ。
――かなしい。
結衣はそう言うと俺の左を抜け去っていった。
その瞬間、再び左耳が引っ張られたような痛みが走った。
痛みの原因は分からない。
そんな痛みより今は。
ただひたすらに胸が痛かった。
今日は約束していた週末。ピアスを開けるのを試みる日。
しかし、やっぱり。
姫野結衣はまたバックレた。
今回で九回目である。
ー第1部 完ー 第2部に続く。